1968年4月に某工業高校を卒業。
早くに父親が亡くなっていたので、母や兄達を
助けたいと思い、正直職種や会社・業種を選ぶという
発想は無かった。
私は、学校に一番最初に来る求人に応募しようと決め、
無事にその会社に採用された。今では世界的に著名な
S社であるが当時は資本金32億程度の中堅企業であった。
本社は五反田にあったが、私は隣の大崎駅に程近い
工場でカラーTVのブラウン管製造に従事した。
7:00~15:00・14:00~22:00の勤務を1週間交代で行う
交代勤務であった。給料は標準的であったが、交代勤務
手当てと賞与が比較的高額だったので収入は割合多かった。
当時は、カラーTVが売れに売れ私達も徹夜。残業は
当たり前で忙しかったが、今振り返ると良い思い出である。
MADE IN JAPANのカラーTVは全世界に輸出されて行った。
工場のラインはドンドン拡大され大崎だけで4ライン。それでも
不足で国内は稲沢・一宮。海外も米国・英国に工場が新設。
一緒に働いていた仲間がリーダーやキィーマンとして各地に
赴任して行った。(後年この方たちのお世話をすることになるとは
当時は夢にも思っていなかった。)
拡大期の企業は、活気もありイキイキとしていた。 つづく