マタイによる福音

 〔そのとき、〕5・1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。

3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

 日本語で「心が貧しい」人といえば、自己中心的で、他者への思いやりがない人、他人の幸福や成功を素直に喜べない人、お金や物質的な損得にしか価値を見出せない人などが列挙されます。

 聖書の文脈では、「神以外によりどころがない人」を意味します。

 山上の説教の冒頭の八つの幸せの教えでイエスが語るのは、イエスご自身のことをさしているのではないかと思います。

 心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人とはイエスご自身であり、次にイエスのためにののしられ、迫害される人々のことではないでしょうか。

ヨハネによる福音 6:51-58

 [そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。]51 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 

 今日は「キリストの聖体」の祝日です。この祝日の発端は13世紀のイタリアの修道女でした。教皇ウルバヌス4世が公の祝日として制定しました。

 やがて聖体を「聖体顕示台」という美しい祭具に納め、街の中を練り歩く「聖体行列」が行われるようになりました。

 この祝日は「三位一体の祝日」の次の木曜日と定められましたが、その日が祝日でない国では日曜日に祝うことがゆるされました。日本の司教団も教皇庁の許可を得て、今日「キリストの聖体」を祝います。

 

 第一朗読の申命記のモーセの言葉、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」は、出エジプト記の荒れ野での出来事を指しています。

エジプトを脱出した人々が荒れ野に入ると、「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」と不平を言い出します。そのとき主である神は、モーセに「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。」と言い、民はそのパンをマナと名付け、約束の地に入るまで荒れ野で40年にわたってそれを食べ続けました。

また、イエスが宣教に先立ち、荒れ野で40日間断食をして、空腹を覚え、悪魔から、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と誘惑を受けると、イエスは『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と申命記の言葉を引用して答えました。

 

 第二朗読、使徒パウロのコリントの教会への手紙の「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」という言葉は、集会で一つのパンを裂いて分け合っていながら、仲間割れをしているコリントの教会の人たちへの勧告です。

 

 ヨハネの福音では、イエスのパン増やしの奇跡の後、大勢の人がイエスの後を追いかけてきたときに、イエスがパンについて長い説教をしました。今日の朗読はその一部です。ヨハネの福音書はしるしの書とも言われますが、イエスはパンや水について不思議な話をします。

 イエスが、食べると満腹できるパンの話をしているとばかり思っている群衆は、イエスの話を理解できず、ついて行くことができません。「食べると永遠に生きるパン」は食べると消化されてしまうパンではありません。ではどういうパンなのでしょうか。パウロがそのヒントを与えてくれます。

 

 パウロは、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(1コリ10:16-17)と言います。

 

 ふつうのパンは食べると消化されて私たちの体となりますが、パウロは、裂いて分け合うパンは一つだから、そのパンを分け合う大勢の人は一つの体になると言います。その体はイエスの体です。パウロが言いたいことは、一つのパンを分け合う人たちが仲間割れして、争うことはイエスの一つの体をバラバラにしてしまうことだということです。

 

 聖体を頂くことによって、私はイエスと合体しますが、私が苦手な人も同じパンに与ることによって、イエスと合体しています。

 

 聖体のことを、最近はエウカリスチアと言います。エウカリスチアはギリシャ語でなじみがないかも知れませんが、感謝という意味です。私たちがイエスの体を頂くことはイエスの感謝を頂くことです。

 

 そして誰でもイエスの感謝に与る人はイエスと共に永遠に生きるとイエスは約束してくださいます。

 

 一宮教会では「キリストの聖体」の日に初聖体を行います。

 聖体を受ける人たちは、これからの長い人生、うれしいことばかりでなく、もしかしたら辛いときや苦しいときの方が多いかも知れません。そんな時、ご聖体を頂き、イエスが共にいてくださることで勇気と慰めを受けることができますように。

マルコによる福音

 〔そのとき、〕12・38イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、39会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、40また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

 41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。43イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。44皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

 イエスは、賽銭箱に生活費を全部入れたやもめを賞賛しているかのように思えますが、直前に律法学者に警戒を警戒し、彼らは「やもめの家を食い物に」すると言っています。

 イエスは、やもめが明日生きるための全財産を捧げさせる神殿の制度に激しい憤りを感じていたのだとする人がいます。

 この直後、イエスは神殿の崩壊の予告をします。イエスは「弱者を搾取して成り立つような豪華な神殿など、近いうちに完全に破壊される」と、激しい裁きを予言したのです。実際、エルサレム神殿はその約40年後(紀元70年)にローマ軍によって完全に破壊されました。

 昔、バチカンの聖ペトロ大聖堂に行った時、イエスは本当にこのような大聖堂を建てることを望んでおられるのかと思ったことを思い出しました。