時代は リスキー・ハート。 世界は… 哲(也)欠乏症。  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   2007-03-25 22:10:50
   
なにごとにおいても、こんなリスキーな時代、
思うがままに歌えるってことは
素晴らしいことですね。
http://home.p02.itscom.net/fighting/T.I2.html  2007.3.24
LIVE! 一週間前のメッセージを読んで
そう想いました。
 
かけがえのない時間。かけがえのない命。かけがえのない曲の数々。
その中から、なにを選んで、その夜、一日のしめくくりが
今のご自身のすべてをどのように表現されるのか。
普通にチケットを予約して、
普通(?)にワクワクして出かけるLIVE とはちがいますが
それも今では、やる方も、観て聴く側も、普通ではなくなってきているので
この二十数年の間は、誰も観なかった、誰にも聴かれなかった部分が
きっと一夜かぎり。そこへ凝縮されたモノになるのかも知れません。
普通に楽しめるものではないことを楽しめるのではないか…
一人のファンとしては今から楽しみです。
   
行ってみないと解らないことも、やってみないと解らないことも
それがどんなものになるのかをいろいろと想像してみたりもしてしまいます。
勝手ながら、いつものアホな妄想(?)を お許しください。
たとえば… 
   
アメリカ文学の異端児、ジャック・ケルアックが自分の体験を通して
---- On The Rord ---- 
あのような長編の小説に描いていた中に
ある日、偶然にも、旅の途中で
デクスター・ゴードンやレスター・ヤング、ジョージ・シアリング、
マイルス・デイヴィス、ルイ・アームストロング、チャーリー・パーカー、
ディジー・ガレスピー、セロニアス・モンク、ビリー・ホリデイ、スリム・ゲイラード…
彼らの凄まじい演奏をマノアタリにして
それがそのとき、その音が、確かに、そこだけに存在していて、
ほかには何もなかった。
ケルアックは常に、その瞬間。一瞬一瞬に生きる人間のエネルギーを
時間や空間さえも超えるように、自分が観たまま感じたままの瞬間。
その何もかもが、どこかで一瞬にして吹きぬけて消えてゆく風であることも
すべてを承知の上で、見事なまでに小説に描き返し、
そのLIVE体験を次の世にも伝えていました。
当時それは、ニューオーリンズのジャズクラブで観たものだったのか? 
単なる酒場の即席なステージだったのか? 
あるいは、ガソリン給油のためにキャデラックを停車した街。
そこにあったジュークボックスの前で踊った日の出来事だったのか?
その店、その空間に在ったはずの同じ銘柄の酒も
もう今では、決して同じ味ではない。
もうどこにも、あの時代の音は聴こえない。
どうして? 
きっと、大勢の人が忘れ、忘れかけた、遠い日の記憶なのかも知れない。それでも、
きっと、大勢の人が、もう一度、
その心のどこかで蘇ってほしいと希っている瞬間なのかも知れない。
今、こんなリスキーな時代であっても。
   
おそらく、何も知らずに、それでいてどこかで探しつづけているモノがある日常の中で
人々は街を歩き、暇も忙しさも入り混じる通りを行き過ぎてしまう2007年4月1日
その夜、すべての事実が、「そこに歌が在った」という真実が、
今まだ大勢の人々にとっては、当然のエイプリールフールのように過ぎ去ってしまう。
そういう一夜にして、
世の中のすべての音が変わってしまうほどの夜。
そういう瞬間。そういうステージを観てしまう一夜になってしまうのでしょう。
おそらく。
   
行ってみないと解らないことも、やってみないと解らないことも
それがどんなものになるのかをいろいろと想像してみたりもしてしまいます。
勝手ながら、いつものアホな妄想(?)を お許しください。
   
ここで、こんな話を持ち出しては恐縮…失礼ですが
The Rolling Stones というバンドの、
リード・ギタリスト兼ブルース・ヴォーカリストのキース・リチャーズという人は、
かつて
    「どんなミュージシャンであれ
     いちばん肝心なのは
     ふらっと立ち寄ったバーで一曲 歌って
     タダ酒にありつけるかってこと。
     オレなんかはそう思ってる」 (1991)

   
今日。ここに生きている自分自身は、そういう意味で
自分が造りに携わった酒の一本を一夜の演奏に差し入れできることに
感謝、喜びを感じています。
…Jack Kerouac のような見事なライヴ・レポートは作れませんが。
今日ここに、いま存在する命で二度と観ることはできない姿が
余計なモノは何ひとつなかった、あの時代と同じように
しかも、そこは、日本という国の現代における一夜かぎりの空間に吹き抜ける風でしかないのに
見事に美しく燃えて、燃え尽きてしまう。
…もう、そこは地下牢ではありませんね。
誰が用意したわけでもない鉄格子は、もうどこにも、誰の心にもなくなってしまう。
黒い鉄が錆びても、人間の血が赤い理由も解るほどに、解放される。
そのとき、その瞬間だけは。
おそらく。
   
   
おおっ、考えただけでスゲェことなんだけどなぁ。
その時間。長い一生における、たったの一夜だけのステージに
なんでみんなは来られないんだろう? 
そこへ触れられない人たちが…哀れに想えてしまう。
ああ、そうだ! 
遠藤憲一さん 。もしも今、このページを読んでおられるのなら、 (読んでるわけがない。)
あなただけは観ておいた方がいいですよ。
ほかの役者 は来るな! 
…いや、真田ヒロユキさんと
奥田さん なら来てもいいです。 (おまえが決めることではないっ!
ウソウソ。誰が来てもいいんですよ。
損得の問題ではない。
だけど、損得の問題。カネには換えられないんだ。
   
れれぇ? なんだかテンションさがったかな
まぁいいや
純粋にラブソングを楽しむ人の心にも合わせないとなんだよな

   
今日はもう3月25日。あと一週間しかない。
家族3人分の宿泊先は抑えたし、差し入れの酒もバッチリ用意した。
あとは船に乗って、この島を脱出して
おとな180円の路線バスと新幹線と地下鉄を乗り換えて
江古田のクラブ・マーキーへ直行するのみ。
俺が都内へ出る? 
あの バンソウコウ男が? 
嘘のような本当の話。
   
   
   
   
この半年間、酒づくりの仕事中は毎日欠かさず
時代は変わるよ を口ずさみ、
最近ようやく、フルで歌えるようになったのに
ここんとこ毎日、
いつか見た海
こればっかり。日に何度も何度も繰り返し聴いてしまっています。
机の上のパソコンの、
ネットという電話回線につながれただけのリアルプレーヤーというプログラムが
そのデータ信号を読み取って繰り返し奏でる音なのに
飽きることはない。
なぜなら、そのギター伴奏に乗せて流れる歌声は漣や潮騒と同じです。
   
…ああぁぁぁ。なんだかラヴレターみてぇになってきたなぁ男なのにすんまへん
   
このリスキーな時代に生きる人たち、その大勢の人間が
その過去に、今日まで生きてきた時間の中に
まったくもってして聴く機会がなかった分だけ
俺が繰り返し聴きます。
そしてその、『とある日の歌 』のすべて、俺の子供も聴いています。
たとえば、最近52秒の試聴タイムからフルトラックに切り替わった『雨を見たかい』。
その歌をはじめて耳にした瞬間、
「ああっ、ちがうじゃん! 
 どうしたの? 新しく歌ってるの?」

その真剣さ、素直さ は、おそらく、
ジャック・ケルアックが観て聴いて、あのマノアタリにした瞬間に近いかも知れない。
ほかに余分な音が何もなかった、あの、世界中に響き渡った音だけが
どこか旅先の街の風に漂っていた時代と同じように。
おそらく。