マタイによる福音

 〔そのとき、〕9・18イエスが話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」19そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。20すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。21「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。22イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。23イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、24言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。25群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。26このうわさはその地方一帯に広まった。

 

 父親が病気の娘を救ってくれるようイエスに懇願する物語は、マタイ、マルコ、ルカ福音書に記されています。

 マルコとルカでは、娘が死にかけているので助けに来てくれるようヤイロという会堂長が願います。

 マタイでは娘はすでに死んでいます。

 何故違いがあるのかをAIに聞いた答えは次の通りです。

マタイは、イエスが「死をも打ち破る神の権威を持つ方」であることを強烈にアピールしようとしました。「死にそうだから治して」ではなく、「すでに死んでいるけれど、あなたなら生き返らせることができる」という超弩級の信仰を指導者に語らせることで、イエスが預言されたメシア(救い主)であることを際立たせています。

 娘のいやしを願う父親の物語にイエスの服に触れる女の物語が挿入されているのは三つの福音書に共通です。

 出血症の女がイエスの服に触れる話がこの物語に挿入されているのは、イエスは身分の違い(指導者、穢れた女)を超えて、イエスに助けを求める人を見捨てることはないということを強調するためではないかと思います。

マタイによる福音11:25-30

 25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 本日のみ言葉のテーマは「柔和で謙遜なイエスへの信頼」です。

 

本日の第一朗読は、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る雌ろばの子であるろばに乗って。」とエルサレムに入城する王の到来を予言します。

古代から現代に至るまで、武力や、軍事力で他国を制圧して、自国の勢力を拡大し、治安を保とうとした国は、やがて他の国によって滅ぼされる歴史が続いています。

マタイ福音書は、イエスがエルサレムの町に入場したとき、ゼカリヤの預言が実現したと述べます。

「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(マタイ21章5節)

イエスはあえて子ろばに乗って入城することで、ご自分が武力で勝利する王ではなく、武力を放棄して平和をもたらす王であることを示しました。

今日の福音でイエスは、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」と賛美します。

知恵ある者や賢い者とは、当時の宗教指導者や律法の専門家のことです。幼子のような者とは、社会的に小さく、学識もない民衆のことです。

 その後、イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と言います。

 今の日本では農作業や運搬に牛や馬を使うことがないので、「くびき」が何か分からないかも知れません。「くびき」とは「くびき」という言葉のとおり、動物の首にかける木の道具です。「くびき」は牛や馬の首の部分にはさんで、鋤や車を引かせる道具です。「くびき」をかけられた牛や馬は鞭で打たれ、働かせられます。

 旧約聖書では、くびきを砕く、くびきを折るという表現がありますが、それは奴隷がつながれている苦役からの解放をあらわしています。

 「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。」というイエスの言葉はイエスが乗る馬車のくびきを負うともとれますが、くびきは二頭を連結する時にも使われます。イエスは自分が背負うくびきの片方を負いなさいと言っているのではないでしょうか。

 イエスと共にくびきにつながれるとき、重荷のほとんどはイエスが負ってくださるので、くびきの片方を負う者は楽になると言っているのです。

 福音書のイエスによる罪の赦しと病人のいやしの記事を読むたびに、罪の重荷と病気の患いをイエスが背負い込むイメージが浮かびます。一人だったら押しつぶされそうになる重荷を、隣でイエスが共に背負ってくださっている姿です。

 

 ろばに乗ってエルサレムに入るイエスの姿は、武器を持たずにアフガニスタンで医療支援や用水路建設などに尽力した医師の中村哲さんのことを連想させます。

 中村さんは、武力が安全をもたらすという考えを「強力な迷信」であると断じ、武器を持つことの危険性を強く訴えていました。

「現実を言うなら、武器を持ってしまったら、必ず、人を傷つけ殺すことになるのです。そして(中略)人が殺し合い、傷つけ合うことの悲惨さを少しでも知っていたなら、武器を持ちたい、などと考えるわけがありません。」

—— 中村哲『憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言』より

 アメリカによる空爆や現地での戦乱を間近で見てきた中村さんは、軍事力による干渉がもたらすのは平和ではなく、弱者(子どもや女性、老人)の犠牲とさらなる憎しみの連鎖であると痛感していました。

 中村さんは平和のための軍事力増強は「平和を遠ざけ、危険を招く逆効果の手段」に他ならないと言います。

真の安全と平和は、武力を誇示することではなく、武器を置いた誠実な対話と、人々の命を具体的に救う支援(ともに生きること)によってのみ築かれるというのが、中村さんの確固たる信念でした。

 

 ミサの中でわたしたちは何度も平和を祈ります。その平和はキリストの平和、武力に頼らない平和です。

 キリストの平和がこの世界に与えられるように祈りましょう。

 

マタイによる福音

 〔そのとき、〕9・14ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。15イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。16だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。17新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

 

 イエスは布のたとえと革袋のたとえで何を言いたかったのでしょうか。

 ここでいう「古い服」「古い革袋」とは、当時のユダヤ教の指導者(ファリサイ派)が固執していた「形式主義的な律法の解釈や、断食などの古い伝統・習慣」を指します。

 一方で「新しい布」「新しいぶどう酒」とは、イエス自身がもたらした「神の愛、内面からの救い、そして自由」という全く新しい教えのことです。

 イエスのたとえの意味は、ユダヤ教の枠組みでものを考える人々には理解できませんでした。