他所さまのブログに
とコメントしました。
その続きをコメントしようとしても何故か、できないので、加筆して記事にします。
記事
ダメということです。
「考えなし」は、もう、やめにして
「真実に生きることができる社会をつくっていきたい」(© 今上陛下)ものです。
「平和と民主主義を守るべき大切なものとして日本国[憲法]を作り
様々な改革を行なって今日の日本を築いた」(© 今上陛下)ので、
「平和望む人のために
捧げよう 我が科学」
http://youtu.be/--wBImyZDGs
一番ありえないことをしてしまうのが[解離]言動です。
たとい理不尽な目に遭っても、
[加害者としてのPTSD]にスイッチすることなく、
PTSD予防または克服の道を歩み続けるようにすることにあると言えます。
ルターが
「キリストが『悔い改めよ…』と言われた時…信仰者の全生涯が悔い改めの行為」というのは、
キリスト教徒として「悔い改め」て、
PTSDを克服しようと決めたからには、
と戒めたと言い換えられます。
もちろん、「良心の自由」がある法治国家では、キリストを認めず、独自のスピリチュアリティでPTSD克服の道を歩こうとするのは個人の自由です。そうするならば、その人は聖書を読んでいても「キリスト教徒」には分類できないだけです。
したがって、カトリックが日本では七五三をやり、またフランスでケルト文化の「元因習」に寛大であっても、誰かの[人格権]や[生存権]を蹂躙して[PTSD]の[負の連鎖]を起こすような内容でないなら、それはそれで良いでしょう。カトリックになっても死生観については土着文化の基層ごとに違いが何かしら残っているでしょう。
そういう具合にばらつきはあっても、キリスト教徒は、
理不尽な目に遭おうとも
[加害者としてのPTSD]にスイッチすることなく、PTSD予防または克服の道を歩み続けようとするからこそ、
「平和の祈り」がカトリックでも聖公会でもおおいに支持されているでしょう。
記事をお書きの方は、仮装パーティーを楽しみたいそうですが、お酒を楽しみたい、競馬を楽しみたい…趣味は人それぞれでしょう。それ自体は問題ではありません。問題なのは、誰かの[人格権]や[生存権]を蹂躙しても意に介さず、そういう世俗の楽しみに耽溺する[依存症]状態や、「楽しみたい」という我意を通す[解離]言動を正当化する[解離]状態に陥ってしまい、
(2014年10月5日追記)
誰しも無思想な無意識に振り回されては危険ということです。
コメントに
とお返事いただきました。
そういうphilosophyのない
「考えなし」が問題です。
にコメントしました。
哲学がない=「考えなし」
追悼:
こちらの方々は「考えなし」ではありません。
そうした方々とは対照的に
ケケ中さんは、哲学がなく
「考えなし」=バカなのです。
「現代の愚かさ」の象徴です。
参考:
ケケ中さんについては、以前、
にコメントしました。
2014年10月5日追記:
権力による暴力が先で、
その正当化は「後づけ」です。
秘密保護法(http://bit.ly/1n4ePjC)は、
大人も子どもも老若男女を問わず
「考える人」を弾圧します。
「考えなし」は、もう、やめにして
「真実に生きることができる社会をつくっていきたい」(© 今上陛下)ものです。
「平和と民主主義を守るべき大切なものとして日本国[憲法]を作り
様々な改革を行なって今日の日本を築いた」(© 今上陛下)ので、
「平和望む人のために
捧げよう 我が科学」
http://youtu.be/--wBImyZDGs
皆さまも、お大事に。
[加害者としてのPTSD](=いわゆる[サイコパス])に煽られた
「排除の理屈」は後づけでしょう。
池田信夫さんやケケ中さんたちに共通しているのは、
市民=「生涯賃金で売買できる家畜」扱いということ。
“benedictiō” は
「申しぶんのない言明、
批判的な主張、一家言」を意味します。
申し分のない批判的な主張を
[市民]個々人がすることが大事です。