NHKの「マッサン」が 人気のようですね

(以下 昔通ったバ-テンダ-学校の教科書から)

スコッチウイスキ-は 大麦麦芽(モルト)のみで

造った蒸留酒だということは ご存知ですね

語源はラテン語「アクアヴィテ(命の水)」だそうで

ケルト人用語で ゲ-ル語の訛り「ウスケボ-」が

「ウイスキ-」に なったといわれているそうです

「不老不死の妙薬」だったんですね

この「ウイスキ-」は

「木樽(ホワイトオ-ク)」と「ビ-ト(泥炭)と

大麦麦芽の組み合わせ」なんですが これが密造で

偶然の産物となったわけです

 昔のスコットランドではウイスキ-に課せられる税を

嫌って深い山が連なるハイランド地方で酒造りを始めた

しかし麦芽乾燥の燃料が足りない

そこで泥炭を使って燃料としたのだが その結果の

薫香が素晴らしかった そして税の摘発から逃げるため

木樽で原酒を隠したんですが 密造しているために

簡単には売れないので 原酒は何年も寝てしまう

人でいえば 布団の中での狸寝入りで このことが

偶然にも 香り・色・クチあたりなど長年の狸寝入りを

決め込んだ美酒の結果となったわけです

その主役が 泥炭だったんですね

 ウイスキ-造りの決め手は水もなんですが「湿気」で

その理由は「木樽」にあります 木樽が乾燥しては

困るからで 年間を通じて気温が安定している土地が

いいわけです

熟成に使う木樽も蒸留所によっては 30年前後は

使うようですね。

★「足元を固めよう」

 今の商品販売方法は さまざまです

インタ-ネット・テレビ・カタログさまざまあります

「生ものから工芸品まで」あらゆる商品が対象です

その大半は 宅配便で翌日には配達されます

各地の名産品も 居ながらにして手に入るので

アリバイ作りに利用されたりもします

 ところが 簡単に手に入るので ブランド価値が

低くなってしまって ありがたみが薄れてきた

そしてまた 旅をして土産品店に入ると違う地域の

特産品が置かれている あちらこちらに商品を

ばら撒いて売上を伸ばしたいとの思いは分かりますが

旅先で その土地だけの特産品を手に入れるという

ワクワク感もなくなってきましたね

 このような販売方法をやめて

「主体商品の販売は 店頭のみとする」お店も出てきた 

客の側は 欲しくともネットをはじめとした方法では

手に入らない不便な買い方になってしまったのです

情報化時代に逆らう売り方ですね

 でもこれはごく当たり前の売り方です

特に生ものなどは どんなに冷凍技術・流通が完備

されたとしても 届くのは最短でも翌日です

鮮度の問題は依然として残るのです

 造りたてを その場で味わっていただく・・

この売り方には敵なし~ということですね

通常に考えれば これも店主のこだわりでもあり

差別化でしょうね しかし中にはそれまでの売り方に

反省と疑問を持ち 変更した店主たちも多いのです

 反省と疑問とは・・「足元をおろそか」にしている

たしかに「全国銘柄」になった しかしそこには

育ててくれ た地元の皆さんがいたからなのです

すこしばかり名前が売れたのをいいことに

地元の客の存在を忘れてしまっていたのです・・

【地元なくして商品の存在はあり得ない】ことに

気づいての【地元回帰・逆転の発想】なのです

食べ物だけには限らない 工芸品・手芸・絵画などの

芸術家が名を知られてくると いつの間にか地元から

離れていく 地元を無視すれば いずれはその地元から

手痛い返礼を受けるようになると思ってますが・・

今まで育ててくれた 地元客との交流・地元定着活動で

ブランド名が高まる 地元を離れないことこそが

一層の飛躍につながるのです

 情報もSNSによる「現地通信」などがあります

知りたい土地の情報があれば 現地に住んでいるかたの

発信する情報が重宝します

世界各国の通信社の特派員が発する情報もそうですね

恣意的情報にならないように 事実を発信してから

そのあとに 発信者の思いを伝えればよいだけです

現地に行かずとも 居ながらにして現地情報を受信

できるようになる 便利になりましたね。 

 「失敗は成功の」母なのか父なのか知らないが

他人の落ち度を 殊更とやかくいうことはしない

むしろ所詮この世は有為転変 過ぎ去った楽しい夢

なのだと・・大成するまでの途中下車だよと・・

 本人だって「ピンチのあとにチャンス」ありで

通り道の風景を じっくりと佇んで眺めるくらいの

余裕をもつことも必要であります

 たとえば浮気をして彼女と会っているのをカミさんに

見られても災難のようなものだ 夫婦とは騙し騙されて

くっついているのが世の常なのじゃ・・

『あぁ~あの女ね オレはイヤなんだけどオレのファン

 の一人でね あまりしつこいから辞めてくれと引導を

 渡してたんだよ それにしてもお前は運がいい女だ

 オレと一緒になれたんだから』・・

 わが職場では クチうるさい嫁き遅れの小姑たちが

ワンサカといて ワガハイはいつもイビられている

普段は威勢がいい娘たちも ミスをした時は沈み込んで

グチをいいにくる

そんな時は 腹いっぱい美味いものを食わせながら

グチを聞く・・ただ聞くだけ

それだけで不思議なもんです グチを言いながらも

食い終わるとケロッとしてくる

 

思うに 美味いものを食うと周りのすべてが

よいものに見えてくるし 凹んだ思いも吹っ飛んで

しまうのかな と・・

そうすると 恋人やカミさんと気まずい雰囲気に

なったときなんかは 少し奮発してホテルとかの食堂で

美味しい食事をすればよいのでは・・。

★ナゼ・・【イキたいのに イケないのか】

ナゼ・・【イカせたいのに イカせられないのか】

「性欲と相性」の最後に このことを考えてみたい

 情報化時代の今でも 「性欲という儀式」は

男が主導するべきだという思い込みの「偏った儀式」

なんですね

そして たがいに「感じたい・感じさせてやろう」

そのような思いが強すぎると イケなくなる

「感じさせることなんて できない」のでは・・

「自分が感じた時に 相手も感じる」のでは・・

そのように 私は思うのですが

「性欲という祭典」に必要なのは・・

本当に好きだから・楽しみたい という「率直な思い」

そして「イメ-ジしながら言霊という思いを飛ばす」

この 二つがあればいいのでは・・と

「性欲の儀式」での【フリをする・フリをさせる】

ことは たがいの相手への思いやりではなく

それは裏切りです

女が【イカないのに イッたふり】をする・・

その理由は【男を愛しているから】・・

女は【男にフリをして】男は【女のフリで満足】

男と女の身体と心の違いもあるけど 悲しいことです 


【感じることができなかったら 相手に言えばよい】

でもね たがいに発する言葉が相手に正確に伝わって

いるとは限らないですよね

相手の「言葉の背後に潜んでいる」思いを探す・・

建前では 相手の過去は気にならない・・と

だけど たがいの本音は 気にしているはずです

相手が どのような人とつき合って どのような

儀式をしてきたのか・・と

 そのようなことを無視して 儀式をしているのも

「感じない・フリをする」因なのでは・・

たがいの過去を話し合い認めあうことが必要なのです

このようなことが 今の男と女に不足しているのでは

それは 理屈だよとすませることができますか・・

理屈だと思っているのなら 理屈だと思わない儀式を

すればよいだけです

それは 儀式の中でたがいに どうすればよいのか

素直に聞けばいいだけです・・

「性欲」とは 「男が女になる・女が男になる」

そして「子どもになること」・・だと。

おわります。


「六根清浄」を「ウイキペディア」でみますと

六根清浄とは、人間に具わった六根を清らかにすること

六根とは、五感と、それに加え第六感とも言える 

意識の根幹である

眼根(視覚) 耳根(聴覚) 鼻根(嗅覚)

舌根(味覚) 身根(触覚) 意根(意識)

六根は人間の認識の根幹で それが我欲などの執着に

まみれていては、正しい道(八正道)を往くことは

かなわない。そのため執着を断ち魂を清らかな状態に

することを言う。そのため不浄なものを見ない、

聞かない、嗅がない、味わわない、触れない、

感じないために俗世との接触を絶つこと・・であると

なっていますが・・

 「六根清浄」・・紫流では「五と一に別ける」

「眼・耳・鼻・舌・身」は『身体を意味する五根』で

「意(心)」は『五根を調整する一根』だと解釈する

 なぜ そのように思うのか・・

人間なんて「無垢清浄」になれって言われても わが

和弓や茶の師のような 人生の達人以外は無理で

ござんす

 たとえば『集中すれば必要以外の音は聞こえない・

他のものは眼中にない』なんてことは それこそ

ないんでございます

 そしてまた「五根」には それぞれ「人間の欲」が

潜んでございます

その「欲を感じとって調整する」役目をワガハイは

「一根である意(心)」に 求める

『元締め』のようなものでございますね

「意」にも「欲」がある むしろ他の「五根」よりも

あるだろう 『元締め』の役目は無理だ・・と

そのような反論は当然でございますが・・ワガハイは

「五根には それぞれが人間の欲をもっている」・・

ではその「欲」は どこからきているのか~となれば

「意(心)」からきている 「意」があるからこそ

「固定物である五根」が「動体物の五根」に変化する

わけでありまして そうすると もとはといえば

「意」が指示したことなのだから「意」が自らの

責任をとるべきだと 思うのであります

 そしてこの「五根」こそが 「性欲」と密接に

繋がっているのでございますね

「眼・耳・鼻・舌」そして「触れる」すべて

「性欲」には必要で総動員しなければ この作業は

成就しません

「性欲」には「動と静」があります それはまるで

「禅庭」での「石・樹・水・地」などの自然の心が

時にはせばまり 時には広がりながら

人間の心に語りかける「様」と 似ています

 この「動と静」「禅庭の様」こそが「五根」であり

それを調整するのが 「一根の意(心)」なのです

と なれば 成就したその時は「死」を迎えるのです

「性欲」の果てには「死」があるのです

「死は厳粛」なものです ならば「性欲」は

「厳粛な儀式」でございます

「己は生きている・生きていることがありがたい」・・

そのことを感じ取ることが 人間の「性欲」なのです。

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紫の論はヘンだと思われましたら コメント願います

 次回で終わります。