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30年目のバリクバヤン 

「バリクバヤン」とは、フリィピンの言葉で「里帰り」の意味。
1978年にフリィピン人と結婚。今年2月にサラリーマンを卒業。
4月下旬から3週間の里帰りを予定しています。
出会い~結婚~現在までの38年間と里帰りの顛末を綴ります。

健保に移って約1年が経過したころ、勤労部直轄の子会社

の総務担当の命があった。

所在地は、川崎の尻手にあり6ヶ月以内に江東区の木場に

移転することが決まっており、企業の移転手続きが最初の

仕事になった。

1.取締役会の移転決議

2.法人の本社移転登記

3.経理・税務関係・社会保険関係の移転手続き

などで3ヶ月ほど忙殺された加えて30人程の従業員の

勤務・総務事務と移転に伴う有期雇用者の解約通知と

移転先への引越し手配など。

担当者は私一人で、代表取締役と本社関連部門との

調整実務などの経験が後々の業務に大きく役立った。

その後、この子会社の拡大に伴い、5年後に本社に呼び戻され

従業員の高齢化対策のキャリア開発・研修の事務局を担当

することになった。

かって私が従事していたカラーTV部門の海外移転に伴う国内

部門の縮小による余剰人材の再教育。社内再配置が主業務である。

この業務を担当しつつ47歳の時に、故あって中小企業にへの転職を

試み、所属企業のバックアップを受け現在の企業へ転職した。 続く

 

 

 

 

 

 

入社して13年が経ち、30歳になった時、社内異動の話があった。異動先は本社の

勤労部給与課(社員の給与計算・社会保険などの業務)との事。

基本的に他人の出来る事は、私にも出来るだろうと考えるタイプなので異動を

承諾する旨の返事をして時期を待った。この時の勤労部長は、私の入社時の

部署の係長だった方で心強かった。

ところが2・3ヶ月経っても異動が発令されないので所属長を通じて事情を確認

した処、私と交代する筈の人間が異動を断り、私の働く場所が無くなったらしい。

私は直ぐ旧知の勤労部長に連絡し、直談判をした。

・私は異動するつもりなので後任を手配し引継ぎを行っている。

・別に異動先に注文はつけない。

・要するに宙ぶらりんの状況は避けたい旨の話をした。

勤労部長は、私の立場を理解し、何とかする旨の約束をしてくれた。

 

それから1ヵ月後、正式に異動が決まり、勤労部健康保険組合事務室に配属

になった。スタッフ10名のまとめ役は、私の1年後輩で5年間一緒に働いた気心の知れた

仲間。いろいろ話した処、勤労部長は頭を悩まし部内の課長会議で私の件を話し、

引き取り部門を探したらしい。従って私の事は部内に知れ渡り、この先非常にラッキーな

展開になっていった。

 

健保事務室では、預かりの身で正式に割り当ての業務はなく。毎日他の人の手伝い。

従って残業もなく私はこの機会に会社近くの教習所に通い自動車免許を取得した。

それから本社事務部門(勤労部・総務部・人事部)の方との交流に心がけた。 続く

昨日、午後から上野公園で開催の「フリィピン・エキスポ2018」へ

妻と行って来た。

大勢のフリィピン人が来ていたが、比較的若い方が多かった。

10代・20代・30代のフリィピン人家族たちである。

食べ物の屋台が多かったが、フリィピン料理より普通の日本の屋台が

多いのでがっかりする。

それでも、妻は「ディノグアン」「ウベ」を買い、ご機嫌であった。

規模は、秋に比々谷で行われる「フリィピン・フェスティバル」の方が

大きいが、いろいろな場所でフリィピン関連の催しが多いのは結構な

事だし、それだけ多くのフリィピン人が日本で生活していることを実感した。

1968年4月に某工業高校を卒業。

早くに父親が亡くなっていたので、母や兄達を

助けたいと思い、正直職種や会社・業種を選ぶという

発想は無かった。

私は、学校に一番最初に来る求人に応募しようと決め、

無事にその会社に採用された。今では世界的に著名な

S社であるが当時は資本金32億程度の中堅企業であった。

 

本社は五反田にあったが、私は隣の大崎駅に程近い

工場でカラーTVのブラウン管製造に従事した。

7:00~15:00・14:00~22:00の勤務を1週間交代で行う

交代勤務であった。給料は標準的であったが、交代勤務

手当てと賞与が比較的高額だったので収入は割合多かった。

当時は、カラーTVが売れに売れ私達も徹夜。残業は

当たり前で忙しかったが、今振り返ると良い思い出である。

MADE IN JAPANのカラーTVは全世界に輸出されて行った。

工場のラインはドンドン拡大され大崎だけで4ライン。それでも

不足で国内は稲沢・一宮。海外も米国・英国に工場が新設。

一緒に働いていた仲間がリーダーやキィーマンとして各地に

赴任して行った。(後年この方たちのお世話をすることになるとは

当時は夢にも思っていなかった。)

拡大期の企業は、活気もありイキイキとしていた。 つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結婚し妻が来日した時(1978年)に、日本の生活に慣れるまで(3年間)は

子供は我慢しようと話し合った。

妻は10人兄弟、私は4人兄弟なので漠然としたイメージは子供の多い家庭で

あった。

1981年に長女が生まれ、1984年に長男が生まれた。

長女が生まれる半年前に私の母が亡くなった。

そのような環境なので出産・子育ては夫婦二人だけで対処した。

二人目の出産時に長女を1週間だけ私の兄夫婦に預けた。

妻も慣れない日本の育児に苦労したが私も家事に最大限の協力をした。

特に当時は紙おむつが普及する前なので布オムツの洗濯は大変だった。

 

子供の教育方針は、100%日本人として育てるということ。

そして現在、37歳と34歳になった。二人とも独身で結婚する気はないらしい。

妻と話すことは、子供は子供の人生を生きてくれればそれでよし。

我々夫婦は二人でこの先の人生を楽しもうと思う。

 

それでも男女の平均寿命や我々の年の差(4歳)を考えると、将来妻は

10年近くを一人で過ごすことになる。それが心配だが子供が二人いることが

唯一の救いである。