「あの日 あの時 世界の街角で」バカブンド -6ページ目

「あの日 あの時 世界の街角で」バカブンド

ブラジル移民から世界放浪 若い頃にフラッシュバック
消せないアルバムの話。

「前の夜はぼちぼちの雪だった」朝になると一面の銀世界。

 

「今日も飛行場まで 食事を作って運ばなければならない」

「ワシントンDCの冬は結構寒い」

「日本の飛行機会社への機内食のデリバリーだ」

仕事は夜中から始めて、朝の9時まで届けなければいけない。

「料理は時間通り出来た」車にチェーンを着けて飛行場に向かった。

 

時間はかかったが「どうにか間に合った」「少しホットとした」

車の量は少なく、雪で道路は車線が見えなく怖い感じ。

 

一緒の仲間は2人「気をつけてゆっくり帰ろう」「帰ったら、雪見で一杯やろう」

 

その時、車がスーッと滑って道路の横に落ちて行った。

「びっくりした」「大丈夫?」10メーター程滑って止まった。

 

車は何ともなく「何にもなくて良かったな」「でも、ここからどうやって道に戻す」

そんな時、ポリスがどこかで見ていたかの様にやって来た。

 

「トラブルか どうするのか?」ポリスは罰金かの様に言って来た。

「困っています どうすればいいですか?」「よし 俺が助けてやる」ポリスは言った。

親指と人指し指を動かし「80ドル出しなさい そうすれば事故にもしない」

「そして ここから道路に戻してやる」「どうする?」

もちろんお金を払う事にした「解りました お願いします」

すると、道路の方からレッカー車が降りて来て「車は、あっとゆう間道路に戻った」

俺たちはポリスの礼を言い、お金を払いその場を後にした。

 

「あのポリスは あれで小使い稼ぎしているな」「レッカーの奴とはグルだな」

 

「流石アメリカ 何でもお金で形がつく」映画の1シーンを感じた。

 

「日本ではこんな事ないだろう」でもこれが世界で普通にある。

 

「ワシントンDCの大雪ニュース」そこに俺がいたのは現実。

間も無くサンパウロに着く。

あれから2年以上過ぎたが     又 ブラジルに来てしまった。

 

農業移民で移住して山奥での農作業の毎日、そんな生活に疑問を感じて帰国。

「こんな事でいんだろうか」帰国しても苦悩の毎日を送った。

 

そんな俺を見て親父が「頭で考えるより、体を使って答え出した方がいい」

「自衛隊でも行って体を鍛えてこい、そうすれば何か答えが出るじゃないか」

それも一理あると思い海上自衛隊に入隊。

 

体の方は学生時代はラグビーで全国大会や、国体に行った事もあり自信はある。

でも、農業移民していた期間もあり体が少し鈍っていた。

 

横須賀の教育隊で鍛えられ、体は元気になってきた「ラグビー時代から見れば楽」

教育訓練期間中は最優秀で終了し、自衛艦での勤務に「船酔いがきつく慣れるのが大変」

慣れてくると自衛艦もいいもんで「特に航海訓練での瀬戸内海、夕暮れ時が最高に綺麗だった」

 

そう言えば、休みで実家に戻った時、着いて間も無く電話、直ぐに自衛艦に戻れ命令だ。

内容は親達にも言えないでの帰艦「国家での仕事とはこう言う事かと知った」

 

勤務命令で厚木基地に変わった時の事、忘れられない出来事があった。

「艦を降りる時、全艦の隊員が帽子をふって見送ってくれた。海軍時代からの名残だそうだ、

戦争を知らない自分にも涙のお別れ」

 

「陸上勤務は艦よりも楽」厚木基地は米軍と一緒の基地なので異国感があり国内とは違う。

 

数ヶ月が過ぎた頃に、硫黄島での日米合同訓練に選抜され参加した事があった。

あの時代は一般の人は来れない所、島の彼方此方に戦争跡、基地には遺品も展示した所もある。

「悲しい場所を直に目にすると、決して戦争はしてはいけないと感じた」

 

自衛隊生活での時間がマンネリを感じた頃、江田島での下士官教育訓練の命令が出た。

親に話したら喜び、又、部署の先輩隊員から羨ましがれ、上官からおめでとうと言われた。

 

「俺はこのまま自衛官で人生が終わっていいか、本当に悩んだ」

「あのアマゾン川で別れてジャングル消えた研修所時代の仲間達、サンパウロの農地での人達、

あの時代を封印してもいいのか、あの時間を捨ててもいいのか、悩んだ」

 

結論は自分の心のままにブラジルに行く事にした「永住権もあるので働ける、何とかなるか」

「若い自分の答えは年配の人には理解出来ない」親には文句言われた。

 

初めてブラジルに行った時は45日間の船旅だったが、今度は飛行機なので早い。

 

「俺の変人な生き様。自慢の消せないアルバム」

朝から、一ヶ月後の店のオープン準備の打合せ。

 

初めて会う人達だ「顔を見るだけで一癖二癖もありそうな人間達」

 

天ぷら担当の責任者と寿司担当の責任者「どう言う訳か石焼ビーフの担当の洋食の人もいる」

どう考えても調和が取れているとは思えない「当分は様子を見ながら考えよう」

 

「天ぷらの責任者が、どうも態度が一番大きそう」「寿司の責任者は、我冠せずのようだ」

「洋食の人は腕がなさそうで、天ぷらの責任者に媚を売っている感じ」

 

初めに起きた問題は、日本での契約内容と違う件だ。

寿司の責任者の給料の内容が、日本で聞いたのとは違うと言い日本に帰ると言う。

 

次に起きた問題が、誰が親方という問題。

天ぷらの責任者が、日本を出る時に社長から親方と言われたと言う。

店の女将は、日本での水商売の経験がないので判断がつかないようだ。

日本の社長に現状を電話して来てもらう事にした「こんな調子で出来るのか」

 

夜になると、それぞれの部屋での作戦会議。

 

俺は家族がいるので、生活が出来る様に準備を始めた。

経理担当の女性が子供が好きなようで、よく部屋に来るようになった。

女房とも気があったのか仲良くなり、おかげで色々と助けてもらった。

ある時、彼女が言った言葉が「どうして、日本から来た人達は仲が悪いのでしょうね」

「仲が悪い訳ではなく、自分の立場をはっきりさせないと、仕事をしないのが職人と言う人種」

と教えたが彼女は理解できないと言う。

 

数日後、日本から社長がやって来た「建設中の店の中でのミーティイング」

 

社長は、責任者の件の話を皆の前で始めた。

「和食の責任者を中心にする。皆も協力するように」

 

その時は皆も解ったような顔をしたが「これからが大変そう」

 

最悪な人間関係は無協力体制の始まり。