明日への轍

明日への轍

齢五十を過ぎて、ある日大腸がんが見つかる。
手術から回復したと思った一年後、肝臓と肺へがんが転移。
更に続くがんとの付き合いを記録します。

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彼は2019年の9月3日に、尋常ならぬ肺の状態を感じ、

ガンセンターに電話するも入院を断られ、仕方なく予め1軒だけ面談を受けていた、ホスピス併用病院へ事情を話し(ちょうどホスピス医は出張でいない日だったのだが、他の医者に事情を伝えておくから来なさいと言われ)、

タクシーで向かいました。

 

病院に到着したときは、もう

歩けないと言って私を驚かせた。(あわてて車イスを頼む)

 

なにせ、前日9/2は、ばあちゃんの通院の日で、その病院まで車で送迎してくれた位だったので、

その急速な癌の進行に、ただただ唖然。(ただまあ、8月は体調の悪い日が多く、ほぼソファに横になってて、この9/2は珍しく体調が良い・・と言ってたカンジではあったのですが。)

 

そのホスピス併用病院では、診察を受けたことがなかったので、

それからとりあえず診察に回され、CTを撮ったりして(これは、かなり苦しかったみたい・・文句言ってた)、

昼過ぎに、やっと一般入院棟に。

 

 

私としては、そのホスピス併用病院に、かろうじて面談を受けていたこと(そして入院できる配慮をしてくださったこと)に、

ほっとしたのですけど、

ダンナ的には、一度面談をしたがために、ガンセンターからは断られてしまう羽目になったと、とても悔しそうに見えました・・・。

 

まだこの場に及んでも、諦めてなかった(と言えば、聞こえは良いですが、現状をわかってなかったとも言えます。)

 

 

次の日ホスピス医(主治医)がやってきて、

家族には、「もうあと1週間位しかもたないだろう・・意識がある状態は、あと2.3日なので、会いたい人がいれば呼んでください」といわれました。

 

・・・そんなドラマみたいなこと、本当に言われるんだ・・・と、私が思ったのは、そんなこと。

 

 

そして、主治医の言われる通り、彼は2.3日で、酸素を上げていくも、呼吸が苦しくなりすぎて、

眠らせてください・・とお願いすることになり、

それからどんどん意識を手放して、9月10日の夜中2時、息を引き取りました。

 

私が感じたのは2点。

 

1つ。主治医は、嘘がうまかった。

彼の前では、いかにも、痛みをコントロールして息をもうちょっと楽にできるようにします・・みたいに希望を持たすことを言ってのける。

でも、家族の前では、手の施しようがなく、もう1週間だと。さすがホスピス医、と思いました。

 

だけど私は混乱してました。主治医の嘘と本音に。

今まで主治医が言った言葉は、どこまでが信用できることだったのかと?

もしかしたら面談の時、ダンナに希望を持たした言葉の数々も、全部嘘だったんじゃないか。

その頃から、こうなることは、全部わかっていたのでは、と。

 

いちいち聞いてみなかったので、それは今でもわかりません。

でも確かに、うちのダンナに現状を認識させることは得策ではなかったんだろうな、と今になれば思います(それも治療の一環)。

”コノヒトは、希望を失うと、一気にダメになる”ということが医者にはわかっていたのではないかと。

(とはいえ、ダンナに限らずほとんどの人がそうじゃないかなと思いますケド。)

 

そんなわけで、私も主治医の嘘につきあい、

病室では嘘がばれないように、いかにも希望があるようにふるまって、廊下で泣きました。

 

・・・もう現代においては、癌もインフォームドコンセントがあたりまえになって、

こんな嘘と本音の使い分けはいらない時代と思っていたけど、

やっぱ、いよいよになるとダメなんですね。・・・

 

2つめ。主治医は、良いお医者さんでした。

 

入院してから、ずっといい話ができなくて、こんな(もたないとか、もうあと何日とかの)話ばかりで、すいません・・みたいなことを言われましたが、主治医のハッキリした話しぶりに、私はすごく救われました。

 

ホスピスに入院することを彼は、なぜそんなに嫌がっていたのか、という所に、

非常に残念に思っていたみたいです。

ポスピスに入ってからでも、また緩和治療で良くなり、一時帰宅する人だっているんですけどね・・と、いう説明もしてました。

 

ホスピス=死に場所 ではなく、ホスピス=緩和治療の場所

そういう風にダンナが捉えられていたら、

最期の時は、また違っていたかもしれません。

 

 

 

ちなみにこのホスピス併用病院へ面談に行ったのは、8/3でした。

(本人的に、どんな心境だったか定かではないですが、私がかなり頼んだということもあり。

やはり8月はかなり体調が悪くなってきてたので、私のみならず本人も不安を感じていたのだろうとは思うのですが。)

肺に異変を感じて入院したのが9/3なので、後で考えれば、ほんとギリギリのタイミングでした。

・・・申し込んでなかったら、どうなっていただろうか・・。

 

(だけどホスピス併用病院に面談に行ったことにより、

9/3には、がんセンターから、もうそちらに移行してますからと門前払いを受け、

本人的には無念で、悔しそうだったから、そちらへと移行させたこと、

家族として罪悪感を感じたものです・・。)

 

そしてポスピス併用病院の一般棟へ入院して、

9/7には、ポスピスの部屋があいたので、移れるハズだったのだけど、

本人の病状が重篤となり、移ることによって、命を縮めるリスクがあると聞かされ、諦めたということがありました。

 

(私としては、ホスピスに行けば、家族の自由度が上がり、

簡単な料理がつくれる調理部屋があったり、コーヒーが淹れられる説明を受けて、いいなと思ってました。

できればしてあげたかった。)

 

 

実際、その病院の診察を受けて、初めてわかったこともありました。

ダンナの癌は、肺と肝臓に転移していて、

肝臓のあたりが(外から見ても)大きく腫れていて痛みが強くて、本人は常にその肝臓の癌の痛みを気にしてました。

だけど、ガンセンターの先生が注視していたのは、常に肺だったように思います。

 

・・・なぜそんなに肝臓が痛いのだろうか?というのは素人目にも、少し疑問に思ってました。内臓というのは、痛みが無いものではないのか?と。・・・

鎮痛剤が、どんどん強いものになっていき、彼はいつも痛みを戦っていたので。

 

その疑問が解けたのは、ホスピス医(主治医)の話でした。

肝臓の、手術の痕に癌が出来て(切った痕に癌ができることは、結構あることなのだそう。)それが大きくなって、

肋骨などをまきこんでいると・・・。

 

そうか。骨の痛みなんだ。それは痛いハズだ・・と、その時はじめてわかったのです。亡くなるほんの2.3日前のことですけど。

 

 

最後の最後まで(9/2まで)家に居れて、本人としては本望だったのではないか。

というように言う人もいましたけど、

もっとストレスを取り除くことはできたはずだし、痛みだって緩和できたし、

最期まで家に居たい・・という気持ちを拒否したいというわけではないんだけど、

家に居るなら居るで、もっと考えて、何某どこかとつながりを持たないと(訪問看護や、ホスピスの予約など)、

心穏やかでない最期になってしまうんじゃないかと・・。

 

そんなことが言いたくて、下手くそながら、駄文をしたためております。

 

そんなしがみ付くみたいに家に執着されても、

いよいよになれば、引きはがすみたいに入院させなくちゃいけないので、家族としては、悪いことしたみたいな気になってしまって。

 

あとあとも、これでよかったのかなぁとくよくよ悩むことになりました。

入院して1週間で、潔い・・という人もいたけど、

世話もろくろくしないうち、騙し打ちみたいに眠らすことになってしまって、

最期の言葉も無いままで。

そして亡くなったあとも、

いろんな問題にぶつかるたびに、わからないことばかり。

 

 

途方に暮れてます。

 

 

本人ここのブログの最期の投稿、2019.6.13に、「緩和ケアへの移行」と、

わかったように書いてますけど、

そばで見ていた者としては、この文章読んで、

「ほわ(・・)?」だった。

 

・・・アンタ、書いてることと、やってること、違いますやん?・・・

 

彼は、最後まで『ホスピス』というものを拒否してました。ガンセンターへの入院(治療)を切望しました。

9月3日、ガンセンターの主治医に電話して、他病院(ホスピス併設の)にもう移行済みだから、入院はそちらへと断られても、

だめですか?と食い下がって、主治医を困らせてました。

 

 

なのに、ここのブログには、6月時点で、「緩和ケアへの移行」と、

なぜ、わかったようなことを書いたのでしょうか?

 

謎です。

 

 

『ホスピス』についても、いよいよの最後になって、入ってもいいと思い直した瞬間はあったのかもしれないが、

その時には、もう遅く。彼は、病室すら移れなくなってました。(一般病棟である3Fから、ホスピス棟の2Fに移ろうとしたが、

リスクが高いと通告を受け、断念しました。)

 

とにかく彼の、「緩和」という言葉への嫌悪感や、触れたくない感はすさまじかった。

この言葉が出てきただけで、表情は強張り、思考がフリーズしているのが、横にいて見て取れた位で。

 

・・・「緩和」と言う言葉の本来の意味は、痛みを和らげるとかなのに。

彼の頭では、緩和への移行=その先には死しかない と直結してて、そんなこと考えたくも無かったんだろうなと、

今になったら思う。自分が死ぬなんて、絶対認めたくなかったんだろう。・・・

 

 

本来ならば、抗ガン治療を始めた頃(2017.9~)から、同時に緩和治療を含めたホスピスを検討すべきと、

医者から言われてたのだけど、

抗ガン治療が手詰まりになってからも(2018.9~)、本人の拒否の姿勢は、依然として変わらず。

流石に2018.12~癌がかなり進行してきて、ソーシャルワーカーさんは、やっきになって追いかけて来たけど、とにかく拒否。本人としては、まだこんなに元気なのに、何が緩和だよ!縁起でもない!という気持ちも、あったのだと思うが、

電話かかってきても出ないし。面会約束も延び延びにして、何も決まらない。

らちがあかず、仕方なく、家族(私一人)が行ってワーカーさんに話を聞いたりしたこともあったが、

帰ってから内容について話そうとしても、本人全く耳を貸さない。(これじゃ、私が行っても、意味が、ねぇ!)

 

医者もこれではいかんと思ったのか、説得に加わり、

「緩和ケアへの移行は、残された家族の為なんですよ。」と切り出したが、

残された家族の為?ハア、なんでその為に俺がそんなことしなくちゃいけないの?みたいな本人の反応に医者はたじろいだ。

(そして家族は少し傷ついた・・(笑)。)

 

あ、この言葉はコノヒトには響かないと見て取ったか、先生、方針を変えて、

「残された家族の為とはいいましたが・・それが、ひいては自分の為になるんですよ。」と言い換える。

すると、

なぜですか?と本人食いつく。それで「痛みを取ったり、少しでも快適に暮らせるように・・。」などと、

やっと緩和ケアの説明・・が出来た・・みたいな、そんなこともありました。

 

それでもその帰りには、「医者はおおげさなんだよ。」とか、「まだまだ先でよくないか。」と、

そんな風に言ってのけ、

また先送り変わらず。見たくないものは見ないで先に送り、ごまかしごまかし。

家族としては、そこを強くも言えず、緩和ケアへの移行(ホスピスの検討や、家にいるとしても、訪問看護などの在宅医療の選択や、痛みの対処に長期視野的なケアを受けられるよう考えることの)時期を、

完璧逃してしまったと思います。

 


あの、2019.6月の腺がん処置して退院した後も、まだまだ出来ることは、あったように思うのに。

「緩和」と銘打ってるだけで、本人、全く情報の収集も止めてしまっていたようで・・。

「痛みの緩和の為の放射線治療」とかあるみたいだよ・・と私が言っても、そんな知識も知らなかった。

外科的手術、抗ガン治療と進んできたダンナが、まだこの時点でやってなかったのは、放射線治療だったので、

試すのもアリでは・・と思ったのだが、遂に試せなかった。

本人としては、過去に放射線医に言われた、あなたの癌は、多すぎて各所に散らばっているから、放射線には向いてない。

それに、肝臓や肺など重要な臓器ばかりなので、健康な所にもダメージを与えて、逆に寿命を縮めることもあるみたいな説明が

頭にあって、そこから動けなかったのかもしれない。

緩和ではなく治療でも、

樹木希林さんが受けていたという鹿児島の某医療機関の放射線治療のことも、調べて伝えたが、

心は動かなかったようだった。

 

 

・・・話が逸れました。・・・

 

 

思い出したとき、あの時点に戻って、ああすればよかった。こうすればよかった・・と、

いろんなことを思います。それを書いておきたいと思って、

今回は、ポスピスの大切さについて、書こうと思ったのですが、

彼がとにかく拒否していたという話が長くなって・・なかなかそこまで行きつけない~~!

 

では、それはまた次回にでも。

ブログ主、bacchus2014は、令和元年9月10日あの世へと旅立ちました。

享年57歳、大腸がんが見つかってから、4年9か月でした。(5年にあと一歩届きませんでした・・)

こちらのブログに、お付き合いいただきました方々へ、感謝の言葉が遅くなりまして、

申し訳ありません。ありがとうございました。M(_)M

 

6か月経ちまして、かなり気持ちも整理されてきまして、

彼の残したものについても、落ち着いて見られるようになりました。

このブログも消す前に、一言ご挨拶をと。

 

本人、ここにて闘病記として書いておりましたが、

ただ本当に、思いついた時しか書いてなくて、

そばで見ていた者(妻ですが)としては、多少付け加えたいことがあります。

今更何を言っても彼は生き返らないですけど、

あの時ああすれば・・あの時あれを知っていれば・・と、

今、闘病している方の何かの参考になれば・・です。

 

 

 

主治医から今回の入院の原因及び結果そして今後の方針について、説明があった。

息苦しさの原因は、心臓の周り(心嚢)に水がたまることにより、心臓が圧迫されて起こったようだ。

今回は水抜きをして、それで終わったような気になっていたが、そうでは無かった。

排出された水を検査した結果、心臓の周りに腺がんが転移しているらしい。

完治が望めなくなった今となっては、新たに転移が見つかっても、今更感があるのが正直なところである。

でも、あまりよろしくない転移らしいが・・・。

 

やはり一番恐れていた事が起きてしまった。

つまり、2~5月に投与して良好な結果を残していた抗がん剤が使えなくなってしまった。

現状維持であってもできるだけ長く投与を継続していたかった抗がん剤だったが、やはり継続できないとの判断だった。

類似した抗がん剤についても当然医師に聞いたが、難しいと言われた。

治験についても、同様に聞いてみたが、同じ答えだった。

 

つまり、治療としての抗がん剤は、現段階ではほかにないと言うことである。

昨年の秋にも同様の状態になったことがあった。 治療できる抗がん剤がこれ以上ない。

つまり、現段階でこれ以上の治療はできないので、自然に任せて、緩和治療のみを行うと言う事である。

 

いよいよこの段階が現実のものとなってしまった。

今までも、緩和治療に関しては、避けたい。考えたくない。と思ってきたが、避けられないものとなった。

 

 

 

 

前回の更新から三カ月程過ぎたところであるが、五月末までは、抗がん剤治療も順調だと思われていた。

しかし、現在の抗がん剤が、八回目を過ぎたあたりから体調がおかしくなってきた。

息苦しさが続いており、家の階段も上り下りがきつくなってきた。

 

6月3日の月曜日に我慢ができなくなり、急遽病院へ連絡を入れて診察を受けた。

医師からはCT検査の結果、心臓の周りに水が溜まっており、息苦しさの原因はそれと考えられる。

この状況を脱するため、緊急入院が必要であると告げられた。

同時に、肺炎も起こしており、その治療も同時に行う旨も説明された。

 

心臓の周りの水は、一週間ほどで抜けて楽になるだろうと説明された。心嚢ドレナージという治療らしい。

要するにお腹から針を刺して、溜まった水を抜くという分かりやすい治療だった。

最初の二日ほどで 1ℓ近くの水が抜けた。血のように真っ赤だった。

あれから一週間でほぼ水は抜けきり、昨日、心嚢内プレオマイシン投与法という治療がなされた。

これは、心嚢水が再貯留しないように、水がたまった部分に固める糊のような抗がん剤を入れる治療らしい。

痛みや発熱もなく、順調な経過だった。

 

肺炎についても抗生物質を何度か点滴により投与された。

特に副作用等もなく、本日、点滴の治療も終了したが、これで肺炎の治療は終了なのだろうか。不明だ。

現段階で、一番心配なことは、調子のよかった2月から5月まで使用していた抗がん剤が使えなくなるのではと言う事だ。

代わりのものがあるならいいが、そうでなければまた 使える薬がないことになる。

明日、カミさん同席で今後の治療について、主治医から説明がある旨である。

どうなることやら。