昼こそは雲雀もあがれ日も霞め野なかの家の暮れて幽けさ
死にかはり生まれかはりて見し夢の幾夜を風の吹きやまざりし
(『白描』)
海鳥のこゑあらあらしおもひでの杳き(とほき)に触るる朝のひととき
いつの世のねむりにかよふたまゆらかまひるしづかに雷雲崩る
星の座を指にかざせばそこここに散らばれる譜のみな鳴り交す
われの眼のつひに見るなき世はありて昼のもなかを白萩の散る
(『翳』)
わがために南無阿弥陀仏と言ひし夜も人は眠るかその夜のごとく
指針尖(はりさき)に脳の重さの顫ふ(ふるふ)とき黄金(きん)の羽虫は息絶えにけり
しづしづと霧が占めくる巷には朝を失くして鳴かぬ玄鳥(つばくら)
(白描以後『翳(二)』)

明石海人(1901-1939)は静岡県沼津市生まれの歌人。
小学校教員として勤務する傍ら、美術、音楽、文学に親しみ、妻との間に二女を儲けた海人は、大正15年(1926)25歳のときにハンセン病と診断されます。
現代ではハンセン病は治療法が確立され、また感染力が非常に低い病気であることが知られていますが、明石海人の時代には、患者は「隔離」され、また結婚は「断種」を条件に許されていました。
「ハンセン病とは天刑などではない、伝染病である」という、「科学的な」言説が、人間が「人間の類を逐はれ」ることを正統化する、という状況があったわけです。
「健康」とか「幸福」とかいうのが、「管理」と同義語になると、怖い。

闘病生活の中で作歌に集中するようになった海人は、昭和10年(1935)初頭、短歌結社「水甕」に入り、その年の5月には前川佐美雄(1903-1990)の『日本歌人』に移ります(同じ年、海人は病状悪化により視力を失ってしまいます)。前川佐美雄は日本浪漫派、30年代モダニズム短歌の推進者で、後の塚本邦雄、山中智恵子、杉原一司などの師でもある。
ちなみに海人は万葉集を筆写して研究されたみたいですが、ひたぶるな赤茄子が出て来るのは斎藤茂吉の影響でしょうね。
昭和13年(1938)改造社『新万葉集』に11首が入選したことで明石海人は脚光を浴び、その注目を受けて発表された改造社からの歌集『白描』は二十五万部を超えるベストセラーとなったそうです。
『白描』の興味深い特徴として、全体が第一部『白描』と第二部『翳』に分かれていることがあります。
第一部『白描』では、ハンセン病の人々の発病から療養所での日々に至るまでをリアリズムで描いていきますが、第二部は、第一部の現実が象徴的に扱われる、詩的な世界になっています。

岩波文庫版の村井紀の解説では、この二つの作風について海人が意識的にとった方法だったことが説明されています。
「白描」というのは大和絵の線画のこと、翳とは、それに対して、曖昧な象徴の世界を意味する。
つまり、『新万葉集』の国民歌人として、「ハンセン病歌人」として、世間や同じ病に苦しむ人たちに向けた、ある意味公的な世界としての第一部と、それを一人の詩人として個人的に探求している第二部、ということです。

第一部『白描』も、偉大な歌人による優れた歌集だと思うけれど、そこで詠われる同じ出来事や風景は、この文庫後半の、第二部『翳』や、白描以後の歌では、もっと強烈な叫びとして詠われているようで、やっぱり『翳』の方向性の方に明石海人のすごさが出ていると思います。
シルレア紀の地層は杳きそのかみを海の蠍の我も棲みけむ
あらぬ世に生れあはせて今日をみる砌の石は雨にそぼてり
煙突ありあがる煙ありめぐる日にみじかき影を地におとせり
かたつむりあとを絶ちたり篁の午前十時のひかりは縞に
傷つける指をまもりてねむる夜を遙かなる湖に魚群死にゆく
こともなき真昼を影の駆けめぐり青葉のみだれいづこに果てむ
更くる夜の化粧はさむし灯のそこに己が肉喰む鬼ともならず
口語モダニズム短歌の手法を使った、読むのが苦しくなるほど激しい歌もあります。
といいつつ、その中でもおとなしめの歌ばかり引用してしまったけど。
昨日こそ四方が失せたと目をさまし空には無頼の花びらばかり
軽戦車重戦車など遠ざかり花びらを啖ふ子犬と私
あきらめか何かわからぬ褪せた血が凩よりも暗く流れる
墜ちてゆく穴はずんずん深くなりいつか小さい天が見えだす
霧も灯も青くよごれてまた一人我より不運なやつが生まれぬ
つのりくる如法の闇にまみれつつ身よりくされし錆掻きむしる
夜一夜に壁の羽虫を刷きおとし地平きびしくむき直り来ぬ
童心は寝ものがたりにをののきぬ月の暈には雨の星一つ
たましひの寒がる夜だ眠つたらそのまま地獄に墜ちてしまふ夜だ
とある夜の透き眼の色幾世経てまのあたりなる花を誑る
おほきな蜘蛛が小さい蜘蛛に噛みついたおれはどろんと赤い日を見た
嚔(はなひ)れば星も花弁もけし飛んで午夜をしづかに頭蓋のきしむ

つぶらなる朱の果ひとつうつつなれ瞬く間をも消えゆかむとす
息の孔潰えむとするこの夜をことさらに冴ゆる星のそこらく
もし『翳(二)』の方向性を前面に出していたら、絶対にベストセラーにはならなかっただろうし、今日明石海人の名を知ることもなかったのかもしれないけれど。
明石海人は、人々に語りかけるように詠うこともできたし、心のままに叫ぶこともできた。多様な文体を使い分けて、短い生涯にすばらしい歌をたくさん歌った歌人だったと思います。
死にかはり生まれかはりて見し夢の幾夜を風の吹きやまざりし
(『白描』)
海鳥のこゑあらあらしおもひでの杳き(とほき)に触るる朝のひととき
いつの世のねむりにかよふたまゆらかまひるしづかに雷雲崩る
星の座を指にかざせばそこここに散らばれる譜のみな鳴り交す
われの眼のつひに見るなき世はありて昼のもなかを白萩の散る
(『翳』)
わがために南無阿弥陀仏と言ひし夜も人は眠るかその夜のごとく
指針尖(はりさき)に脳の重さの顫ふ(ふるふ)とき黄金(きん)の羽虫は息絶えにけり
しづしづと霧が占めくる巷には朝を失くして鳴かぬ玄鳥(つばくら)
(白描以後『翳(二)』)

明石海人(1901-1939)は静岡県沼津市生まれの歌人。
小学校教員として勤務する傍ら、美術、音楽、文学に親しみ、妻との間に二女を儲けた海人は、大正15年(1926)25歳のときにハンセン病と診断されます。
現代ではハンセン病は治療法が確立され、また感染力が非常に低い病気であることが知られていますが、明石海人の時代には、患者は「隔離」され、また結婚は「断種」を条件に許されていました。
「ハンセン病とは天刑などではない、伝染病である」という、「科学的な」言説が、人間が「人間の類を逐はれ」ることを正統化する、という状況があったわけです。
「健康」とか「幸福」とかいうのが、「管理」と同義語になると、怖い。

闘病生活の中で作歌に集中するようになった海人は、昭和10年(1935)初頭、短歌結社「水甕」に入り、その年の5月には前川佐美雄(1903-1990)の『日本歌人』に移ります(同じ年、海人は病状悪化により視力を失ってしまいます)。前川佐美雄は日本浪漫派、30年代モダニズム短歌の推進者で、後の塚本邦雄、山中智恵子、杉原一司などの師でもある。
ちなみに海人は万葉集を筆写して研究されたみたいですが、ひたぶるな赤茄子が出て来るのは斎藤茂吉の影響でしょうね。
昭和13年(1938)改造社『新万葉集』に11首が入選したことで明石海人は脚光を浴び、その注目を受けて発表された改造社からの歌集『白描』は二十五万部を超えるベストセラーとなったそうです。
『白描』の興味深い特徴として、全体が第一部『白描』と第二部『翳』に分かれていることがあります。
第一部『白描』では、ハンセン病の人々の発病から療養所での日々に至るまでをリアリズムで描いていきますが、第二部は、第一部の現実が象徴的に扱われる、詩的な世界になっています。

岩波文庫版の村井紀の解説では、この二つの作風について海人が意識的にとった方法だったことが説明されています。
「白描」というのは大和絵の線画のこと、翳とは、それに対して、曖昧な象徴の世界を意味する。
つまり、『新万葉集』の国民歌人として、「ハンセン病歌人」として、世間や同じ病に苦しむ人たちに向けた、ある意味公的な世界としての第一部と、それを一人の詩人として個人的に探求している第二部、ということです。

第一部『白描』も、偉大な歌人による優れた歌集だと思うけれど、そこで詠われる同じ出来事や風景は、この文庫後半の、第二部『翳』や、白描以後の歌では、もっと強烈な叫びとして詠われているようで、やっぱり『翳』の方向性の方に明石海人のすごさが出ていると思います。
シルレア紀の地層は杳きそのかみを海の蠍の我も棲みけむ
あらぬ世に生れあはせて今日をみる砌の石は雨にそぼてり
煙突ありあがる煙ありめぐる日にみじかき影を地におとせり
かたつむりあとを絶ちたり篁の午前十時のひかりは縞に
傷つける指をまもりてねむる夜を遙かなる湖に魚群死にゆく
こともなき真昼を影の駆けめぐり青葉のみだれいづこに果てむ
更くる夜の化粧はさむし灯のそこに己が肉喰む鬼ともならず
口語モダニズム短歌の手法を使った、読むのが苦しくなるほど激しい歌もあります。
といいつつ、その中でもおとなしめの歌ばかり引用してしまったけど。
昨日こそ四方が失せたと目をさまし空には無頼の花びらばかり
軽戦車重戦車など遠ざかり花びらを啖ふ子犬と私
あきらめか何かわからぬ褪せた血が凩よりも暗く流れる
墜ちてゆく穴はずんずん深くなりいつか小さい天が見えだす
霧も灯も青くよごれてまた一人我より不運なやつが生まれぬ
つのりくる如法の闇にまみれつつ身よりくされし錆掻きむしる
夜一夜に壁の羽虫を刷きおとし地平きびしくむき直り来ぬ
童心は寝ものがたりにをののきぬ月の暈には雨の星一つ
たましひの寒がる夜だ眠つたらそのまま地獄に墜ちてしまふ夜だ
とある夜の透き眼の色幾世経てまのあたりなる花を誑る
おほきな蜘蛛が小さい蜘蛛に噛みついたおれはどろんと赤い日を見た
嚔(はなひ)れば星も花弁もけし飛んで午夜をしづかに頭蓋のきしむ

つぶらなる朱の果ひとつうつつなれ瞬く間をも消えゆかむとす
息の孔潰えむとするこの夜をことさらに冴ゆる星のそこらく
もし『翳(二)』の方向性を前面に出していたら、絶対にベストセラーにはならなかっただろうし、今日明石海人の名を知ることもなかったのかもしれないけれど。
明石海人は、人々に語りかけるように詠うこともできたし、心のままに叫ぶこともできた。多様な文体を使い分けて、短い生涯にすばらしい歌をたくさん歌った歌人だったと思います。
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