今日12月13日は、草野球チーム・東京Crazy9の今シーズンラストゲーム。12月半ばまで活動しているチームは、なかなか無いのではなかろうか。
 
 本日は練習試合ダブルヘッダー。
 第1試合。僕は3番ファーストでスタメン出場させてもらえた。うちはチーム内に巧い選手がたくさんいるので、クリーンアップを打てるチャンスは滅多にないのだが、今日は活動最終日ということもあり、監督が年齢の高い選手や球場への集まりが早かった選手を優先的に上位打線に組み込んでくれたおかげで、僕の3番スタメンが実現した。

 実は僕の中で“3番”は一番打ちたい――というか理想型の――打順なのである。
 それは少年野球時代に溯る。当時も実力的には大したことないレベルの選手だった僕は、ほとんど下位打線を打っていた。ただ、その日の試合前のバッティング練習は何故か好調だった。理由はわからないが、いい当たりの打球をポンポン打てたのだ。
 少年野球チームといえども、さすが監督。氏はちゃんと僕の打撃練習を見ていてくれたのである。
 スタメンを聞いて驚いたのは僕のほうだった。「3番サード横井」――監督はそう発表したのだ。
 その時まで、僕は3番や4番という打順を意識したことがなかった。自分が打つことはない……子供ながらにそう決めつけていたのだ。しかし、いざ自分が3番に座ることになったら、強烈にこの打順を意識してしまった。
 すごく嬉しい。同時にすごいプレッシャーを感じた。
 バッティング練習そのままを出せばよかった……。もちろん、そうしたつもりだった。しかし試合での僕は心も体もガチガチで、3番打者として1本もヒットを打てないまま、その試合は終わった。

 それ以来、3番は僕の中で最も憧れる打順となり、同時に最も遠く感じる打順となった。
 でも常に一番高い目標として、僕の中には理想の3番打者がある。

 そして今日の第1打席、ランナーを二塁に置いて、僕は3番打者としてセンター前ヒットを放った。
 先週も3番打者として、初回の打席にレフト前ヒットを放った。
 夢のような、二週連続での3番としてのヒット。気分は最高!

 そして夢のあとには、悪夢が待っている。

 ヒットで出塁後、二盗を成功させた僕は、牽制球の際に帰塁した。その時、遊撃手と交錯し、人工芝だったこともあり、スパイクを芝にとられ、左足首を捻挫してしまったのだ。脛の辺りから「ポキッ」と小さな音がしたから、「やばい、やっちまったか……」という気持ちになった。さいわい、試合後の病院で骨折はしていないことがわかったからよかったものの、この怪我で僕は途中交代せざるを得なかった。
 まだ1回裏である。ここから先制しようかという好機。ここでの戦線離脱は精神的ショックが大きい。

 さいわいなことに、チームはここから順調に加点し、快勝を収めた。
 第2試合も見事なゲームの進め方で、終わってみればノーヒットノーランでの大勝!

 2011年のCrazy9は有終の美で今シーズンを終えた。

 そして僕にはまた課題が残った。
 つまらない怪我をしないこと。技術の上達以上に、根本的な基礎の基礎だ。それが最終日で崩れた。それはそのまま来シーズンの課題になる。
 来季は本格的に左打ちにも挑戦したい。年齢的にも成功の可能性は限りなく低いことを承知の上での挑戦だ。そしてチームへの貢献度を今年以上に増やしたい。試合での貢献はもちろんだが、それ以外の面でもいろいろ貢献できる場所はある。スコア書き、グラウンド整備……野球に関わるすべてにおいてだ。

 来季も野球ができることに感謝し、シーズンオフは自主トレに励みたい。
 僕の所属する草野球チーム・東京Crazy9は、今シーズンの大詰めを迎えた。先週の10月25日(火)が、大蔵リーグ・プレーオフの準決勝。僕はその少し前に帰省していたのだが、その途中で体調を崩してしまい、東京に戻るのが準決勝前日の夜遅くになってしまった。本来なら土曜には帰京し、直前の自主トレを経て準決勝に臨むはずだった。しかし試合前日も満足に食事ができない状態で、翌朝に運動するなんて、かなり無茶な状態に……。それでも何とか体調の悪さの山場は越え、試合当日は自転車で世田谷球場に辿り着くことができた。
 準決勝の対戦相手は、Crazy9の好敵手・しゃぁしぃず。僕は7番ファーストで先発出場した。軟式野球は実力が拮抗したチーム同士だとロースコアの戦いになることが多い。お互い、投手も良いから、そんな展開になるのだ。
 1回裏、Crazy9が2点を先制すると、その後は両チーム0が並ぶ。僕は計3打席で、そのうち二度はチャンスの場面だったが、決定打を放つことができず、追加点に絡めなかった。守備では何度か難しい送球もあったが、無難にキャッチし、こちらは相手を零封するのに微力ながら貢献できた。結局、試合は2-0のまま、Crazy9が勝利した。強豪しゃぁしぃずに何とか勝つことができ、Crazy9は決勝へ。

 そして今日、11月1日(火)、同じく世田谷球場で決勝戦が行われた。僕は先週、万全の準備で試合に臨めなかったこともあり、今週は日々の自主トレをさらにしっかりこなし、体調も良好で、球場入りできた。決勝の相手はナインエールズ。前年度の覇者である。ナインエールズは安定して実力を発揮するチームで、プレーオフなどプレッシャーのかかる試合にも強い。Crazy9はリーグを1位通過したが、唯一の負けが、このナインエールズ戦なのである。リーグ戦の借りを返す意味もあり、昨年の準決勝での逆転負けの悔しさをぶつける意味もあり、初優勝を狙うCrazy9にとって、ナインエールズはどうしても超えなければならない高い壁である。
 まさに今日は野球日和。碧く高い空に、人工芝の緑が映える。両チーム、全力を尽くす覚悟で試合に臨む。準決勝にも増して、決勝はさらに緊迫感のある投手戦になった。Crazy9の先発・坂原投手は途中までパーフェクトのナイスピッチング。ナインエールズのエース・鈴木投手は力強いストレートと切れの良いスライダーでCrazy9にチャンスを作らせない。両チーム、何度かスコアリングポジションにランナーを進めるも、タイムリーは生まれず、試合は0-0のまま最終回の7回へ。そこでも決着つかず、延長の8回に突入。先攻のCrazy9は0点。そして後攻のナインエールズは、1死満塁のチャンスを掴む。まさに手に汗握る展開。この回からCrazy9は、好投の坂原投手から両エースの尾崎投手にスイッチしている。守る9人の選手も、ベンチの選手も、一丸となって1点を防ぐ覚悟だ。ここで尾崎投手の渾身のストレートを、打者が見事に打ち返し、打球はセンター前へ。ナインエールズが1-0でCrazy9にサヨナラ勝ち。
 この瞬間、Crazy9の初優勝の夢が消えた。吉高監督の胴上げ……Crazy9の数字に因んだ9回の胴上げ、監督の背番号と同じ9回の胴上げ……そんな僕の夢も蒼い空の向こうに儚く薄れてゆく。僕はこの瞬間を、グラウンドではなく、ベンチから見届けていた。この試合、先発を外れた僕は、均衡の崩れない展開の中、最後まで出番はなかった。監督は「チャンスが巡ってきたら、代打あるよ」と言ってくれた。嬉しい言葉だ。試合結果は悔しいが、吉高監督の下、そしてこの仲間と一緒に、決勝を戦えたことを誇りに思う。スコアブックを握る僕の手は、バットやグラブを握る手と同じだ。

 僕は毎年、最後の試合で天から課題を授けられる。
 2009年の公式戦ラストゲームは、同じく決勝で、この時もチームは敗れた。僕は自分の実力不足を痛感し、このオフから本格的に自主トレを始めた。雪が降るような寒い日も、バットを振り続けた。
 その甲斐あってか、2010年は実力アップを体感できる年だった。リーグの好投手からもヒットを打てるようになり、練習はウソをつかない、そう思った。しかし公式戦最終戦で、僕は痛恨のミスを犯した。この時は3位決定戦。ファーストを守った僕は、イージーな送球を二度も落球してしまったのだ。それが失点にも絡む。顔から火が出るほど恥ずかしいプレーで、チームに迷惑をかけたことを悔やんだ。幸い、メンバーの活躍で、この試合は逆転勝ちできたが、僕は自分の甘さに気づく。少し実力アップしたことに、僕はホッとしてしまっていたのだ。まだ満足とはほど遠いレベルで、満足していたことになる。この悔しさをバネに、僕はそのオフからさらに激しい自主トレを続ける。
 そして迎えた2011年、初戦のバッティングの感じは良好だった。初打席、僕はレフト線に痛烈な打球を放った。この眼はたしかに打球がフェアだったことを確認した。しかし判定はファール。結局、打ち直しは凡打。初打席が10割スタートと、0割スタートでは気持ちは雲泥の差だ。僕はそこから調子が上がらなかった。シーズン初安打が出るまで苦労してしまったのである。しかしここにも僕の甘さがあった。気持ちの切り替え、それができていなかったのだ。幸い、夏場から調子は上がり、リーグの強豪・MJB戦では貴重なタイムリーも放つことができた。練習試合では、Crazy9入団後初のホームランも。そして何より大事にしていたこと。シーズン全試合の出場だ。先週の準決勝まで、この記録は継続していた。これは、仕事もある中、毎週火曜を野球のために空ける努力も必要だし、球場に遅刻せずに到着し、怪我もなく1シーズンをすごさなければ達成できないことだ。僕はその過程で大切なことに気づかされた。ヒットを打ち、ファインプレーをするのも大事だが、試合に出続けることはもっと大変だと。ここまで起用してくれた監督に感謝している。そして今年も公式最終戦で、野球の神様は僕にテーマを与えた。決勝で、信頼してスタメンに起用される選手になりなさい、と。それには、さらなる努力が必要だ。野球が下手で、野球が好きな僕だからこそ、来年の目標に向けて、今日からさらに頑張っていきたいと思う。

 野球日和が永遠に続くように……。

 今年、僕の草野球を応援してくれたみなさん、本当にありがとうございました。
 焦っていた。気がつくと、僕は岐阜に居るまま26歳の春を迎えていた。このままではいけない。僕は長年封印していた人生の夢に懸ける決意をした。東京へ出る。……書いてしまえば簡単なことだ。新幹線に乗れば2時間かからない。それでもここに至るまでには長い長い歳月が必要だった。僕は覚悟を決めた。自分の意志で自分の進む道を決める。この時の僕にとって、それが一番大切なことだった。

 僕は真っ先に、東京の草野球チームを探した。まだ岐阜にいる時点で、ドラフト外での入団が決まった。親に東京へ出る意志を告げた。小説家になりたい。それも伝えた。反対だった。上京も職業も。当たり前である。人として何の実績もなく、社会経験も乏しく、ひとり暮らしの経験もない。息子のことを想うからこその両親の正論だった。
 冷静な両親を、無謀な僕の行動が動かした。僕は独り東京へ行き、下宿先を決めてきてしまったのだ。生活の糧の目処をつける前にである。僕にはもうこのタイミングしか残されていなかったのである。息子が本気だということに両親も気づき、最後は賛成して、快く送り出してくれた。

 東京で初めて入団したチームは「マイティーダックス」。学生主体の若いチームだった。26歳で世間一般にはまだ若いはずの僕もチームでは最年長だった。残念ながらチームには既に背番号6がいて、途中入団の僕は自分の歳と同じ26番を選んだ。一桁だけは6が入っている。ささやかなこだわりだ。とてもいいチームだった。でも主要メンバーの大学卒業とともにチームは自然消滅してしまった。

 しかし当時の監督が救いの神になる。彼はもう1チーム持っていて、そちらに僕を誘ってくれたのだ。ここで僕は念願の背番号6をつけることができた。小学校卒業以来、実に15年ぶりの再会である。チーム名は「グランドスラム」。日本語にすると満塁本塁打である。ドラゴンズと同じく青いユニフォームだった。
 ここでも野球の実力では苦労した。でもチーム内で初の満塁ホームランは僕が打ってしまったのだ。滅多にヒットを打てない僕が……である。ここが野球の面白さだ。実力者が必ずしも結果を残すとはかぎらない。こういう番狂わせが起こりうる不思議なスポーツなのだ。

 そして今、僕は「東京Crazy9」というチームに所属している。四年目だ。背番号6である。
 僕はチャンスが巡ってきた時は落合博満のつもりで打席に入る。ランナーを進めたい時は川相のつもりでバントを試みる。セカンドを守る時は井端。外野なら多村だ。全員、背番号6である。
 毎週火曜日に世田谷の大蔵リーグで戦う僕らは、今シーズン1位でリーグ通過した。10月25日がプレーオフの準決勝である。この試合を勝てれば、決勝に進める。念願のリーグ初制覇に向けて、 Crazy9は燃えている。
 そう、僕は命懸けで野球をしているのだ。高校、大学時代の後悔を二度と味わわないために。今年、僕は試合を一度も休んでいない。メンバーは仕事の傍ら草野球をしているから、どうしても仕事と火曜日が重なってしまうことがある。だから全ての週に参加するのは、かぎりなく難しいのだ。それでも僕は可能なかぎり野球を優先している。試合がない日は自主トレだ。
 いつまで現役を続けられるかわからない。希望は還暦まで現役だが、今は一日一日を大切にし、全身全霊で一球に懸けている。

 背番号6はユニフォームの奥深くにまで染み込み僕の背中にくっきりと青春色を残している。
 告白しよう。僕はこれだけ野球が好きだと言っておきながら、中学、高校、大学と野球部に入っていないのである。それぞれの時代に、それぞれの理由があって、野球部入りを断念したのだが、これはおかしな話だ。野球が好きで、野球がしたいなら、入部すればいいではないか。単純にただそれだけのことである。

 中学時代の僕は消極的だった。自分の力では野球部に入ってもついていけない。そう思い込んでいた。だから野球部という選択肢はすぐに消えた。ちょうど一年の時の担任の先生がテニス部の顧問で、僕は無意識のうちに「これも何かの縁」と感じたのか、軟式テニス部に入った。団塊ジュニア世代、ただでさえ生徒数が多い中、テニス部は一番の大所帯だった。一年生だけで楽に50人は越していた。部活の時間、テニスコートは人でいっぱいなのだ。この時の僕は勉強も運動も頑張っていた時期。先輩についていくために、必死で練習した。そうしたら、一年生の中で一番手に選ばれてしまったのである。軟式テニスはダブルス制。ペアの彼と僕は、気がついたら50人の頂点に立っていた。何度も言うように、僕は決してスポーツが得意ではない。でも練習は嘘をつかないのだ。
 こんな経験もあり、少し自信のついた僕だったが、それは野球とは違う分野での自信だった。そして高校時代に野球部に入部しなかったのは、先記の通りだ。
 では満を持して大学で野球部に入ったのか……。答えはノーだった。高校時代、勉強にも野球にも手がつかなかった僕である。希望の大学に入学することができるはずはなかった。僕が進学したのは、地元の大学。でも僕の夢は東京の大学で、理学部に入り、数学を学ぶことだった。現実は岐阜の大学の工学部である。同じ国立で、学部も同じく理系。そこにどれだけの違いがあるのか……なのに僕の中では、またしても挫折の数が増えてしまった。こんな思いを抱いた僕は、何て浅はかで、子供じみた考えの持ち主だったのだろう。それは今になってわかる。でも二十代前半の僕は、社会の厳しさを何も理解していなかった。ただ自分の理想だけを胸に秘め、それが叶えられれば満足、駄目だった場合は絶望。こんな両極端な思考を持っている人物に、僕はこれまでの人生で出会ったことがない。それほど僕は変わり者だった。大学時代、僕は東京の大学で野球部に入りたかった。でも今、自分が居るのは岐阜の大学。ここで野球部に入るわけにはいかなかったのだ。本当は野球がしたくてたまらなかったのに、野球部のユニフォーム姿が羨ましくてたまらなかったのに、自分の中にある狭いこだわりに固執するあまり、僕はまたも自分の好きなものから目を逸らし、自らを遠ざけてしまった。

 人一倍、自分の人生を大事にする気持ちがありながら、僕は自らの手で自分の人生を負のスパイラルに導いていたのである。

 大学時代は楽しかったのか。……高校時代と同じく、心の一点の曇りは晴れることがなかったから、悩みは常に抱いていた。でも楽しかった。楽しく思えた時間があった。
 親友ができた。まるで子供のように、互いの家を行き来し、キャッチボールをした。思えば、僕は十代の頃から“遊ぶ”ということを本当の意味で知らなかったのではないだろうか。これも不思議な話である。
 恩師に巡り会った。自分のやりたい勉強とは少し分野が違ったかもしれない。それでも僕はその先生の講義が好きだった。一番前の席で授業を聴いた。
 ピアノを弾いた。音楽はもともと好きだった。叔父が歌手だったこともあり、僕の子守唄は叔父の歌声だった。曲作りへの憧れがあった。作詞・作曲をし、デモテープを作った。
 小説を書いた。この頃から僕は物を書くことが好きになっていた。理系人間の僕が文系にも目覚めた時代である。初めて書いた童話が、文学賞に入選した。

 こう書いてみると、悩み苦しんでいた思い出しかない僕もけっこう行動してるじゃないか。それは大学時代に急に芽生えたものではない。高校時代にも同じことをしたかったのだ。勉強して、野球して、ピアノを弾いて、小説を書いて……。僕の中にはやりたいことが明確にあった。でも実践するまでには高い壁があった。それは自らが作ってしまった透明な壁だ。つまらないこだわりさえなければ、そこには最初から壁など存在しなかった。そんな簡単なことに気づくまでに、僕は10年もの歳月を費やしていた。

 僕には、中学、高校、大学と背番号がない。

 背番号6は封印から解き放たれる日々を静かに望んでいた。

つづく
 よく犬は飼い主に似るという。実際には飼い主が犬のほうに似ていくのかもしれないが、犬もご主人様が好きで、飼い主も犬を我が子のようにかわいがるから、互いに少しずつ近づいてゆくのだと思う。
 僕にも似たような経験があった。あれは高校2年の時だ。ある日、級友がまじまじと僕の顔を見つめ、「似てるねぇ」とつぶやくのだ。彼は僕が犬を飼っていることなど知らない。思わず僕は訊いていた。「何に?」
 彼は即答した。「落合だよ」
 思い出してほしい。僕は落合博満をハンサムとは思っていなかった……。でも級友は褒め言葉のつもりで、似てると告げたのだ。球界の四番に似ているなんて光栄じゃないかと。僕は複雑だった。
 でも次第に、まんざらでもない気持ちになった。相変わらず運動音痴で、甲子園への憧れはありながらも野球部入りを断念していた僕にとって、その言葉はささやかな励ましになったのかもしれない。

 うちの高校は進学校で、周りはまず第一に学業優先だった。でも僕の中には勉強だけを頑張るという選択肢はなかった。勉学も精一杯頑張って、野球も必死にやる。それが僕の高校生活の理想だった。
 でも僕は中学時代のある挫折で、勉強も野球も100%の力で取り組めない人間になっていた。真面目すぎた故に、当時荒れ始めた周りの生徒に馴染めず、僕は中学校のある期間、クラスで孤独な時間をすごしたことがあった。それでも親友や先生、家族の支えがあり、その時期を乗り越えることができたが、僕はその過程でほんの少しだけ学業の成績が下がった自分を許せなかった。誰もそんなことを責めたりしない。周りの理解があったにも拘わらず、当の本人が人生の目標を失い、絶望してしまったのである。今ふり返れば、何故そこまで思いつめてしまったのだろうと客観的に見ることができるのだが、十代半ばの僕は真剣に悩み、ただただ苦しかった。
 希望の高校に入学することができ、本当なら心から嬉しいはずなのに、99%までは喜べても100%喜ぶことができない自分……それが恐ろしかった。僕の気持ちは高校生活で一度も、きれいに晴れわたることはなかったのである。
 僕が高校で野球部に入らなかった理由は実はそこにあった。勉強との両立を断念したからではない。家が遠く、時間を作れないからでもない。坊主頭には多少の抵抗もあったが、それは理由にもならない。
 僕は100%努力できない自分が恐くて、目指す前から甲子園を諦めてしまったのだ。

 野球を諦めるということは、勉強を諦めることとイコールだった。もう少し僕の頭が柔軟で、野球がダメなら勉強があるさ、勉強がダメなら野球があるさ……そんなふうに考えられる人間だったら結果は随分変わっていたと思う。それでも僕は100か0の思考しかなく、とてつもなく頭の硬い人間だった。
 そして現実を正確に認識する能力にも欠けていたと思う。もし野球部に入っても、当時の僕の実力と、体力のなさでは、レギュラーはおろか練習にもついていけなかっただろう。だから野球部に入っても挫折していた可能性は限りなく高い。だけれど、やった上での後悔と、やらなかった後悔とでは、まったく意味が違う。実際に野球に取り組んで、厳しい結果が出たなら、もちろん辛い思いはするだろうが、その時の思い出も残る。でも野球部に入らなかった僕には、高校の野球部での思い出がない。

 世の中で最も恐ろしいものは、後悔だと思っている。

 僕は自分の手で、人生の大きな選択ミスをしてしまったのだ。この時の想いは、のちに僕が野球に取り組む姿勢に活かされることになる。それは高校卒業後、約10年もあとの話だ。

 思えば、落合博満も若き日は順風満帆な野球人生ではなかった。彼には実力があった。高校一年から四番を打つ力があった。それでも野球部の先輩の理不尽さに嫌気がさし、入退部を繰り返し、結局、甲子園出場も果たせなかった。しかし落合は10年のちにプロ野球を代表する打者になる。そこにあるキーワードは「天才」ではなく「努力」だ。もっと正確に言えば、「天才がとことん努力をした」のである。やはり野球の世界では、生まれ持った才能も必要だ。だが才能だけですべてがうまくいくほど、この世界は甘く作られてはいない。最後に勝つのは、最も練習した選手である。
 背番号6の落合はドラゴンズの四番として試合に出続けた。高校時代、家で中日の試合を観戦する時間と睡眠の間だけ、唯一悩みを忘れることができた僕にとって、落合博満の活躍は心の救いだった。

 背番号6はどん底の僕を救う人生の恩人になった。

つづく