マルコによる福音

12・35イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。36ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。

『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』37このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

 

 「このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」という問いは、イエスがエルサレム神殿でユダヤ教の指導者たち(律法学者やファリサイ派)を相手に行った、最後の、そして最も決定的な論戦の場面だと言われます。

 イエス時代のユダヤ人たちは「メシアはダビデの子」だと信じていました。イエスが引用したのは『詩編』110篇1節です。

 イエスの問いかけの裏には、「私はただの人間的な王として来たのではない。あなたたちが聖書で読んでいる、ダビデが『主』と仰いだ真のメシアは、今目の前にいる私なのだ」という、イエス自身の自己表明(メシア宣言)がこの問いの奥に隠されていたと言われます。

 律法学者たちがイエスの問いに答えられない様子を見た群衆はよろこんでイエスの言葉を傾聴しました。

 

聖ボニファチオについては女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=060501

マルコによる福音

 〔そのとき、〕12・18復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。19「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。20ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。21次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。22こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。23復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」24イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。25死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。26死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。27神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

 

 旧約聖書の『申命記』25章5節から10節には子を残さずに夫が死亡した場合、その未亡人は夫の兄弟(義兄・義弟)と結婚し、故人の家系と財産を存続させる義務が規定されていました。この規定には、土地の相続権を失う未亡人を保護し、夫の血筋(名)を絶やさないための社会保障的な意味合いがありました。

 復活を否定するサドカイ派の人はこの規定を持ち出し、復活が現実的ではないことを示そうとしました。

 イエスは「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と答えます。

 『申命記』の規定は地上で家系を絶やさないための規定であり、天では必要ではありません。

 この問答を通じて、イエスは地上の慣習や人間的な関係性(結婚制度など)を越えた、全く新しい永遠の生命と復活の次元があることを示しました。

 

 聖カロロ・ルワンガと同志殉教者については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=060301

 

マルコによる福音

 〔そのとき、〕12・13人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。14彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」15イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」16彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、17イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

 

 日頃対立するファリサイ派(反ローマ)とヘロデ派(親ローマ)が結託してイエスを罠に嵌めようとして罠を仕掛けます。

 イエスが納めるべきと答えれば、「占領者ローマ(皇帝)の支配を認めた裏切り者だ」として、ユダヤ人の民衆からの支持を完全に失います。

 イエスが納めるべきでないと答えれば、「ローマ帝国に対する反逆者」として、その場にいるヘロデ派によって即座にローマ総督へ密告され、逮捕されます。

 イエスは「納める」という言葉の代わりに、「返す」という言葉を使いました。

 当時流通していたデナリオン銀貨には、ローマ皇帝の肖像と「神聖なる皇帝」といった尊称が刻まれていました。ユダヤ人にとってそれは「偶像」であり、宗教的には忌むべきものです。

 イエスは「そんなに皇帝の顔と名前が刻まれたコインが欲しければ、それはもともと皇帝のものなのだから、皇帝に送り返してしまえばいい」と言ったのです。これにより、ローマへの反逆罪を回避しつつ、民衆の民族的感情も害さない完璧な中立を保ちました。

 更に「神のものは神に返しなさい。」と続けます。

  イエスの言葉は、地上の権力(法律、納税、社会秩序)をむやみに否定せず、市民としての義務は果たす。しかし、人間の心や魂、良心といった「最も神聖な領域」だけは、地上のどんな絶対権力であっても支配することはできない明確な境界線となりました。