昨日の、第53回 定期株主総会と、とある再建計画の真意の是非  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
   
大空電気? 
俺は電気屋じゃねぇぞ。
え? そうくると思った? 
   
まさあき電気再生担当? 
芝野さん、俺を再生してくれるのか? 
   
基礎研究開発費の大幅削減? 
こりゃぁ参った! 
   
おお、またもや蕉雨苑 。 大木会長の説得にあたるシーンのロケ先
人工衛星のレンズの開発費による800億円の赤字。
フェニックス計画? 
不死鳥? 
どっか で聴いたな。
   
「芝野くん、会社は物じゃぁないんだよ」
   
「もう一度、創りなおして持ってきてください。期限は…」

   
末期癌? ブンタさんが? 
お見舞いのお鼻で探り? お花。 華。 ハゲタカより。
   
蕉雨苑の庭。…あそこは西野旅館じゃなかったのか? るせぇ、黙って観てろ!
   
「どういう男だ?」
   
タダの禿鷹でない? 
彼の出発点? 
   
「3年ぶりですね。」 禿鷹の名刺交換
「一万人の人員整理?」 ハミダシ刑事
「我々は筆頭株主ですよ。」 

   
でもって会社見学。
署名差し出す社員、組合員。
そこへ、
   
「会長がお目見えです。」
   
「大丈夫だよ。」
   
「目的はなんだね。」

   
大空を立て直すカネと力? 
   
「ほお」
   
「君達に救ってもらうつもりはないよ。」
   
「そうだな、総会の場で戦うことにしようか」
   
「東洋テレビだけ中へ入れろ。取材を受ける。マスコミも遣い処だ」

   
ビジネス・ライク… 
   
「速、裁判にかけてブン殴れ。」
   
売却プラン
えぇ!? 三島製作所(93年倒産)
つながり、知らんがったの? 
   
便所の貼り紙。コストカッター。
   
フェニックス計画 
   
「やり直しだ。なんか言うことあるか?」
   
「ウチは物を造る会社だ。もっと長期的な…」
   
「その流した血を汲み取ってやれるのか?
その覚悟はあるのか?」
   
「私自身の再生をかけています」

   
株主総会のシーズン? 
プロクシー・ファイト? 
四回戦目にして、禿鷹も あとがない。
   
「立ったままじゃ、話にならんじゃないか。」
   
「ひとつだけ訊きたいことがあってね」

   
---- かつての自分を塗りつぶしたかった。
   
「その通りです。
“家族主義”という耳障りのいい言葉で… 
何食わぬ顔で座っている。
そんな経営者を私は認めない。」
   
「やり直したいんなら、何もやらないことだよ。」

   
3人の男の死闘。
   
「明日の株主総会で日本が変わるかも知れないな。」 (東洋テレビ 野中)
   
「勤続40年、レンズを磨いてきた、そのよりどころはなんだね。」
   
「レンズを磨くことが、この会社の原点。
私自身は何も変わってません。
変わったのは、会社の方ですよ。」
 (フルカブ社員)
   
   第53回 定期株主総会 
   
第一号議案  
「こんなもの、どうでもいい。
カリスマは、もうこの舞台から去りました。
誇りでメシが喰えますか? 
日本の企業は生まれ変らなければいけないのです」
   
新取締役候補
「わたくしが代読させていただきます」
   
   5坪のレンズ工場から見上げた大空。希望の空。
   軍事産業から平和産業への歩み。
   ものづくりの原点。
   ヒトとヒトをむすぶモノづくり。
   ヒトとヒトとのつながりは変わりません。
   会社は生き物。
   ヒトとヒトをつなぐ魂。
   私には大きな責任がある。
   私の命は、そう長くはありません。だけど、それでよかった。
   株主の皆様、あと3年、時間をください。
   どうか私の代わりに大空を見ていてください。
   私が死んでも大空の魂は変わりません。

   
「たった今、会長が永眠されました。」
大木会長のフェニックス計画。
   
「スグにTOBの準備だ」
   
   
おお、やっと登場したか!
まってました! 
   
「ハイパークリエイションの西野オサムです」
   
また来週。
   
えっ? 今日はそれだけ。
いつものキメ台詞は? 
やっぱ、ブンタさんの日では無理か? 
   
だよなぁ、ほか(のシーン)で、あんまし インパクト強めると
今日の『筋書き』と
ブンタさんの存在感の見所に邪念が入っちまう。
監督も考えてますねぇ。
よかったぁ。
日本の映像芸術も捨てたもんじゃねぇな。
オフィス北野も貢献してたし。
なんつっても、蕉雨苑 フォーシーズンズそばの使い方がいい。
あそこは 旧・細川邸でも
今は貸しスタジオで時間契約だかんな。
朝からクルーが詰めかけても
太陽でてるうちに撮りをキメなきゃなんない。
   
それにしても、いい台本だよな。
経済界の現代専門用語を散りばめても
国と企業がコネとネマワシで
ヒト・モノ・カネを回してきた時代の流れの中、
日本人が見失ってきたものを浮き彫りにしてくれてる。
巷の「買ったその場で古新聞!」を読むよりタメになる。 俺はな。)
   
すべてにおいて確認作業なんだ。
自分が今、どうして生きてきゃぁいいのか? 
の決断をするための材料。
それでも、この物語は、やはりドラマなので
俺の予測では、現実には ちょっとありえそうにない展開を挟んで
後半は、今の現代人の心を少し安心させる方向で片をつける・と思う。
でないと、ドラマじゃなくなっちまう。
ただし、諦めや慰めはあっても、開き直りは許されない。
ここが、今の社会との違いだな。
その違いは、団塊の世代のみなさんなら、よくご承知の通り 
もう今の時代となっては埋め合わせはできない。
なぜなら、今日までの時代の変貌・変容が
どこでどうコンガラガッテしまったかのように
複雑に見える状態になっちまったのかが
人々の生活、意識、認識、心の中で
つなぎあわされてない部分が、あまりにも多すぎるからなんだよ。
   
よし、ここで今日は、また新しい解釈で
いくつかの問題をつなぎあわせる。
用意はいいか? 
ついてこいよ。
大丈夫。俺の頭もそんなに利口ではない。
だから額にバンソウコウを貼ってるんだ。
   
たとえばだな。
職業柄、酒の話題を持ち出してはわるいけど
最近の日本人が日本酒を飲まなくなったことと、それから、
ギャンブルの世界の興行がパチンコに集中しちまって
ほかの地方競馬とかケイリン、オート、競艇という
ある部分では地方財政をキリモリさせるための
各地域の安定収入が激減したことが
まずもってして、今まで通りではなくなっちまったことにも
最近の日本人や日本の企業の多くがフヌケになって
どうにも足掻き苦しみがやまない問題がある。
   
なにを云いたいのかっちゅうとだなぁ。
日本酒にもギャンブルにも
そういう嗜好品や娯楽を楽しむ上で
人々の心の中には、楽しみや楽しさの、継続とか伝承っつうもんが
そういうことを嗜む人たちの間にあったわけ。
かつてはな。パチンコ台が電動になる以前の時代には。
ところがだ。
すべての人間が、コンピューターを使いこなせないまでも
その仕組みや構造を知ってる人と
そうでない人が大きく別れた時期があった。
それがやはり、1985年だな。
高度経済成長期が暮れて間もなく、
一般家庭には電卓、電子計算機ってもんが必需品になった。
それまでソロバン塾へ通ってた子供も
もうそんなものは必要なくなってきたことが
親よりも先に判ってしまったのが、インベーダーゲームのあとの
ファミコンの流行りだ。
んで、ワードプロセッサーちゅうもんが
巷の企業はおろか、家庭用に普及されると
今度は、タイプライターとか、それまでの印刷業が必要なくなった。
ところが今度は、パソコンという家庭用のコンピューターが出回る頃には
タイプの資格学校を出た人も、ソロバン塾の経営者も
かつての活版印刷で叩きあげた町の印刷業者も
自分の子供が自宅にいながらゲームソフトの開発をやって
見事、父ちゃんの一ヶ月の収入とか、母ちゃんの一日のパート時間給なんてのが
嘘のようになっちまうほど
世の中のトランジスタ・ラジオが
ICチップでゲルマ・ラジオよりコンパクトになって高性能になるにつれ 
「おまえ、部屋にドラえもん飼ってるのか?」
というほどの世の中になっちまった。
ああ? 云ってることがよく和漢ねぇか? 大丈夫だろ。このくらいは。
   
でだなぁ。それまで、週末の煙草屋で競馬シンブン買うことを楽しみにしてたお父さんは、
ある日、隣町に新しくオープンしたパチンコ店へ行ってみた。
するってぇと、どうだ! 
そこには、タバコの煙でムンムンしてた店内や
釘のヒラキ具合を調節するホール回りのオッサンはいない。
かわり、指が疲れるほどバネを弾かなくてもいいパチンコ台からは
「Hasta la vista, Baby ♪」とか、この世のモノとは思えないような光りの渦と
頭の中に宇宙人が語りかけるような音やメロディが響きわたって
なんと、そこには自分の娘がアルバイトしてたではないかぁーっ! 
   
「おまえ、なんで、喫茶店のウェイトレスの格好をしてるのに
アタマに電話交換士さんのつけてるようなモンをくっつけてるんだ?!」
「やぁねぇ、お父さん、これはインカムよ。い・ん・か・む。」
「? 新しいデンワか?」

   
てな具合で、日本の20世紀後半の社会や一般家庭の多くでは
ファクシミリのことを「ゼロックス」と呼んでしまう世代が
一家の大黒柱であり、各中小・零細企業の経営陣や役員、株主さえも
やっとの思いでFAX送信を覚えたてだった。
「おかしいじゃないか!」
つい昨日まで電球が二股ソケットになったことが画期的だったのに
今日は、そのパチンコ屋の奥へ行くと、
ブラックライトで入れ歯が光る! 
どうしちまったんだ? この世は? 
「オレはスリラーのマイケル・ジャクソン なのか?」
と、そのくらいならまだいい。
   
問題は喰う物とシモの始末だ。
これも、お父さんや爺さんバァさんには、
ムゴイほどに、今まで通りではなかったのであったぁっ! 
まず、バイキングっちゅうもんのシステムがわからないっ! 
   
「どうして この食堂は店員がいるのに
客にメニューを持ってこないんだい? 
あの人がイマ飲んでるモンはなんだい?!」

「ばあちゃん、立ち食いソバとおんなじだよ!」(曾孫)
「ええっ? そんなこと言ったって、
ワリバシの詰った箸箱なんて どこにもないじゃないか…」
「いいの。そんなことより、オレ、トイレ行ってくっから。」
「ああ、わたしも行くよ。一緒に連れて行っておくれ。」
ところが婆さん、店の便所へ入ってまたまたオドロキ! 
「ちょっとちょっとマサオ!」
「ああ?」
「手を洗いたいんだけど、蛇口がないんだよ。壊れてんのかねぇ?」
「なんだよっ!ばあちゃん、水は自動で出るんだよ。自動で。」
「そんなこと言ったって、水が出なけりゃ手が洗えないよ、ばあちゃんわ…」
「で、なに? 手、あらってねぇの?」
「うん。」 ばなな 
「まぁいいや。座れ座れ。」

   
と、こうして病原性大腸菌に感染する家族がいた。
   
ああ、なんだか話がくだんなくなってきたな。
問題は、第二次大戦体験者の人たちの一部が
世代ごとの言葉の違いや機械化が激化する世の中に
ついてゆけなくなっちまったことではない。
なにを見落とすほどに
何に拘り過ぎたかっちゅうことだ。
まず、明治・大正・昭和の常識。
このアタマで生きてることが旧い。
たとえば、都会には、もうほとんど姿を消してしまったけど
町の電気屋のうち、何軒あったのか? 
かつては“●●ラジオ店”という看板の、
「機械のことなら何でも頼りになる」はずの町の電気配線工事業者があった。
その他、コブツ屋でも雑貨屋でも駄菓子屋でも
明治・大正うまれの創業者の古ネーム(屋号)
“宇野本重吉商店”とかたとえばな。)
そういうのも今でも地方…田舎には健在かも知れないけど、とくに
“●●ラジオ店”が“●●テレビ店”とは名乗らず、社名変更もなく
どうして今日の今日まで日本各地の過疎化した町村落に分布しているのか? 
そこに、かつてのありがたきや生き神様の玉音放送を聞かされた人々の名残りがある。
“●●ラジオ店”。
なにも翼賛政権や帝国主義とか富国強兵時代と関係はしなくても
「ラジオ店」「ラジオ屋さん」という言葉には
日本人の敗戦の世に明けた日の念いや
当時の悔しさや哀しさを捨てられずとも
次の世に希望や夢を托そうとしたノスタルジック意識が残ってるわけ。今でも。郷愁的にも。
それでも、そんな名前の店が存在することも
パチンコ攻略法や新しいゲームソフトの発売日に
家電ショップに列を成す都会の若者の多くは知らないし 
そういう店の創業者も今はもうほとんどが他界してるか、あるいは
店を訪ねた客が最新型のコードレス電話機を注文しても
注文した物と違う物を取り寄せてしまうほど 
そしてそれを
「これじゃぁダメですか?」
と言ってしまうほど、なっちゃねぇ。
   
それがそのまま相手が同世代(高齢者)なら
「…?。 ああ、まぁそれでいいさ、いいさ」
で済むならまだしも、商いにしろ代理店にしろ
「カネもらってる限りは素人じゃねぇんだよ!」
という意識さえ、かつて戦後を逞しく生きてきたはずの気配すら感じられない。
そんな老いぼれが、どんな健康器具や健康食品を買い与えられたところで
残りの生涯の健康維持ができるはずもない。
しかも、男が男らしく、女が女らしく、
ハッキリとした区別をもって生きていた時代に培ったはずの
人と人との関わりについては、
なにを拒んでそんなに口を閉ざしてしまったのか? 
今の日本の年金暮らしのほとんどの老人という者は
男女の性によって子孫繁栄の義務における諸問題や
次の世代にも重要な自分(ないし自分達)の経験を語り継ぐ以前に
各々が好き勝手に信仰する寺や宗教へ渡し廻すカネの配分を念頭に
己が成仏できるか否かの不安を単に気にしてるだけの有様。
すべてにおいて、戒律や何者かの説法による教訓や格言に基づいて
見栄や体裁を中心に世間体を見繕うことしかアタマにない。
そういうことが、明治・大正・昭和の常識の大きな一部分でもあるわけ。
でもって次の世代に押しつけた教育は
単に西洋の個人主義だか奉仕精神を真似ただけの、
男女平等とか人権尊重の思想教育。
アホだね。
途中から無理やりに取り入れた西洋カブレな連中の、お躾が 
今日このようにアメリカナイズのお手本や
その標本のようになっちまってる今の日本人と企業や教育機関。
ポツダム宣言の無条件降伏と日米安保に拘って
運良く今日まで生き延びた高齢者が
次の世代や、その次にも、そのあとの我々の世代にも 
さらには我々の次の世代にも、なにを残したのか? 
想い出バナシか? 
捕まらなけりゃ何やってもかまわない 」という堕落の仕方か? 
世の爺さんよ、婆さんよ、
ここまで元気に丈夫で長生きした人も自慢げに何人かはいることを誇れるのなら、
もういっぺん、いま未だ肉体を持って生きて生かされ動いていられるうちに
何か口をひらいてみてくれ。
いいよ、叱りつけても。
優しく丁寧に教えてくれとは云わないよ。
そんな時間はもうない。
どこにある。社会は日増しに荒む一方だ。
責任問題じゃねぇよ。
当たり前のことを伝え残さなかっただけのこった。
   
自分が肉体を持って生きているうちに
自分が生きている場所で自分という人間をしっかりとまっとうできなかった者に
成仏や安楽などというものは絶対にありえない。
今はまだ、多くの年寄り連中にとっても、
その人たちが人生の指導者や人間としての先輩という立場を放棄して生きている限りは
ただなんとなく平和な毎日を日々、送り過ごしているような方々も多いかもしれないけど
今はもう、決して今まで通りではない。
そんなことはもう否定するまでもなく、みんなが判ってきた21世紀初頭だ。
一歩ゆずって、この世が極楽か天国とするなら 
それをそのまま残された者(家族や親戚など)や
由緒正しきらしき寺の坊主や宗教の教祖が
何か念仏や呪文を唱えてくれるなら、
己が極楽浄土へ導かれると想ったら大間違いだよ。
とくに、「こうしなければならない」「ああしなければならない」という方法や策の中で
自分自身で決めるのではなく、他人の顔色を注意深く見て覗って
隣のゲートボールのクラブと同じ物を買い揃えてきた年寄り連中は
同じような色と形の墓石を用意すれば、
あの世へ行っても同じように三途の川を渡り登って
同じように お花畑へ足を踏み入れ、エンマ大王に叱られてる連中を見下ろせると思ってやがる。
畜生め、穀潰しもいいとこだ。
ナマグサ坊主が高級車を乗り回す時代に、誰が成仏なんてできると思ってんのか? 
宗教のうち、とくに仏教、仏法ってもんも、本来はそういうダラシのないもんじゃねぇだろ。
そんなアタマでいるから、惚けるし、留守番電話機能のひとつも使いこなせずに
世の中についていけなくなっちまうんだよ。
まずねぇ、立ちあがるにも、どこかへ座るのも
「よいしょ」が膝の叫びだのなんだの言われて、それに乗っけられてるような人が
フリコメ詐欺に出くわしちまうわけ。
なにを洗脳されて生きてきたのか? どんな国だ? ここは。
世の中はもっともっと、人間が魂を成長させるために生きて動いてるんだよ。
それなのに、どうして、巷の誤高齢者のみなさんは
“●●ラジオ店”の時代で魂の成長が止まってんのか? 
目は節穴か? 老眼鏡が曇ってんのか? 補聴器の電池が切れてんのか? 
そういう目鼻や耳口は身体のどの部分と連結して
朝昼晩に作動と始動が自由自在になってたんだ? 
   
んまぁ、今となっては俺の奥さんの母親をはじめ、
69歳にして既に「20年前のお値段です!」を皮切りに
自分が今なにをやってるのかが、ほとんどまったく判らなくなっちまってるほど惚けてしまっては
その萎縮して白くヒカラビタ脳味噌に潤いを持たせることも不可能に近いし、
ソイツに向かってなにを云い伝えようとも
云われたその場で瞬間的に忘れるようになっちまってると
言葉をかける方も人間同士の会話ではなくなってきてしまう。
それでも家系継承者としては、そのまま オッチンでしまわれては困るので
俺もなんとかして、あらゆる働きかけで
死ぬ直前には自分が何をしてどう生きたかを
肉体を使って、その魂が、いくらかでも人間であったことを自覚できるようにしないとなんだけど
それをしない、させるようにもってゆかないうちに死んでしまわれてしまうと
死んだあとに、ちゃんと肉体から分離して
次に再生可能な状態に近づけられなくなった人の魂は
目に見えない状態で、そこいら辺を彷徨っちまう。
次の時代に肉体を持って、なんとか前向きに生きようとする者に
なにを戯けた慰めを追い求めてくるかワカラン。
そんなの迷惑だ。
もっとも肉体を持って生きている人間そのものは本来、
その心と身体のバランスを正常に保っている限りは
そんなクタバリ損ないの浮遊野郎や彷徨える怨念・無念には関係しないはずなんだけど
いかんせ、“育つ場所がちがう ”時代の今、
目に見える世界も目に見えない世界も実際問題、
整然として在った場所や時空間がメチャクチャにされつつあるほど
地球の動きそのものがおかしくなってきちまってる。
これが今、たとえ一時的であろうともな。
   
さて、その問題については後日あらためて書き記すことにするけど
さしあたり、今日のこのページで現実的に大勢の人に必要になってくることは
具体的に、今の自分自身の肉体と心のバランスが
そのように手遅れになっちまう以前に、どうなってしまっているのか? 
そういうことを踏まえながら…。
申し訳ない。以下の内容は幾つかの文面で読みづらい箇所もあるかも知れないけど
とくに団塊の世代の方々とか
自分の親が心配な人とかは
   
   「明日の福祉」の裏側 老人介護支援 2 / 肉体の介護問題
   
http://ameblo.jp/badlife/entry-10003045591.html
   
   アルツハイマー、痴呆症、ボケ! パーキンソン、介護、人間の生きる力、魂の役割など…について
   
http://ameblo.jp/badlife/entry-10013364666.html
   
   すべてのボケ老人の共通点は下半身の筋肉の変形  
   
http://ameblo.jp/badlife/entry-10021672762.html
   
   「惚け老人が惚けた理由」と、命の修復に関する考察…のようなもの
   
http://ameblo.jp/badlife/entry-10014887424.html
   
これらのページを参考に、
まず自分が自分に気づくためのキッカケを手に入れてもらいたい。できることならね。
でもね、すべて「解れ!」「理解しろ」ということではないし、
できることなら、
「ここんとこの表現は、もう少し丁寧にやわらかく」とかさ、
「そういう解釈はちょっと変なんてもんじゃないから
もっと別な言い方に替えられないの?」とか、
俺もたまには誰かに気づかせてもらいたい…。
って、それはやっぱ弱音だな。
   
ただ俺も、奥さんの母親を見てて 診てはいない。)
そして家族、肉親である娘として今日一日、自分の母親と
どう接して過ごしたのか、なににどう対応したのか? 
その断片を仕事から帰ってきて訊かされたり、こちらから耳を傾けることもあってな。
そういう中で、今日はひとつ、あることを確認できたよ。
   
どうやら、 
   
    red&blue2006  
   
このように醜く変形した肉体そのものが、この画像よりも更に悪化して
全身の筋肉が折れ曲がった状態で
なんとか今は、その肉体を引きずって、やっとの思いで今日を生き凌いでる状態。
それで幾らかでも、わずかにも、そいういう今の自分の状態を認識できているのか? 
どうやら身体中が痛いらしい。
背筋も腰も、両足の膝のウラも、真っ直ぐに伸ばそうにも、
そうしようとして身体(全身の筋肉)をちょっと姿勢を正そうにも
どうにも痛くて、肉体の節々に激痛が走り、とにかく痛いらしい。
あたりめぇだ。そんなのは。
なぜなら本人は、自分の心で肉体を管理して動かすことまで放棄するほど
“生きる”というあらゆる自由や感謝さえも
「ああ、いいや、いいや、もうどうでも…」
というような気持ちで、既に完全に投げ出す決意を強く思い描いたことが必ず、
自分の心の中であった。そういう決断がな。
だから、その心が命ずるままに、今の方向へ肉体も導かれ 
同時に、満足に肉体をコントロールできない心、精神、魂は
全身の筋肉に流れる血液が多種多様な場所で
とぎれとぎれになっちまってる。
呼吸をするにも、そのように硬く変形した肉体では不完全きわまりない。
酸素の廻らない細胞は死んで腐る。
全身の屈伸可能な関節のまわりであろうと足腰の筋であろうと 
硬くなった筋肉は、無理に伸ばせば無数の毛細血管が切れる。
だから痛い。全身のあちこちで。 
生命の源である、人間が生きる絶対条件のうち、
呼吸をする、そしてすべての細胞内にも酸素がまわるということと、 
何より、全身の筋肉にあるすべての血管に 
血液が流れて生きている、その絶対条件から真っ向から外れ、叛している格好。 
脳に集結する血管へも必要な酸素や血液の潤いがないのは
全身というカラダ全体の筋肉そのものに潤いがないために 
その精神にまで、なんら潤いのない涸れた状態。 そしてそういう、
血液の流れない場所、流れにくい場所は、こわばったり、麻痺して冷たくなる以前に
痺れたり、痛みを伴って、更に変形を悪化させる。
最早、部分的に発熱を繰り返すほどの治癒力も働かないほどだ。
その上、なんとまぁ恐ろしいことに、半分近く…それ以上にまで 
その中身(心)を収めておくはずの容器(肉体)から、その心、魂が抜け出ている。
それでも、それなりに肉体の寿命が切れるまでは
変形しながら、カタになりながら、苦しみながら生きていかなきゃならない。
んまぁ、「痛い」という瞬間や自覚症状までも忘れるようになっちまうまでは
本人にとっては地獄かも知れないけど
それはすべてにおいて、自分が自ら招いた結果でしかないんだ。
決して、脳味噌そのものの指令やコントロールの問題ではない。
ひとつの肉体という全身に宿る魂の在り方の問題。
仕方ないといえば仕方ないんだけど
これまた俺たち家族がお手上げになっちまうのは
「痛いのが大変なら、痛いのが嫌なら、こういうふうにしてみてはどう?」
という、あらゆる提案や投げかけに対して、
「オレはどこも悪くなんかねぇ」 
佐渡の年配の女性は自分のことをオレという人が多い。
と言い張ってしまう。 
これじゃぁなぁ。どうにもならん。
この世で地獄を味わいながら、そのままクタバッテからも地獄で彷徨うしかない。
(地獄という言葉そのものが的確ではないにしろ…)
果たしてそれは、人間の人生なんだろうか? …どこまでも素直さのない異常な精神状態。
最早、自分から勝手に死ぬこともできない。誰かに殺されるわけでもない。
死ぬより辛い苦しみの中で、死んだあとになっても暗黒に留まる場所で彷徨いつづける。
恐ろしいし、考えたくもないけど
俺にはそういう あと先まで視えちまうんですよ。わりぃけど。
視えちまう時点で、俺自身にも悪いことなんだけど
幸い、最近の俺は、自分と他人の区別が以前よりは ハッキリとさせられるようになってきた。お陰さまで。
だからこうして、このような残酷なことも、涼しい顔で冷静に書くこともできる。
   
さて、こういう恐ろしいことを書いてる野郎が何かという以前に
今これを読んでみた人の中には必ず、
自分自身の何かに気づいている人もいるはずだ。
   
すくなからず、軽々しくも自分と他人の何かを比較して
他人のしたことや他人の存在を憎んだり、妬んだり、気に喰わない、「ムカツク」…などと
そういうことを思った次には、その念いは必ず自分自身に還ってくるし
自分自身の存在の否定も含め、開き直りや投げ出しを決め込むと
もうそれは既に、その瞬間から自分の生命を圧迫することになる。
だからやるなよ、そういうことは。
俺はいいんだよ。自分と他人にキッチリと区別をつけるこころがけでいるから。
もう少しの間は、それなりに覚悟してやってく。
でもそのうち止めないとな。
自分どころか、他人に迷惑をかけることにもなる。
今のまま死んでしまった場合など…はな。
   
ああ、もう古井戸に落ちた野良猫が勝手に化けて出そうなほど
縁起ワルイ内容になっちまったよなぁ。
でもそうなの。
これを事実として認めるとか認めないとかに及ばず
今も日本中の至る所で、こういう問題に悩み苦しんで
明日は我が身という人とも関係して
今日この時点で、今この瞬間にも
目の前にいる相手の命をどうしようかと考えている高齢者夫婦もいる。
そういう人々の悩み苦しみを国も社会も地域も医療現場も葬儀屋も
どうすることもできないところまで来ている。
そんな世の中に、よくもまぁ、平々凡々とノンキに生きていられる人の何人かは
巷のパチンコ屋にもウロウロしてる。
もうマトモな日本酒や上質なウイスキーとかワインなんてどうでもよくって
ただただ酔っ払って、今日の自分が嘘をついて生きてきたことを
安い合成酒や発泡酒を浴びて、頭をドロンドロンにさせてるオヤジも巷には何千人もいる。
酒で人生をゴマカスってのはそういうことだ。
それもいつまでも続けられるわけはない。
どこかで清算して、すべてにおいてフヌケになる以前に
目を醒ますキッカケが必要だ。
   
待ってろ。いや、待たなくてもいい。
キッカケは俺が用意する。
そういう人たちの中にも、いつかまた立ちあがることができた日には
まだ誰にも勝る指導者の気質を兼ね備えた人もいるはずなんだ。
ああ? アルコール依存症の治し方を騙ってるわけじゃねぇよ。
酒は天下のマワリモノでも、呑み方を間違えるなっちゅうことだ。
そういうねぇ、俺の実の父親みてぇな存在が世の中には大勢いるわけ。
旨い酒の味なんて、とうの昔に忘れちまってる。
世の中に酒について歌った歌がなくなったのも、そういうこった。
それどころか今は、酒が好きなくせに
誰の何の知識なのか、いきなり飲むことを止めて
結局は酒を飲む元気さえなくなっちまったような年寄りも多い。
飲みゃぁいいじゃん。好きなんだから。
なにを遠慮して我慢する必要がある? 
好きなだけ酒を飲める、呑んでもいいはずの肉体を失ってから
墓石の上から酒をかけてもらっても、飲めないじゃん。味が判んねぇじゃん。
「『ああ、もっとかけてぇ~』って言ってる声が聞こえるよ、ナンマンダブ、ナンマンダブ、ブツブツ仏…」
バカ言ってんな、バァさんよぉっ! 
聞こえるわけねぇだろーがっ! 
そんなふうになんねぇように立派な葬式 出したんじゃねぇのか? 
二つも三つも別々な寺から独りの弔いに2人も3人も坊さん呼んで
それぞれに、シキタリと慣わし通りにカネも つぎ込んだんだろ? 
だったら、そんなのあるわけねぇよ。ちゃんと安んでおられるんなら。
そういうねぇ、情けないことは本来、人間が死ぬ以前も死んだあともないの。
あるように思わされて生きてきただけだよ。
明治・大正・昭和の常識の中で。
そういう、生きるということの根本がしっかりと認識できてないような人の孫や曾孫が
どうして、これからの時代を人間として満足に生きていけるのか? 
指導者なんでしょ、それなりに長生きして、いろいろ経験豊富な立場として、親として。
先輩なんでしょ、人生の、人間の。
しっかりしてくれよな。
頼むぜ。
   
   
ということで、大空電気の故・大木会長の『フェニックス計画』のうち、
最も重要な部分。
おかわり頂けたでしょうか? 
    
    
    生きることを
    ナメたらあかんぜよ。 
    
    ブンタさんの声でな。)