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Ayanosuke

中学の歴史の授業でキリスト教に興味を持ち始め、オーストラリアの日本語教会で洗礼を受けクリスチャンになりました。
そんな私がミイラ取りからミイラになり、ミイラになり切れなかったことを感じた記録です。

私がキリスト教の名前を聞いたのは、おそらく中学の日本史の授業だったかと思います。

 

1549年(いごよく)伝わるキリスト教。

フランシスコザビエルが日本にキリスト教を伝えた。

そしてその後、島原の乱をひき起こすほど、信徒を増やした。

 

という印象だったと思います。

思えば、私はその時からキリスト教に興味があったのだと思います。

 

『キリスト教とは何か?』

そこで調べました。

 

イエスはユダヤ人でした。

キリストはギリシャ語で「救世主」を意味します。

ですので、イエス・キリストは名前ではなく、救世主のイエスという意味です。

 

イエスが生きた時代、ユダヤ教は律法原理主義でした。

そこにイエスが現れ、「神の言葉(ロゴス)」を体現しました。

当時はユダヤ教ロゴス派とも表現できるでしょう。

ユダヤ教の流れを組んでいるので、キリスト教が広まるにつれて、改宗した異教徒に対して、律法に従って割礼を義務付けるかどうかは切実な問題でした。

そしてギリシャ語世界に生きて布教した普遍的のパウロとユダヤの伝統に忠実なヤコブやペテロとで意見が分かれました。

結局、改宗者は律法厳守の義務も割礼も免除されると決まったのは、紀元50年頃で、そのことが決定的にキリスト教をユダヤ教から分かつことになりました。

 

「割礼」という言葉は、旧約聖書の創世記から出てくる言葉です。

確かに、現在ではキリスト教徒の男性は割礼を行っておりません。

それがなくなった理由でさえ、私は教会では聞いたことがありません。

 

参考文献 キリスト教は「宗教」ではない 竹下 節子

豚といえば、沖縄そばのてびちが好きです。

豚の手がそのまま入っているので、苦手な方もいるかもしれません。

どのような味がするのか最初はドキドキでした。味は豚肉そのものでした。

 

ユダヤ教徒もイスラム教徒も、豚を食べない。その理由は、宗教上の禁忌であるからだが、豆知識として、砂漠の民に豚が嫌われる理由を考えてみよう。

わずかでも雨期がある地域なら、オリーブやブドウが育つ。これは、オリーブ油やブドウ酒となるので、貴重な換金作物である。

荒地でもナツメヤシや豆が育つ。中東戦争が激化すると、広島のお好み焼きがピンチになる。あの独特のソースの甘みは、ナツメヤシが原料なのだ。一方、豆は、貧民の主食になる。

豆やナツメヤシが取れない土地にも、わずかに草が生える。ここで活躍するのが羊である。人間が食べない草を羊が食べるからこそ、土地の有効利用が可能なわけで、羊こそまさに神の賜物といえるだろう。

一方で、豚は草を食べない。豚が食べるのは豆などの雑穀である。つまり、人と同じものを食べる。人が食べる豆を豚に食べさせるのは金持ちの贅沢のためである。金持ちが豚を食べ、豚の飼育が盛んになると、貧民は豆が食べられなくなる。つまり、豚の存在は貧富の差を拡大し、時には貧民を飢えさせることになるのだ。それゆえに、豚は嫌われ砂漠の民は禁忌としている。

 

ちなみに、現代の東南アジアに住むイスラム教徒曰く、「豚⁉︎あんな美味しいものを食べない理由はない。」とのことです。

昨今、日本でもイスラム教徒を見かける機会が増えました。

イスラム教徒の多い国や地域では、宗教上の禁忌である食べ物(私の認識では、主に豚とアルコール)について除去するようにシステムが整っているかと思います。

度々、ニュースでも取り上げられています。

しかし、日本ではそうではありません。信じた宗教の戒律を守ることが重要であると考えるならば、その辺りの日本人の考え方や日本語をきちんと学んでから来日していただきたいです。

 

参考文献 ユダの謎 キリストの謎 三田 誠広

今の日本のお米の栽培方法は、水耕栽培ですが、かつては、大陸で土耕栽培も行われていたそうです。ただし、土耕栽培の米は美味しくないそうです。

お米の価格が高騰して話題になった昨今ですが、私はお米があまり好きではありません。少しの期間、食べなくても平気と思っていましが、10日ほど食べないでいると、お米が食べたくて食べたくて・・・と禁断症状に陥りました。

 

日本人は(本人が気がつかなくとも)米に特別な感情をもっている。昔の日本人は「ゴハン粒一つ一つには観音様が宿っておられる」といって一粒も無駄にせず、洗い流した飯粒を集めてかめにつめ、のりにした。米は命の糧だから神聖なのである。

全く同じことが(否、それ以上のことが)、遊牧民(または牧畜民)の家畜について言える。昔のユダヤ人にとって、それは羊であった。羊の乳からチーズを作るなどといえば、多くの日本人は驚くであろう。遊牧民には欠かせぬ食糧である。その筋も内蔵も骨髄も食糧、毛は衣料、皮は装身用具、ある場合にはちょうど家具にあたる。また彼らの家すなわち天幕は山羊の毛で、それを張る網やひも、また楽器の弦も羊の腸である。昔はその肩甲骨が書写板であり、皮は紙であった。「羊は命の糧」であり、いわば米、否、米以上であった。とすれば日本人が米を神聖視する以上に彼らが羊を神聖視しても不思議でない。

ユダヤ人が農耕を主とするようになっても、この風習は長く残った。これは古い伝統を守っただけでなく農耕牧畜併用であり、また周囲の遊牧民と接触をつづけたからであろう。従って、「羊」という言葉がまさに「お羊」で、「命の糧」といった特別な意味で、また「自らを殺して人を生かす」といった宗教的な意味で用いられても不思議ではない。新約聖書を開けば、「神の子羊」といったような表現が実に多いのに気づかれるであろう。

 

私が羊肉を初めて食べたのは、オーストラリアかニュージーランドだったと思います。

私は、羊肉の香りが好きで、ハーブをかけたシンプルな味付けが好きです。羊肉の香りは独特なので、好き嫌いが別れると思います。

 

参考文献 日本人とユダヤ人 山本七平