主君と家来、弟子と師匠、歌の同志にしてライバル、後鳥羽院から見た藤原定家。

後鳥羽院御口伝(久松潜一編『中世歌論集』岩波文庫)より。
この口伝は、承久の乱(1221)以後、隠岐で成立とされていましたが、
近年は建暦2年(1212)ころの成立という説もあるそうです。
最勝四天王院の建立は1207年。


褒め称えながら貶してます。深いなあ。


「定家は左右なきものなり。さしも殊勝なりし父の詠だにも、あさあさとおもひたりしうへは、まして余人の歌沙汰にも及ばず。」
定家は、困った奴だ。あれほど優れた歌人だった父(藤原俊成、釈阿)の歌でさえ、「まあまあ良い」程度に思っているのだから、まして、それ以外の歌人の歌など、問題にもしない。


「優しくえみえみとあるように見ゆる姿、まことに有り難く見ゆ。道に達したる様など殊勝なり。」
優美で妖艶な体の歌を詠めば、実に希有のものになる。精進して、歌の道を極めたさまも、人並み外れてすぐれている


「歌見知りたる景気ゆゆしげなりき。ただ引汲の心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、ことはりも過ぎたりき」
しかし、歌の知識でわたしに適うものはない、とか言いたげな感じが、はなはだしい。
論争で自説を擁護しようとするときは、鹿を馬だと言い張るような有様だ。
その他人を無視する態度、理屈っぽさは、度が過ぎている。


「他人の詞を聞くに及ばず、総じて彼の卿が歌存知の趣き、いささかも事により折りによるといふことなし。」
歌については、人の言葉など、聞く気がないのだ。
だいたいあの卿の、歌のことなら何でも知ってるぜ、とか言いたげな態度には、まったくTPOの弁えというものが、ない。


「又ものに数寄たるところ無きによりて、我が歌なれども、自讃歌にあらざるを、良しなど言へば、腹立ちの気色あり。」
そもそも、歌人なのに、風流人としての嗜みに興味がないし、風流を分かち合う心とかもないから、自分で傑作と思ってない自作を人が褒めたりしたたら、若干、キレ気味になる。
なんなんだ、あ奴は。

つづく...
さて、こっからトーンダウンしていくわけですが。
だいたい恋歌というのはほぼみんな『通ひ路』の歌といえるし、また、百人一首は歴史と人間関係による配列になってるから、あらかじめ路が通いあってるわけですが、
でも以降、20~40番台なんかは、表面的な意味では、『通ひ路』の主題に、少なくとも、表面的には、あんまり関係ないです。残念。

凡河内躬恒の『置きまどはせる白菊の花』とか33紀友則「しづ心なく花の」とか、
とくに、路のモチーフは読めない。
だからあとは、わかりやすいのをてきとうにつまみ食いして、むなしく終わります。

28源宗于の「人目も離れ、草も枯れた山里」通ひ路の途絶。
32春道列樹「風のかけたる柵(しがらみ)は」
風が紅葉で川の流れに関を作ったよ。
風や川も「通ひ路」であり、そこに関所がかかったりします。川を流れる紅葉というのも、在原業平の歌以降、何回かでてきましたね。

36清原深養父「雲のいづこに月やどるらむ」月も旅をする。
34藤原興風「松も昔の」35紀貫之「花ぞむかしの」これらは「昔をしのぶ」
移ろいゆくもの、望郷の主題。

46曾根好忠『由良の門を渡る舟人梶を絶えゆくへも知らぬ恋のみちかな』
47恵慶法師『八重むぐらしげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり』
波間の小舟、交通の途絶えた山里の家。


折り返し地点近くにきて、48源重之の歌からは、また恋歌、摂関期の一流文学者が並ぶパートに。
51番「かくとだにえやはいふきのさしも草」非常に複雑でテクニカルな歌。
作者の藤原実方は、帝の御前で藤原行成と歌を巡って乱闘。
一条帝に「歌枕を見て参れ」と陸奥に左遷されます。なお、定家も若い頃に宮中で乱闘して蟄居した一人。

55藤原公任は和歌と漢詩のグレーテストヒッツ『和漢朗詠集』を編んだ大文学者。
大覚寺の古い滝を讃えた、上手いけどあんまおもしろくない歌ですが、「絶えた滝」と「名こそ流れてなほ」が、例によって、通ひ路。

60小式部内侍「大江山いくのの道の遠ければ」
まだ歩いたことのない路。
お母さんは遠くにいるけど、一人で平気です!という歌ですね。

62清少納言「逢坂の関は許さじ」
76藤原忠通「わたの原こぎいでてみれば」
78源兼昌「淡路島通ふ千鳥の」
83藤原俊成「世の中よ道こそなけれ」定家のお父さん。5猿丸大夫の歌に照応。
これは隠棲の主題に恋の余情を絡ませた歌。

93源実朝「渚こぐ海士の小舟の綱手かなしも」
96西園寺公経「ふりゆくものは我が身なりけり」小野小町の歌と同じモチーフ。
97藤原定家「松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ」
在原行平と須磨の光源氏。


この「通ひ路」「通ひ路の途絶」の主題は、最後の99後鳥羽院、100順徳院の歌にまでつながっていきます。
承久の乱に敗れた両院。後鳥羽院は隠岐に、順徳院は佐渡に配流になります。
どちらも承久の乱以前の歌ですが、百人一首は承久の乱以後の成立で、最後にまた、流刑・望郷のイメージが立ち現れることになります。
政治的な理由から、乱の後、後鳥羽院、順徳院に接触することはなかった定家ですが、歌の中では、「通ひ路」は絶たれていないのだ、と言いたかったのかもしれない。三笠の山の月が、唐で見た月と同じ月であるように。

後鳥羽院の歌は「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物を思ふ身は」。
順徳院歌は「ももしきや古き軒ばのしのぶにもなほあまりある昔なりけり」。
さて、百人一首における『通ひ路』、いい加減な話はまだまだ続く。

14番源融の自宅は陸奥塩釜の風景を再現して名高い、六条河原院。
基経は右大臣のくせになんで陽成院の摂政なんだ! 私は左大臣で、皇族の血を引く源氏なのに... という、世をすねた自宅引きこもりが、歌枕への風雅な隠棲でもあるわけです。

定家がそこまで想起したのかはわかりませんが、でも、なんで王朝史・和歌史回顧の百人一首に、陽成院の歌を採ったんだろう、と。
陽成院は歌会を開催したり、文化的な素養があったらしいですが、残された御製は、この「こひぞ積もりて」ただ一首しかない。
どうしても定家は譲位させられた天皇とその周囲の人々を並んで配置したかったのでしょうか。

で蟄居、隠棲、あるいは、政治的失意。
源融の場合は、政治的失意というだけではなくって、歌枕を模した河原院への引きこもり、光源氏のモデルの一人です。だから、単なる失意だけではない。

伊勢物語や源氏物語も藤原定家の御子左エコールにとっては、重要な古典です。
百人一首では流刑とか蟄居というのが、在原業平の東下りや、光源氏の須磨隠棲とも重ね合わされ、「通ひ路の途絶」=政治的な失意というのはまた、流謫の貴公子の面影、にも読み替え可能なわけです。


それで、以降の歌は、流謫の貴公子というイメージを巡って展開します。
16番在原行平の歌「まつとし聞かば」は、因幡の国に赴任する際の別れの歌。
まあ旅、望郷の主題ですね。これはもう、「通ひ路」。

行平は文徳天皇の代に須磨に一時蟄居させられ「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ詫ぶと答へよ」と詠んだ。
この人もまた光源氏のモデルの一人ともされ、そういう意味でも「通ひ路/貴公子」の主題系につらなるわけだ。
実際は弟の業平ともども政治的に不遇ということはなかったらしいけど。


17番在原業平、行平の弟、もちろん伊勢物語の主人公とされる人物。
「からくれないに水くくるとは」では、紅葉の葉が竜田川を紅く染めて流れていく。
まあ強引だけど、紅葉に染められて流れる川/あるいは川を潜る紅葉は、「通ひ路」だろう、と。強引だけど。でも、この歌は32番春道列樹の歌にもつながっていく。


18番藤原敏行の「夢の通ひ路」以下、テーマは男女が逢う、恋の「通ひ路」に移る。
以下はもう面倒くさいので省略。

それで問題の、22番文屋康秀「むべ山風を」23番大江千里「わが身ひとつの秋には」あたりから、「通ひ路」、ないですね...
月を見る大江千里の視線は、通ひ路だ」、とか、言い張りたいが、無理矢理すぎる。

これらの歌そのものを離れれば、こじつけの「通ひ路」を渡すことは可能。
文屋康秀は三河国に赴任するときに小野小町を誘ったという伝説もあって、小町の返歌とされるのが、古今和歌集の
 わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ
誘う水にしたがってどこまでも漂う浮き草。

大江千里は官人としては不遇で、古今和歌集、
 あしたづのひとりおくれてなく声は雲のうへまできこえつがなむ
後撰集雑部に、
 流れての世をもたのまず 水の上の泡にきえぬるうき身と思へば
みたいな述懐歌がある。

百人一首では政治的に不遇な人が目立ちますね。そういう人が文芸に志すとかいうこともあるだろうけれど。


24菅原道真は旅の途中に神に紅葉を手向ける歌。
和歌が隆盛した宇多帝の時代の人。
この歌には旅、交通の主題があって、また作者は、流謫、望郷の主題圏にある人物でもある。つまり901年の昌泰の変、藤原基経の子である時平の策謀によって太宰府へ左遷された。

25三条右大臣藤原定方、紀貫之、凡河内躬恒ら古今和歌集の中心人物の後援者。
恋のつてとして「さねかづら」をたぐる、ってのはまあ通ひ路つっても、強引だ。
26貞信公藤原忠平は時平の弟ですが、道真と仲が良かった。この歌は道真の紅葉と響き合う内容になってる。


つづいちゃう
具体的な話にもどって、
6大伴家持「鵲の渡せる橋」が天上の恋の、また宮中への「通ひ路」であり、
7安倍仲麿の「月」が唐と奈良の「通ひ路」である、というはなしでした。

次の8番、喜撰法師のユーモラスな「わが庵は都の巽しかぞ澄む」。
どこに「通ひ路」があるでしょうか。
「世を憂し/うぢ山と人はいふ」という隠者の歌ですから、世、都からの「遠離」という主題が出てます。すなわち通ひ路を絶ったわけです。
ここでは、前歌に表れていた、通ひ路の途絶と、それに伴う望郷の念が、通ひ路を絶ち、穏やかに自足した、移ろわぬ心境、と 読み替えられています。


さらに、9番小野小町歌の「花の色は移りにけりな」。
「通ひ路」は見えないけど、前後の歌との関係で読めば、移ろうもの、時間の経過、過去と現在の通ひ路とかこじつけられなくもない。

そして10番蝉丸「行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」。
例の主題系は、通行し、移ろいゆくものと、それを留める「関」に変奏されました。
小町の「移ろひ」への物憂げな嘆きは、興のある景として、おもしろく眺められている。もちろんこれを、会者定離などと読むことも可能ですが。


そして11番小野篁「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと」
俺は島々の間を、大海原に漕ぎ出して行ったと、あの女性には伝えてくれよ、
海士の釣り舟よ。
誇り高い虚勢ともいえるし、また、大海に分け入っていく舟の寂寥もあります。

遣唐使制度の不正に反抗、流罪になった反骨の男の歌。
百人一首においては、7番仲麿歌の、わかりやすいバリエーションですね。
今度は、天災により通ひ路を絶たれた男ではなく、通ひ路たる舟によって、どことも知れぬ海の彼方に向かっていく男の姿です。流刑者である男にとって、この「通ひ路」は、すぐに途絶することになります。

また、ここでは「通ひ路」が政治的な失意の象徴となりますが、このことは以降の歌において、重要です。


次の12番僧正遍昭の歌では、「通ひ路」は閉じられることになりますが、
これは前の歌から一転して、雅びでちょっとユーモラスなもの。
「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばし留めむ」。

陰暦11月宮中五節会の舞姫たちを天女に見立て、
よ、乙女たちを留める天空の関所をしばし設けてくれよ、という歌。
前の歌の「通ひ路」は政治的な失意でしたが、ここでは、それが風雅なものに再び読み替えられます。


13番陽成院「筑波嶺のみねより落つるみなの川こひぞつもりて淵となりぬる」
男体山と女体山の二つの頂きを持つ常陸国筑波山。万葉集巻9の高橋虫麻呂の歌には、筑波山の歌垣が詠われている。「みなの川」を「通ひ路」と読んでみる。強引。
「みなの川」は「男女川」で、ここでは男から女への恋=水の流れ、でもそれは積もって静かな淵となっている。恋心は通いあったのか、そうではないのか。

陽成院は、少年のうちに「暴君」として藤原基経に排除された天皇。
なお15番の光孝天皇は、基経が次に擁立した天皇で、即位時に既に55歳でした。
そして14番河原左大臣源融は、陽成院の代に藤原基経と対立し、自宅に蟄居した人。また、光源氏のモデルの一人とされる高名な風流人でもある。
ここらへんの並びは、人と人との関係が歌の配列の根拠になってるようです。

つづく~
安倍仲麿(700-770)は、元正天皇の代、養老元年(717)に、十七歳で第八回遣唐使として唐に渡ります。
天平勝宝5年(753)、帰国の船が難船。漢学の才に秀でた仲麿は唐に官人として仕えることになり、生涯遂に帰国することは叶いませんでした。
仲麿が遭難により死去したという誤報を聞いた大詩人、李白は仲麿を悼む詩を作ってます。

あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

それでこの歌は唐での望郷の思いを詠った歌である、という伝説があります。
唐の空に見上げるあの月も、むかし奈良の三笠山で見たあの月と、同じ月なのだ…、と。

この歌の前に配された、6番大伴家持の歌は「かささぎの渡せる橋」の歌です。これは牽牛と織女の間に渡す、天の川の橋でもあり、また「雲の上」への橋である、宮中の階(きざはし)でもあるとされます。

ここでおもしろいのは、6番家持歌の主題が、彼方と彼方を結ぶ「架け橋」であり、
続く7番仲麿歌は、(伝説を踏まえれば)、唐と日本との架け橋の途絶を詠った歌であることです。ただし途絶といっても、見上げる月はイメージの中において、やっぱり、彼方と彼方をつないでいるわけですが。


この「架け橋」とその「途絶」、というイメージは、百人一首において、繰り返し反復・変奏されていく、ように見える。まあ幾つかの歌についてのはなしで、全部が全部という訳じゃないですが...

「橋」が喚起するイメージは、距離が結ばれること、結ぶこと、その結ぼれが途絶えること、断つこと、あるいは移動、はたまた、その移動の不可能、などなど、ですよね。
そういうイメージを、また別のイメージに読み替えるならば、それは、舟であってもいいし、「通ひ路」であってもいい。川でも、風であってもいい。
とりあえずそれを「橋」より一般化して、「通ひ路の主題系」とか、もっともらしく、呼んでおこう。

それで、通ひ路が途絶したまま取り残される、ということは、失望の体験かもしれないし、あるいは彼方に恋い焦がれる、甘美さを伴う体験かもしれない。
そういう風に、いろいろ意味合いをかえながら、交通のモチーフが、百人一首のいろんな歌に見られる。ビールを痛飲して、いい気分で書いてます。

まあ、こういう主題論は、あいまいな話で、なんでもこじつけられます。
後述しますが、ぶっちゃけ22文屋康秀の歌のあたりとか、こじつけがたい歌、というのもある。雲をつかむような話。

だから、定家がそんなモチーフを意識していたかはわからないし、どっちかというと、意識してなかったと思う。

ただ、百人一首は、王朝史・王朝文学史の回顧を意識して、その渦中の歌人たちの、人と人とのつながりに配慮して編まれています。
そういう構想の中で、歌と歌の趣向(情景)の取り合わせを意識したり、伊勢物語や源氏物語『須磨』の面影付けをしたりしたら、結果として、道とか橋が出てきちゃった、とかいうことだと思う。

そういう「通ひ路」が、幾つかの歌に登場して、いろいろかたちや意味を変えながら、最終的には、現代から「むかし」へと続く「通ひ道」、人と人とのつながりとしての「通ひ路」として、最後の後鳥羽院、順徳院の対へと収斂していく、ように見えます。

つづく~
7あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも/阿倍仲麻呂

百人一首の開巻から、この7番安倍仲麿の歌までは、天智天皇、持統天皇、柿本人麻呂、山部赤人、猿丸大夫、大伴家持と並んでいます。

つまり最初に、天智からはじまり、その娘であり天武朝を継いだ、持統を配している。
天智天皇は、平安時代の皇族・貴族に、皇統の直接の祖として崇敬されていた。
記紀的な、神話的起源よりも当時の人々にとって、もっと身近で具体的な「皇祖」だったわけね。

また、天武・持統朝は、「歌聖」柿本人麻呂の時代。
人麻呂はこれまた平安歌人にとっての和歌の直接の祖として信仰されていた。
藤原顕季が1118年に創始した「人麻呂影供 ひとまろえいぐ」という、一種の歌道における宗教儀式もある。
歌の道を「山柿の門」ともいいますが、人麻呂の次には歌聖として人麻呂と並び称される山部赤人が配され、最後に、万葉集をまとめたと思われる大伴家持が来る。

猿丸大夫は伝説上の存在に過ぎないのですが、ここに配されているのは、とりあえずは、最初の勅撰集である古今集仮名序に、古えの大歌人として名前が出てくる、と納得できます。

藤原定家は、百人一首を定家にとっての現在にいたる、王朝史、王朝文学史の回顧として意図しているわけです。
でもこの7番歌から、もう一つの隠れた主題系(?)が出てくるように思います。 つづく
夜をこめて鳥の空音は計るとも世に逢坂の関は許さじ

後拾遺集雑部の歌。
中宮定子の後宮の知的で華やかな雰囲気は、男性貴族にも大人気。
清少納言の『枕草子』には、その定子サロンの華やかで楽しげなさまが描き出されている。
後に道隆、伊周、定子たちが失脚し、道長は、娘の彰子の一条帝后としての立場を盤石のものとしたけれど、男性貴族の中には当初、「定子さまのサロンより、マジメっぽくて、つまんない」と思った人もいたようです。一条帝は定子を喪った悲しみを忘れられないようで、彰子腹にはまだ皇子出生がない。やばいと。
それで道長・倫子夫妻は、彰子サロンの看板として紫式部などの才能ある女房を送り込む。それはこの歌より後のはなし。


この百人一首の歌は、清少納言藤原行成に贈った歌。
藤原行成は、能筆として『権記』の著者として知られ、藤原道長の側近だった人物。
行成が宮中の宿直のとき、清少納言と一晩中物語などをして、朝、宮中の物忌みのために帰った。それで朝のうちに、清少納言のもとへ手紙が来る。

「鳥のこゑにもよほされて...」
お別れするのはつらかった、しかし鶏が朝を告げるので、しかたなく...
これは後朝(きぬぎぬ)の手紙のつもり。

正妻として一緒に住んでる場合は別として、当時は通い婚だから、男が夕暮れにやってきて、朝に自宅に帰る。それを後朝の別れっつうのだが、男はすぐさま女に手紙を届けないといけない。別れのつらさを詠んだ和歌を添えたりして。
恋人気取りの「昨日の夜は、素敵だったよ...」的な手紙。
二人は恋人でも何でもないわけですが、要は、行成がボケてみせてる


それで清少納言の返信は、「夜ふかかりける鳥のこゑは、函谷関(かんこくくわん)のことにや」。
夜中なのに鶏が鳴いたの? それって、函谷関の話?

これは司馬遷『史記』の「鶏鳴狗盗」の故事。
中国戦国時代の政治家、孟嘗君はBC299、讒言によって、仕えていた秦の昭襄王に追われる身に。
国境の函谷関まで逃げて来たものの、関は夜間、厳重に封鎖されており、絶対絶命。
だが役立たずと思われた食客の物まね名人が鶏の鳴き真似を披露、無事に函谷関を越えて逃げおおせたのだった。

ここで清少納言は、「せっかくおもしろい話をしてたのに、帰るの早すぎ」と言いつつ、行成の「恋」のボケを、漢文脈ではぐらかしてる

『堤中納言物語』で、「虫愛づる姫君」の扇に漢文が書いてある、という描写がある。およそ漢詩文というのは、男性貴族の公的な文芸であって、恋とか男女の間の雅びとは、ぜんぜん関係ない。だから「虫愛づる姫君」の漢文は、およそ姫君に似つかわしくない、奇行といえる。

清少納言はここで、行成のボケに対してボケを返してるわけだ。つまり行成の提示した恋のムードを、全然関係ない、漢学の話題に転じてしまっている。
そのボケは、お互い漢学の素養があるから成立する。ひょっとしたら、昨晩の2人の話もこんな感じだったのかも。


行成の返事は「これは逢坂の関に侍る」。いやいや、逢坂の関ですが。
さらにボケたおす行成。

「何を言ってるんだ、俺と君との仲を隔てる逢坂関のことじゃないか...」と。

清少納言の漢文脈の「関」を、再び和文脈に奪ってるのが、おもしろい。
「逢坂の関」、逢う(あふ)は、和歌では男女が逢うことの掛詞。

貴族女性は肉親、夫、恋人以外の異性には顔を見せません。男性とは几帳とか御簾とか、何らかの遮蔽物ごしに会話します。よく貴族女性が扇を持ってますが、あれは暑いからというより、顔を隠すため。
だから、「逢ふ」「見る」というのは、恋愛関係の意味がある。

ちなみに、後宮の女房は、身分の違う人間とか、男性が多数いる環境で働いているわけです。だから、身分の高い皇族・貴族に仕える華やかな職業であると同時に、しかし最高に気品ある貴族女性のすることではない、という通念がありました。
『紫式部日記』で紫式部が幾度も暗い気持ちを表明しているのは、そのため。


それで、清少納言の返しが、百人一首62歌、
夜をこめて鳥の空音は計るとも世に逢坂の関は許さじ
一晩中鶏の鳴き真似をしても、私とあなたを隔てる「逢坂の関」は通行許可を出しませんよ。
最後までボケだけで終わる会話。遂に函谷関の故事と逢坂の関が融合。清少納言の勝ち。


それでこの「許さじ」
清少納言が行成との恋愛/文学ゲームに圧勝したわけですが、恋歌の贈答ゲームといえば、アジアの古い風習に、「歌垣 ウタガキ、カガイ」というのがある。
沖縄でいう「毛遊び もーあしび」というのも同系の風習。

男女が野山、海辺に集まって、詠い交わす。歌を詠いかけられて、返歌できない者は、詠いかけた相手に身を任せないといけない。だから歌垣での返歌ってのは、相手の歌のことばを奪って、そんなヘタな歌では私の気は引けませんよ、みたいなものだったりする。

単なる合コンじゃないです。母系制社会におけるお見合いであり、一種の祭事であり、また歌や楽の伎芸を競いあう雅びな遊びでもある。「遊び」ということばには、「恋」という意味もあり、「器楽演奏」とか「風流のたしなみ」といった意味もある。

それで歌垣は日本の本州にもあった。
万葉集巻9。高橋虫麻呂の『嬥歌会日の為に筑波の嶺に登りて作れる歌一首』
「未通女の 行き集ひ かがふ かがひに 人妻に 吾も交はらむ 吾が妻に 人も言問へ
この山を 領く神の 昔より 禁めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言も咎むな」
乙女たちの行き集う嬥歌会(カガイ)、私も人妻と歌遊びをしよう。私の妻に、人も歌いかけよ。この山を支配する神が、古代からお許しになる行事だよ、今日だけは、見苦しいなどと、小言を言ってはいけないよ。


清少納言と行成にもどります。
平安貴族の男女の、恋歌贈答のパターンってのがあって、
たとえば男が、季節の景物にこと寄せて後朝の別れの辛さを詠う。
それに対して女は、あなたの辛さはその程度? わたしは身が焦がれるほど、こんなにあなたを想っているのに、と返す。相手の歌を歌で打ち返すゲーム。

清少納言と行成の贈答は、パロディとしてだけど、そういう恋歌贈答のルールに従っている。

平安時代の恋歌の贈答も、古代アジアの歌垣も、恋の歌いかけ(行成のは歌じゃないけど)に対して、その言葉を奪って相手をやり込めるゲームという形態は、同じ。
通い婚というのは、古代母系制と中世以降の家父長制のあいだに位置する。

歌垣習俗は、山岳の焼畑耕作民の文化がルーツと考えられるらしいです。そこからの伝統を想わせるものが、「稲の祭祀王」たる天皇制文化の中に残ってるという、ユーラシアの東の果て、日本文化のハイブリッドな性質を想像させられたりして、歴史ロマンですな。


百人一首ではこの歌は、56番和泉式部から、紫式部、大弐三位、赤染衛門、小式部内侍、伊勢大輔と続く並びの最後に置かれている。
「百人一首」のこの部分は、藤原定家の、摂関期の女房たちへのオマージュ。
源実朝『金槐和歌集』「雑部」から、秀歌というわけではなく、ヘンテコな歌を。

源実朝(1192-1219)は、源頼朝と北条政子の子で、鎌倉幕府の第三代将軍。宮廷文化に憧れ、和歌を藤原定家に師事。激動の政治情勢の中、28歳で暗殺された。実母の一族である北条氏は、おそらく事前に知っていた暗殺計画を、スルー。

●朝ぼらけ跡なき波に鳴く千鳥あなことごとしあはれいつまで

くどいほどの、「あ」段の頭韻で統一された上の句。しかし「朝ぼらけ」も「跡なき波」も「鳴く千鳥」も、どこかから寄せ集められた断片のようで、まだ、一首の歌としての意味も景も、描ききっていない。

上句の最後はとりあえず、「千鳥」の「い」段頭音で終わる。
すると、続く下句は、突然「あなことごとし」(ああ、大げさすぎる)と、投げやりな姿に変調し、歌は自壊しはじめる。
「あ」段音はさらに執拗に「あはれ」を引き出し、その執拗さを歌人は「いつまで」と歌いおさめる。その「い」音は上句末尾で変調をもたらした「千鳥」頭音と響き合う。

「和歌のおけいこ」にうんざりしてきた青年が、ノートに殴り書きした感じ。

ふざけた歌だけど、どこまで冗談なのか。
「あなことごとし、あはれいつまで」。苛立ちの表現、とも読めます。


●とにかくにあな定めなき世の中や喜ぶものあればわぶるものあり

「人心不常」という題で読んだ歌。これもヘン。
「世の中というのは、無常だ。幸せな人もいれば不幸な人もいる」

俗謡調の上句、定型に収める意志のまったく感じられない下句。
常識以前の、あまりに当たり前の内容を、何の意志も感じられない、あまりに当たり前な表現で詠っていることが、かえってその詠み手の、こちらからは見えない表情に疑念を懐かせたりもする。

「人心不常、だからなんなんだ」という投げやりさ、捨て鉢に居直っている感じすら想像され、そっぽを向いて目を伏せる青年の風貌も浮かんでくる。
わざとヘンに深読みすれば。

賀茂真淵は、この歌に○印をつけているそうです。この歌の何に対する○印なのだろうか。
藤原定家、藤原家隆、藤原(九条)良経という、三人の新古今歌人の歌を論じた『雪月花』跋文(ばつぶん、あとがき)の最後に添えられた歌。


「雪花月に加へられぬ夏、星の季節に、私は見ぬ世に向つてこれを選び得た幸福を告げたいと思ふ」
季節の優劣を競うというのは王朝の伝統的な主題のひとつ。
王朝四季の景物を象徴する「雪月花」ということばは、冬、秋、春の象徴。
夏だけがない。ということでこの歌「雪月花」をたたえつつ、だが「夏もよし」と歌い出されているのだと思う。

夏もよしつねならぬ身と人はいへたかねに顕ちていかに花月は
なつもよし/つねならぬみと/ひとはいえ/たかねにたちて/いかにかげつは


パッと見で、すごい歌だと思ったけど、そしてよく読んだら、解釈に悩む。
下手な考えで考えつづけてみたところ、

夏もまた良し。(ままよ)人ははかない身、とはいえ(無常を嘆くなら嘆け)、その人間が残した詩歌の、無常の世と隔絶した高みに面影を残して、いかに自然の美が...(鮮烈なことか!etc.)

みたいなかんじかなー、と思う。
なんにせよ、はかない身のヒト、そのヒトの営みの中に、それでも自然美の永遠性のようなものが輝いてるじゃないか、という歌だと思う。


あとは勉強中のおっさんが、文法とかつらつら考えてみた、どうでもいいメモ。
○「つねならぬ身」は「いろは歌」にも出てくる、「はかない命」「無常の身」。
○「人はいへ」で悩んじゃう。
命令文なのか、已然形で「言へど」、なのか。
命令文の高らかさも捨てがたいけど、切れが多くなりすぎ。
または、「恒ならぬ身と人はこそいへ」已然形係り結びの「こそ」省略形なのか。
○「夏もよし」の「よし」は「えい、ままよ」という副詞の「よし」なのか。
そうだとしても「夏も良し」の意味は、掛詞的にある。
 万葉集巻10
 人皆は 萩を秋と言ふ 「よし」我れは 尾花がうれを 秋とは言はむ
 みんな、萩にこそ秋があるという、ままよ、私なら、ススキの穂こそ秋だと言おう。
○「高嶺に顕つ」。
「顕つ(たつ)」は、現れる。「面影にたつ」の「たつ」。
はるか高みに、見える。
「高嶺」の連想で、「断つ」というイメージも読めるかも。
すると強引だけど、「高嶺に断つ」、無常の俗世と隔絶した美、という感じもうける。

○「いかに花月は」。
倒置法で「高嶺に顕ちて」にかかるのかもしれないけど、
むしろ「いかに」のあとに、鮮烈なことか、とか、永遠であるか、とか、美しい、
とか、そういう無数のニュアンスを省略しているのだと思う。


その後、塚本の弟子だった島内景二がどう読んでるのかを知りたくて、図書館で『コレクション日本歌人選019 塚本邦雄』を借りた。
この歌の項を読むと、三人の名前が物名的に読み込まれていることが解説されてた。
よしつね、いへたか、ていか、見たまんまですが、でんでん気づきませんでした。
さすがの超絶技巧。
でも「この歌の意味は、ほとんど考えなくてよい」という解説にはやや拍子抜け。
意味の上からも音韻の面でも格調高い歌だと思う。

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百人一首のメモ。
藤原俊成は藤原定家の父。名勅撰集『千載和歌集』を選んで、御子左家を歌の家として興した人。

「世の中の道」というのは政道とも読め「今の世の中は乱れておる!」と読めそうですが、下句を見れば、そういう意味はなくて、仏道のことです。
後鳥羽院は、この歌を本歌にしたような、政治的な歌を作ってますが。
奥山のおどろが下もふみわけて道ある世ぞと人に知らせむ

俗世には私の道はないのだ、そうおもう私の思いは山の奥の隠棲へと向かうけれど、
しかし、その山の奥にも、鹿が妻を慕うて鳴いている。

言ってみれば、出家したいけど、家族が恋しい、って歌ですね。

俊成は人柄も当時の人々に慕われていたみたいですね。家族の仲もよかったみたい。

素朴な述懐歌に見えて、「思ひ入る山の」ってところが好きです。
心の奥山に、一頭の妻恋いの牡鹿が鳴いているわけです。