少し前に、ミャンマーのロヒンギャ族の問題が報道された時、男性は森へ逃げて、村に残されたのは女性と子供だった。というニュースを聞いて、聖書の姦淫の現場で捕らえられた女の記事を思い出しました。(「ヨハネの福音書」8章3節から11節)
これを題材にする説教はその後のイエスの「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。ヨハネ8:7」がフォーカスされますが、姦淫は女だけでは出来ません。男が必要です。
この時、男はさっさと逃げてしまい、女だけがとり残された状態でした。
本来であれば、男女共に処刑されるべきなのに、女だけが裁きを受けるだなんて不公平だ!と思いました。
この記事は、この時代の女性の地位の低さを物語っているとも言えるでしょう。
この時代、女性は男性の所有物であり、女性がある男と結婚することは、その女性は結婚した男性の所有物になることでした。
旧約聖書の中の「箴言」や「シラ書」には確かに女性の美徳をたたえる言葉も見出すことがありますが、ユダヤ教の社会では、一般に女性は否定的にとらえられていました。
イエスが生きた時代も女性蔑視は、はなはだしく例えば新約聖書の中の「女、子供を除いて四千人であった」等の表現にみられるように、子供と同様、女性も人の数に入っていませんでした。
また、「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。マタイ5:27〜28」については、この問題は「盗み」にかかわること、すなわち所有物、私的財産の侵害の問題です。
私は、道徳上の問題、倫理上の問題のように考えていましたが、女性の立場を考えると、この言葉の真意が見えてきます。
参考文献 寅さんとイエス 米田 彰男
