安倍仲麿(700-770)は、元正天皇の代、養老元年(717)に、十七歳で第八回遣唐使として唐に渡ります。
天平勝宝5年(753)、帰国の船が難船。漢学の才に秀でた仲麿は唐に官人として仕えることになり、生涯遂に帰国することは叶いませんでした。
仲麿が遭難により死去したという誤報を聞いた大詩人、李白は仲麿を悼む詩を作ってます。

あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

それでこの歌は唐での望郷の思いを詠った歌である、という伝説があります。
唐の空に見上げるあの月も、むかし奈良の三笠山で見たあの月と、同じ月なのだ…、と。

この歌の前に配された、6番大伴家持の歌は「かささぎの渡せる橋」の歌です。これは牽牛と織女の間に渡す、天の川の橋でもあり、また「雲の上」への橋である、宮中の階(きざはし)でもあるとされます。

ここでおもしろいのは、6番家持歌の主題が、彼方と彼方を結ぶ「架け橋」であり、
続く7番仲麿歌は、(伝説を踏まえれば)、唐と日本との架け橋の途絶を詠った歌であることです。ただし途絶といっても、見上げる月はイメージの中において、やっぱり、彼方と彼方をつないでいるわけですが。


この「架け橋」とその「途絶」、というイメージは、百人一首において、繰り返し反復・変奏されていく、ように見える。まあ幾つかの歌についてのはなしで、全部が全部という訳じゃないですが...

「橋」が喚起するイメージは、距離が結ばれること、結ぶこと、その結ぼれが途絶えること、断つこと、あるいは移動、はたまた、その移動の不可能、などなど、ですよね。
そういうイメージを、また別のイメージに読み替えるならば、それは、舟であってもいいし、「通ひ路」であってもいい。川でも、風であってもいい。
とりあえずそれを「橋」より一般化して、「通ひ路の主題系」とか、もっともらしく、呼んでおこう。

それで、通ひ路が途絶したまま取り残される、ということは、失望の体験かもしれないし、あるいは彼方に恋い焦がれる、甘美さを伴う体験かもしれない。
そういう風に、いろいろ意味合いをかえながら、交通のモチーフが、百人一首のいろんな歌に見られる。ビールを痛飲して、いい気分で書いてます。

まあ、こういう主題論は、あいまいな話で、なんでもこじつけられます。
後述しますが、ぶっちゃけ22文屋康秀の歌のあたりとか、こじつけがたい歌、というのもある。雲をつかむような話。

だから、定家がそんなモチーフを意識していたかはわからないし、どっちかというと、意識してなかったと思う。

ただ、百人一首は、王朝史・王朝文学史の回顧を意識して、その渦中の歌人たちの、人と人とのつながりに配慮して編まれています。
そういう構想の中で、歌と歌の趣向(情景)の取り合わせを意識したり、伊勢物語や源氏物語『須磨』の面影付けをしたりしたら、結果として、道とか橋が出てきちゃった、とかいうことだと思う。

そういう「通ひ路」が、幾つかの歌に登場して、いろいろかたちや意味を変えながら、最終的には、現代から「むかし」へと続く「通ひ道」、人と人とのつながりとしての「通ひ路」として、最後の後鳥羽院、順徳院の対へと収斂していく、ように見えます。

つづく~