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Ayanosuke

中学の歴史の授業でキリスト教に興味を持ち始め、オーストラリアの日本語教会で洗礼を受けクリスチャンになりました。
そんな私がミイラ取りからミイラになり、ミイラになり切れなかったことを感じた記録です。

聖書を読んでいるとしばしば奴隷という表現を目にします。

 

奴隷と聞くと私はどうしてもアメリカの黒人奴隷をイメージしてしまいます。

また、「ベン・ハー」に出てくるガレー船の漕ぎ手(ベン・ハーは罪人ですが、奴隷もいました。)をイメージする方もいるでしょう。

 

『ルーツ』というアメリカのTVドラマがあります。

アフリカからアメリカに奴隷として渡り、競売にかけられて、非人間的な暮らしを余儀なくされる。

そんな中、主人公が自分のルーツを探すという物語です。

私は第一話を少しだけ見ましたが、ドラマとは言え、目を覆いたくなるシーンばかりで、途中で見るのをやめました。

 

しかし、奴隷が虐待されていたというのは後代の偏見で、旧約聖書の時代は非常に大切にされていたらしいことがわかっています。

 

奴隷は家畜であって、家畜の中には牛や馬や羊がいたようにヒトもいたということでう。

大カトー時代には、ある祭りの日には奴隷を上座に据えて主人が給仕したといいます。

しかし、だからと言って奴隷が人間として大切にされていたのではありません。

あくまでも家畜として大切にされていました。

 

ちなみに、パレスチナ地方で実質的に奴隷がいなかったのはイスラエルだけでした。

これはモーセの律法、特に申命典が奴隷を持てないようにしたからで、むしろ例外であると言えるでしょう。

 

『風と共に去りぬ』の中で「立派な奴隷をあんなふうに扱うはずがない」という言葉には、古代の奴隷の扱いを知っていたことがうかがえます。

 

参考文献 日本人とユダヤ人 山本 七平

ノンクリスチャンの友だちからこのような質問をされました。

私は人が死ぬと、魂は肉体から離れるという認識しかなかったので、イエスが死んで蘇ったと聞いても、それを事実であったと受け止めることが信仰だと思っていました。

 

私のお墓の前で 泣かないでください

そこに私はいません 眠ってなんかいません

千の風に 千の風になって

あの大きな空を 吹きわたっています

 

秋には光になって 畑にふりそそぐ

冬はダイヤのように きらめく雪になる

朝は鳥になって あなたを目覚めさせる

夜は星になって あなたを見守る

 

作者不詳・新井 満訳詞作曲のこの歌を初めて聞いたとき、私はイエスを思った。

「空の墓」、イエスが十字架上で亡くなって埋葬された後、何人かの弟子が墓を訪ねたら、墓は空になっていた。イエスが神によって復活させられた瞬間は、聖書に何一つ描かれていないが、墓が空であったことをマルコ福音書は報告している。

だから「そこの私はいません 眠ってなんかいません」という歌詞に接した時、イエスを思い起こした。

また同時にヨハネ福音書14章の中で、イエスが死を直前にして、我々に残した約束事を想い出した。

そこには、イエスが死んだら、我らを守り助けてくれる真理の霊(息吹・風)を送ろうとの遺言が語られている。

聖霊、即ち父なる神の霊であると共に復活したキリストの霊を、天から送ろうとの約束である。

言葉を換えれば、我らと同じように生活し、悲しみや苦しみをみな経験し尽くした、あのイエスが、天から力強い息吹を、自らの風を送り、神が善人にも悪人にも雨を降らせるように、一人一人の心を照らし、慰め、勇気づけてくれると約束したのだ。

だから、『千の風になって』を初めて耳にした時、イエスが風になって、千の風になって、あの大きな空を吹き渡っているんだなあ、と素朴に感じた。

天の風、すなわち風天のイエスである!

『寅さんとイエス』より

 

「聖霊とは」の項でも書きましたが、聖霊は風と息に由来する言葉です。

イエスの肉体がどうなったかは、分かりません。

私たちは目に見えないと、存在しないものと思いがちですが、イエスは千の風になって今なお私たちの心を慰め、導いているのだなと思います。

 

参考文献 寅さんとイエス 米田 彰男

少し前に、ミャンマーのロヒンギャ族の問題が報道された時、男性は森へ逃げて、村に残されたのは女性と子供だった。というニュースを聞いて、聖書の姦淫の現場で捕らえられた女の記事を思い出しました。(「ヨハネの福音書」8章3節から11節)

これを題材にする説教はその後のイエスの「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。ヨハネ8:7」がフォーカスされますが、姦淫は女だけでは出来ません。男が必要です。

この時、男はさっさと逃げてしまい、女だけがとり残された状態でした。

本来であれば、男女共に処刑されるべきなのに、女だけが裁きを受けるだなんて不公平だ!と思いました。

この記事は、この時代の女性の地位の低さを物語っているとも言えるでしょう。

 

この時代、女性は男性の所有物であり、女性がある男と結婚することは、その女性は結婚した男性の所有物になることでした。

旧約聖書の中の「箴言」や「シラ書」には確かに女性の美徳をたたえる言葉も見出すことがありますが、ユダヤ教の社会では、一般に女性は否定的にとらえられていました。

イエスが生きた時代も女性蔑視は、はなはだしく例えば新約聖書の中の「女、子供を除いて四千人であった」等の表現にみられるように、子供と同様、女性も人の数に入っていませんでした。

また、「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。マタイ5:27〜28」については、この問題は「盗み」にかかわること、すなわち所有物、私的財産の侵害の問題です。

 

私は、道徳上の問題、倫理上の問題のように考えていましたが、女性の立場を考えると、この言葉の真意が見えてきます。

 

参考文献 寅さんとイエス 米田 彰男