ホスピスのこと | 明日への轍

明日への轍

齢五十を過ぎて、ある日大腸がんが見つかる。
手術から回復したと思った一年後、肝臓と肺へがんが転移。
更に続くがんとの付き合いを記録します。

本人ここのブログの最期の投稿、2019.6.13に、「緩和ケアへの移行」と、

わかったように書いてますけど、

そばで見ていた者としては、この文章読んで、

「ほわ(・・)?」だった。

 

・・・アンタ、書いてることと、やってること、違いますやん?・・・

 

彼は、最後まで『ホスピス』というものを拒否してました。ガンセンターへの入院(治療)を切望しました。

9月3日、ガンセンターの主治医に電話して、他病院(ホスピス併設の)にもう移行済みだから、入院はそちらへと断られても、

だめですか?と食い下がって、主治医を困らせてました。

 

 

なのに、ここのブログには、6月時点で、「緩和ケアへの移行」と、

なぜ、わかったようなことを書いたのでしょうか?

 

謎です。

 

 

『ホスピス』についても、いよいよの最後になって、入ってもいいと思い直した瞬間はあったのかもしれないが、

その時には、もう遅く。彼は、病室すら移れなくなってました。(一般病棟である3Fから、ホスピス棟の2Fに移ろうとしたが、

リスクが高いと通告を受け、断念しました。)

 

とにかく彼の、「緩和」という言葉への嫌悪感や、触れたくない感はすさまじかった。

この言葉が出てきただけで、表情は強張り、思考がフリーズしているのが、横にいて見て取れた位で。

 

・・・「緩和」と言う言葉の本来の意味は、痛みを和らげるとかなのに。

彼の頭では、緩和への移行=その先には死しかない と直結してて、そんなこと考えたくも無かったんだろうなと、

今になったら思う。自分が死ぬなんて、絶対認めたくなかったんだろう。・・・

 

 

本来ならば、抗ガン治療を始めた頃(2017.9~)から、同時に緩和治療を含めたホスピスを検討すべきと、

医者から言われてたのだけど、

抗ガン治療が手詰まりになってからも(2018.9~)、本人の拒否の姿勢は、依然として変わらず。

流石に2018.12~癌がかなり進行してきて、ソーシャルワーカーさんは、やっきになって追いかけて来たけど、とにかく拒否。本人としては、まだこんなに元気なのに、何が緩和だよ!縁起でもない!という気持ちも、あったのだと思うが、

電話かかってきても出ないし。面会約束も延び延びにして、何も決まらない。

らちがあかず、仕方なく、家族(私一人)が行ってワーカーさんに話を聞いたりしたこともあったが、

帰ってから内容について話そうとしても、本人全く耳を貸さない。(これじゃ、私が行っても、意味が、ねぇ!)

 

医者もこれではいかんと思ったのか、説得に加わり、

「緩和ケアへの移行は、残された家族の為なんですよ。」と切り出したが、

残された家族の為?ハア、なんでその為に俺がそんなことしなくちゃいけないの?みたいな本人の反応に医者はたじろいだ。

(そして家族は少し傷ついた・・(笑)。)

 

あ、この言葉はコノヒトには響かないと見て取ったか、先生、方針を変えて、

「残された家族の為とはいいましたが・・それが、ひいては自分の為になるんですよ。」と言い換える。

すると、

なぜですか?と本人食いつく。それで「痛みを取ったり、少しでも快適に暮らせるように・・。」などと、

やっと緩和ケアの説明・・が出来た・・みたいな、そんなこともありました。

 

それでもその帰りには、「医者はおおげさなんだよ。」とか、「まだまだ先でよくないか。」と、

そんな風に言ってのけ、

また先送り変わらず。見たくないものは見ないで先に送り、ごまかしごまかし。

家族としては、そこを強くも言えず、緩和ケアへの移行(ホスピスの検討や、家にいるとしても、訪問看護などの在宅医療の選択や、痛みの対処に長期視野的なケアを受けられるよう考えることの)時期を、

完璧逃してしまったと思います。

 


あの、2019.6月の腺がん処置して退院した後も、まだまだ出来ることは、あったように思うのに。

「緩和」と銘打ってるだけで、本人、全く情報の収集も止めてしまっていたようで・・。

「痛みの緩和の為の放射線治療」とかあるみたいだよ・・と私が言っても、そんな知識も知らなかった。

外科的手術、抗ガン治療と進んできたダンナが、まだこの時点でやってなかったのは、放射線治療だったので、

試すのもアリでは・・と思ったのだが、遂に試せなかった。

本人としては、過去に放射線医に言われた、あなたの癌は、多すぎて各所に散らばっているから、放射線には向いてない。

それに、肝臓や肺など重要な臓器ばかりなので、健康な所にもダメージを与えて、逆に寿命を縮めることもあるみたいな説明が

頭にあって、そこから動けなかったのかもしれない。

緩和ではなく治療でも、

樹木希林さんが受けていたという鹿児島の某医療機関の放射線治療のことも、調べて伝えたが、

心は動かなかったようだった。

 

 

・・・話が逸れました。・・・

 

 

思い出したとき、あの時点に戻って、ああすればよかった。こうすればよかった・・と、

いろんなことを思います。それを書いておきたいと思って、

今回は、ポスピスの大切さについて、書こうと思ったのですが、

彼がとにかく拒否していたという話が長くなって・・なかなかそこまで行きつけない~~!

 

では、それはまた次回にでも。