今日の感動あなたにもわけてあげたい「もひとつ」とは云わず。パート2。…プレイバックじゃねぇよ。 | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
   
どんな分野でも常識を覆すことは無理、不可能でも
自分の中で破壊することは可能だ。
俺も、いまの世間に合わせて生きることは困難。
協調性だとか調和とか「輪」だとか、「出逢いを大切に…」などという言葉でさえ
今はもう何かに踊らされるネタ のひとつに過ぎない。
巡り逢いは大事とは思うけど。
ただ、一人の人間の生き方が今、自分の目の前にいる人や関わってる人の
誰に受け入れられる・受け入れられないには関係なく
観たまま、聴いたままに感じたことをすべて自分から外へ出す。
とくに過去の問題については、ひとつひとつに丁寧な清算、決着…
もっと簡単にいうと、普通は簡単ではなさそうですが
現在の自分がどこからはじまってるのかを認識、自覚、確認するためには
どうしても捨てられない、消せない想いであっても
自分の中だけに残して置くよりは
どこかに書き留めるなどして、一旦は放出してしまえば
自分の中に残るモノは本当に必要なモノだけになるんじゃねぇのか? 
ということで、常識には囚われずに、他人にどう思われようと
気にせず、遠慮せずに、いろいろと書いてみる。
でも書く限りは読めた方がいい。なるべく。
どうせ、インターネットに流出されてるもんは、
その大半がクズでしかないのでとくに今の時代のアジア圏内においては。)
「何でもどうぞ.だ。
「ブログをはじめたけど書くことがない」
それは嘘。隠してることも、自分だけが悔やんだり嘆いたりした事実も
その昔、なにかを見て、笑ったことも泣いたことも怒ったことも
悩んだり、考えたり、驚いたり、性欲や食欲にしても 
心臓と肺と肝臓と腎臓と、お腹の腹筋が支えている胃とか大腸、小腸、膀胱、胆のう、
女性なら、子宮や卵巣もあるので
そういう臓腑が機能している肉体を持って生きて動いている限りは
何もないわけがない。
あるでしょ、なにか五つくらいは。誰でも。生きている限り。人間ならな。
   
と、ここまでを書いていて、
俺の頭の中にも、
「ああ、ここではもうちょっと丁寧な解釈やタトエバナシとかが必要だな…」
などと考えたりして、自分の知っている範囲で、
以前なら、スティングという外国のミュージシャンが
なにか異質な役を演じて、日常の自分にはどうにもならないことに
悩んだり考え込んだり、クスリに手を出したりするよりは
悪役でもオゾマシイ変質態であろうとも、そこで精神を発散させて
自分の生活では、すぐに役を切り替えてスッキリする…
とか、
ハリウッドスターやNYアクターズの基本中の基本で
演じることの努力ではなく、自分にしかできないリアルな表現? 
誰が観ても、それが単なる生業の芝居ではなく、
本当にその人がその内容に関わって生きているように観えてしまう演技? 
そういうことを、外国の映画っちゅうもんは、アメリカに限らず、
録る人も演じる人も真剣に取り組んでるわけだ。
最近の日本のテレビドラマや映画の中には、今はもうほとんどない。
ないどころか、数字を追い回して、それに踊らされて
どうでもいいようなクズな芝居や筋書きと段取が丸見えの
「この答案用紙に決められた答えを埋めなさい」類いの内容でしかない。
それでいて、韓国の方面のお涙チョーダイ路線系のドラマを観ると
エライコッチャ、エライコッチャ、エエジャナイカ、Aじゃ内科…
どいつもこいつも、どの人もどの蓋も、次郎もタロウもネコも杓子もコネもネマワシも
みんなで、黒船が来航した時代以上に騒いでみせる。
俺は、そんな世間に合わせて流されて、流行り廃りに溺れて生きたくはない。
自分が自分として生きるには、そんな暇はない。もっと忙しいんだよ。人間てもんわ。
昔はあったよ。この日本にも。
それは言葉でいうところの「芸術」だとか「アート」だとか、
暇な連中の評価、批評・批判の言葉や統計基準を基にした限定された価値観ではなく、
誰が観ても、聴いても、触れても、巡り遭っても
決して誰独りとして同じように感じたり理解するわけでもないのに
心のどこかに共通して共鳴や共感を覚えるような何かが、
人間が今よりももっと、自分自身が生きることに真剣に取り組んでいた時期、時代には
そういう確かな実感や感動、感激・・・・ああ、言葉ってのは不便だな。
そういう確かなモノが、誰の心にも自然に芽生えたり、湧き起こる瞬間があった。
映画や歌劇も、音楽や舞台も…、その他、
●●●●賞受症」として、どっかの書籍売り場の店頭で
「いま話題の本」「注目の一冊」などという売り出され方ではない、自分で見つけたの中には
それが小説であろうと戯曲であろうと、今よりもいっぱいあった。
そうしてそれが、アメリカの議会図書館の蔵書2000万冊以上の情報量として
約20テラバイトのデータの如く蓄積された中に埋もれても埋もれなくても
読む人、聴く人、奏でる人、観る人、観れない人にとっても、独りの人間の中では
それが素晴らしい感動や情熱とか、「ハマってしまう」衝撃だったりしたもんだった
   
んで、そういうことを『Bad Life 』という変な詩集のような、
「心の中身の寄せ集め・詰め合わせギフト」
のようなつもりの文庫本の中には、いっぱい書いておいた。
なんのために? 
みんなが忘れて失わないために。
しかも、読む人は必ず、自分自身の何かと照らし合わせて読める内容になってる。
というか、それを意図してるんだけど、
もっと風変わりなのは、その本を手にして…
自分の手で持ってみて、表紙を見た瞬間から、
何日か? 何時間か? 何分か、何十秒もしないうちに
自分自身の中の要らないモノが外へ出て 出方にもいろいろあるらしい。)
その肉体も心も、細胞も消化器官も、滞っていたり目詰まりしていた部分や箇所が
自分自身の力でスムーズに展開や循環の反復とか正常化、浄化…
などを促せるようにしてある。書籍 ほどのパワーはないにしてもな。)
しかも、誰もが手軽に持ち運べる文庫サイズで
必要なくなればスグにでもゴミ箱へ捨てても分別には問題なく 
環境にも優しい大きさと厚さの紙で出来ている。 

   
という云い方をしてみても、既に俺そのものが普通(?)ではないので
そんな異質なモノであるかどうかの説明も、
ここでは通じる人も通じない人もいるかも知れないけど
普通ではなく、ハンパではない。
しかも俺は、その本を、ほぼ自費出版として経済的に余裕がなかったので
500冊しか印刷できなかった。
申し訳ない。手にできなかった人は残念。今のまま苦しくても苦しくなくても
そのまんま死ぬしかない。
   
ああ、もっと通じねぇな。これじゃぁ。
でもね。そういう恐ろしい本なんですよ。¥550(税別)で。
   
んで、俺が先日、このウェブサイト上で、単なるブログサービスの中で、
   
    試しにどうなるか宣言してみたんだけど
    あれ からまだ2ヶ月しか経ってないのに
    世の中は、俺の周囲ばかりでなく、みるみるうちに
    今まで以上の激しく著しい変化になってきた。
    もうあと戻りはできない。

  
ということを前のページ にも書いた。
そして、
   
    俺は世界中の生命の一部であって、すべての人類の中の一人でしかない。
    そして生きるということは、答えが幾つか決ってる方程式ではないんだ。
    そういう意味で、俺が世界の最先端を行く世界の中心ということではない。
    主人公は常に、あなただ。
    なぜなら、あなたの人生だからね。
    俺の知ったことじゃない。
    区別がある。
    そして、自分で自分を救う…救ってからも、生きる義務がある。
   
ということを、春の日がスタートした日 に書いた。
http://ameblo.jp/badlife/entry-10029865953.html
んで、世の中は決して俺を中心にするのではなく
世界中に今、生きていてもいなくても人類を中心に物事の価値観とか常識を上まわるほど
大きく音を立てて何かが崩れ落ちる前兆の、
音も情景も臭いも感触も口の中に唾液が分泌されるかされないかのその瞬間も
今まではスロー再生中だった部分が明らかに、著しく大きく変化する方向へ向かってきた。
それを今、目に視えて判っている人も、世間の新聞や報道ニュース番組しか見てない人も
「いや、このまんまだよ」と、勝手に自分だけで納得してるつもりの人も納得してない人も
昨日と今日とでは全然ちがうはずだ。
そしてその違いには、その肉体と心、自分自身の未来への不安も、喜びや楽しみも
ハッキリとしてきている人もいるはずだ。
その割合も、昨日より今日の方が多くなってきている。わりいぃけど。
今まで通りにやりたい人にはザマミロだけど。
よかったね。今まで通りにやって行けなくて大変だった人には未来は明るい。
   
たとえばねぇ、人が自分自身の中で、何か限りなくパーフェクトに近い状態で
自分の周りの物事が進んでいることとか、そういう瞬間を感じられることが…
たぶん、今までも誰にでも在った…と思う。
その経験の数は、回数ではないんだけど、できることならいっぱいあった方がいい。
なぜなら、その時、その瞬間こそが、肉体的にも精神的にも
少なからず、心身ともに、
この地球上の全体の動き、この自然界とハッキリとしてつながっていたときなんだ。
んで、それは、どういうことかと云うと、
神に似せられて創られた人間の証のひとつ。子供のときは誰もが
そういう体験や経験とか、まだ余分な知識や常識で汚れてなかったときは、いっぱいあった。
でもそれをほとんどの人が、
「見失った」「忘れた」「忘れかけた」「あの頃はよかった」「懐かしい」「忘年会」「忘れねぇんかい?」…
などといった言葉の類いで、無責任にも獲り戻そうとはしてない。
その証拠に、最近の大人は俺も含めて、それがたとえ自分の子供であっても
子供と遊んでいるとスグに疲れてしまう。
昔はそうじゃなかった。そんなことはなかった。
 
   ###中略###
 
俺は今、「幼心に還る」とか、どこか学童保育 の指導員や保育士の会合で
赤組の連中に媚びうるように繰り広げられている福祉や
地域社会の運動?)の話をしてるわけじゃねぇぞ。
あんなもん大人達のくだらない話し合いや会議も、これからの時代を生きる人間には
もう役に立たない今まで通りの方法や策でしかない。
http://ameblo.jp/badlife/entry-10003006617.html
俺は逃がさないし、見逃さないし、もう自分からも逃げない。
大人の嘘は嘘。人間の本質は人間の本質だ。区別がある。
   
んで、この自然界の中に生きている、生かされているはずの人間には
そういうことでさえ、判らなく…非常に判りづらくなってきた。
…へぇこら世間サマに合わせて文章を書くのもてぇへんだな今の俺にはひと苦労だ。)
判りづらくなるどころか、ほぼ完全に見失って、中には放棄した者までいる。
そしてその怠け者の数も、とくにこの現代、とくに日本では昨日より今日の方が多い。
   
何がそこまで何を破壊したのか。
それについては、他のページ を読んでくれ。 …ください。
教育っちゅうもんは、とくに日本の場合は戦後、あらゆる人間の本来の営みを
ことごとく破壊してきちまったんだ。
食べることも、性についても、音楽も、芝居を観たり演じることも、芸術全般の世界をも。
何か伝統を受け継ぐなんてことも、もうメチャクチャにされて
そこで生きることも困難なほど、どこもかしこも、今まで通りではない。
そしてそういうことを判ってしまっている人が日本のインターネット上にも非常に少ない。
びびたるもんだ。
でも、そういう人たちと、なんとかしてつながりを持てる道具は、最早、インターネットしかない。
電車やバスに乗ってとか、自分でクルマを運転して誰に逢いに行くにも
肉体的にも精神的にも誰もが スグに疲れ果ててしまう ような時代。
インターネットというものはホントに便利なもんで、心の奇形を整える効果もある
でも俺は、常日頃、最近では、人間が産まれる前も産まれたあとも、
育つ場所がちがうということを強調している 。今は。
そのうち、この云い方も変わってくる。
恐ろしいと感じるだけの人も、そのまんまではない。
俺が「そのまま」にはしないし、させない。この命をかけて。
   
Bad Life ”という『本』(?)を出版する直前に
ニューヨークの貿易センタービルがあんなこと になって、
自由の国の象徴…、アメリカの摩天楼は音を立てて崩れ去り、
しかも、それは暗黒街の人達も活動しやすいではなく、
大勢の人が起きている時間帯の青空の下で繰り拡げられた惨劇だった。
俺はちょうど、その日、妻と結婚して間もなく、東京から佐渡へ遊びに来ていて、
『Bad Life』の原稿の最終チェック(校正とか)をやっていた。
ところが、あんなことが勃ってしまうと、「もうその原稿は旧い。
時代には合わない。人類に必要とされない。」
だからそのときになって、幾つかの場所を急いで書き直して、新たに書き加えたページもある。
出版社には、「今更になって…!なんですか!?」と叱られたけど、
幸い、考え方が柔軟な出版元と編集者だったので、俺の要望は、ほぼすべて受け入れられて
あの出版に至ったわけ。5年前に。
でも500冊。カネが無かったので。
普通は200~300が妥当らしいんだけど、俺は500冊の初版に踏み切った。
べつに貴重な本でもなんでもない。
どこにでもあるような個人的な趣味でモノズキが出した本と変わりない。見た目にはな。)
でも、それを手に取った人とくに誰からともなく書店で見つけて自分で購入したは、
10年先に心と身体がボロボロになった頃などに
そこではじめてぶつかる問題でも、
それが10年短縮して、スグ目の前に訪れて、
いま今それを「なんとかせにゃあかん」という気持ちにさせられる…ように書いてある。
軌道修正は早い方がいい。
   
♪曇りぃ、ガラスのぉ、窓を叩いてぇ、君のぉ、時計をぉ、とめてぇみたいぃ~ 
   
あの時代にボブ・ディランを崇拝して、それを歌った拓郎さんはもういない。
ところが、インターネット上には、ディランの『時代は回る』や、
コッキーポップ嬬恋本線会出身の、みゆきさんの『時代』や、
順子ちゃんのあとがマコちゃんだった人の一連の励ましソングを超越して
時代は変わるよ という歌もある。
そのほかにも凹垂れ とか、もういらない今日を乗り越えて とか…
「独りの人間なのに、どうしてそんなにたくさん?」
というほど、あの人のパワーは並みの人間ではない。
俺も、つい昨日までは、今ではそんなふうになってまで音楽を愛し、
歌いつづけ、LOVE SONG を歌うことも忘れずに今日まで生きている人が
この世の中に存在していた事実を知らなかった。
そこに世間的な言葉や解釈や比喩とか解説を加えると
「今の時代にあれほどピュアな慣性で、  おお、字をマチガイた。これでは、そこいらの連中と同じになっちまう。正しくは感性で、
そこにひたすらに情熱を傾けているプロの歌い手はいない」
などという云い方や言い回しになるのかも知れないけど
もうねぇ、今は、そういう問題 でもなくなってきてしまった。
覚悟の問題だ。
    
今この行を読んでるだけの人にとっては
個人的な単なる趣味とか適当にその辺にある価値観の類いでしかないかも知れないけど
ないモノはない。
どこにある? どこにあった? ないじゃん。 どこにも。
でも在った。なぜか、今でも、こんな時代なのに存在してしまった。
でももう 今は、 観れない
いつかまた 、いつの日にか、大勢の人が呼び戻す・・・・ああ、こっから先は書いちゃダメだ。
   
よし。俺は、なんとかして限界を超える。
なんとかして常識を覆す。
それに挑戦してみようと思う。
期間限定。期日を設定した方がいいか? 
いや、そこまで俺は、たいそうな人間ではない。
でも、俺の手から、無料で『Bad Life』を渡した人は何人もいない。
選んではいない。
でも特別な存在にだけ渡すし、最近は渡す必要がない人もいる。個人的に。)
限られた数でも、無駄に配る営業マンの名刺とはちがう。
たとえばそれは、俺がインターネット上でこうして有意義に、
『Bad Life』のつづきや解説も含めて、この、
Mind Resolve”を立ち上げさせてもらったその日
2005年の7月5日。その前後の週であっても、
その頃、読者のみなさんは、どこでどう、何をしていたのか? 
俺にとっては非常に重要なわけ。
なぜなら、自然界と人類の修復改善 を速めるには
もう時間がないからな。
   
   
   
   
今日も ここまで読んでくれて、どうもありがとう! 
   
そして、『Bad Life』を買ってくれた方、どうもありがとう! 
まだ買ってない人も、・・・・略。 
   
どこかの誰かのコンサートやLIVEステージの生の音を
その個人だけが何かの目的で隠密録音して
それが決してブートレグとしては世間に出回ってないモノのように
理想的には、
そういう意識での手に入れ方であってほしいので
今のところ、増刷は考えていません。あしからず。

   
   
じゃぁね…
   
   
…ああ、今日もコメント欄は、何年か先のその日まで空白かもな。
この手のネタでわ。
   
ああ、そうだっ! 
こんなことを云うとまた誰か何者か、脳無しの方には 
「キサマ様はいったいなにさまのサマだ?
などと言われる前に、そう思われるかも知れないけど
読んだのはあなた。
そして、読んでしまったあなたに
勇気があるとかないとか、警戒模様がどうのこうのの以前に
どのページにおいても、スパムの連中以外は、
おもわず何か書き込んでしまった瞬間の、
その次の瞬間には、すんげぇ変化が
あなた自身に在ってしまう事実も、俺は否定しない。
   
   
   
   
よし、これで今日も、随分と世の中の整理整頓を速めたな。
ある意味で、インターネットちゅうもんわ、こわいですねぇ。
そしてある意味で、俺はバカ? 
あのねぇ、よく世間では、今まで俺のことを
「アイツは馬鹿なのか利口なのか、どっちなんだ?」
そういうようなことをよく訊かされたもんだ。ひとづてに。
俺はどっちでもない。
正真正銘の人間。あなたとおなじ。
でも、ちょっとだけ、肉体と心のバランスの不具合が多い。
みなさんよりも。
そしてその修復改善が常人よりも、ちょっとだけ速い。
一応は、五体満足で、子孫繁栄の義務も果たしているので。
今んとこは。
ライセンス も遣いようだよな。
   
そういうことにしといてね。
   
じゃぁね。
 
ばいばい。
 
またね。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   ということで、コメント欄を参照。