マタイによる福音

 〔そのとき、〕9・14ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。15イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。16だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。17新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

 

 イエスは布のたとえと革袋のたとえで何を言いたかったのでしょうか。

 ここでいう「古い服」「古い革袋」とは、当時のユダヤ教の指導者(ファリサイ派)が固執していた「形式主義的な律法の解釈や、断食などの古い伝統・習慣」を指します。

 一方で「新しい布」「新しいぶどう酒」とは、イエス自身がもたらした「神の愛、内面からの救い、そして自由」という全く新しい教えのことです。

 イエスのたとえの意味は、ユダヤ教の枠組みでものを考える人々には理解できませんでした。

ヨハネによる福音

 20・24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

 ラザロの死の後、イエスがラザロのもとへ行こうとしたとき、トマスは仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言いました。

 トマスはさまざまな状況をよくわきまえた勇気のある弟子だったのだと思います。仲間の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言っても自分で確かめなければ、承知できないと言いました。

 次の日曜日、トマスも他の弟子といるときに、再びイエスが現れてトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言いました。

 トマスはイエスに「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。福音書の中でイエスに「わたしの主、わたしの神よ」と言うのはこの箇所だけです。

 1985年にテゼの集まりに参加するためにソウルから南インドチェンナイのマイラポールに行きました。1985年のクリスマスミサは「サントメ大聖堂」で世界中から集まった若者と共に行いました。中央の主祭壇には、司祭としての姿の「使徒トマス」像が安置されています。そこには「わたしの主、わたしの神よ」と刻まれていました。

 

使徒トマスについては女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=070301

マタイによる福音

 〔そのとき、〕9・1イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。2すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。3ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。4イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。5『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。6人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。7その人は起き上がり、家に帰って行った。8群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

 

 カファルナウムに戻ったイエスが中風の男をいやす場面です。

 この物語で印象的なのは中風の人を床に寝かせたままイエスのところに連れてきた人々のことです。

 床と訳されていますが、実際は担架のようなものだったでしょう。

 彼らは担架の四隅を持ち、麻痺で動けない病人を抱え上げて街中を運んできたのです。それは、相当な重労働だったのではないでしょうか。

 彼らはイエスだったら中風の人をいやしてくださると信じていました。イエスは中風の人を見るなり、彼の苦しみは病気だけではないことを見抜き、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言いました。

 罪の赦しや病気の癒やしが、本人の願いではなく、それを気遣う人々の思いによってイエスから与えられる物語は、勇気づけられます。