マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕10・7「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。9帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。11町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。12その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。13家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。14あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。15はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

 

 イエスが十二人を遣わす際に、指示した内容です。

 開拓伝道とはキリスト教の教会がない所や、キリスト信者がほとんどいないところに赴き、宣教をすることです。一般的な既存の教会(すでに建物や司祭、信徒の基盤がある教会)の活動とは異なり、非常にエネルギッシュで、かつ困難を伴う宣教形態として知られています。

 岐阜県の関市の住宅団地に牧師夫婦が家を建て、長年伝道をしていました。牧師夫婦はやがてカトリックの司祭と出会い、カトリックに転会し、自宅を名古屋教区に寄付しました。その地で宣教活動を続けてほしいと思われたからでした。そこで宣教をするためには司祭かシスターが住む必要がありますが、難しいです。

 キリスト教に限らず、宣教は宣教師の命がけの働きがなければ成り立ちません。

マタイによる福音

 〔そのとき、〕10・1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

 5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

 イエスは、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言っただけでなく、その弟子たちの中から十二人を呼び寄せ、ご自分の権能を授けて派遣します。

 十二人の選びと派遣の話を読むたびに「ベテルの家」を立ち上げた向谷地生良さんの言葉を思い出します。

イエスの選んだ十二使徒

 七十人ほどの弟子志願者のなかから特別に選ばれた十二人の若者を見たとき、当時の人たちは驚いたにちがいない。「なんで俺が選ばれないで、あいつが選ばれるのだ」という声もあがっただろう。なぜなら、選りすぐりのエリートが数多く志願したなかで、選ばれたのは、なんとも心もとない若者たちであったのだから。

 いろいろなトラブルが起きた。イエスが一番祈ってほしいときに、弟子たちはみんな眠りこけ、「俺たちのなかでだれが一番偉いんだろう」と名誉や権力に執着した。そして、イエスをあざむき、逃げだした。イエスは孤独のうちに、つばを吐きかけられ、罵声を浴び、十字架を背負いながら、処刑場へと向かって行った。

 イエスは、この弟子たちと行動を共にしたら、とんでもないことになるとわかっていながら、共に旅をしたのである。悲劇的な運命を感じながら、あえて、不完全な弟子たちと旅を続けたイエスに思いを巡らしたとき、私には「それで順調なんだよ」「それで僕は順調なんだよ」という声が聞こえたような気がした。

 そして、その弟子たちが教会の土台となり、イエスの言葉の語り部として用いられていく。教会の土台とは、まさにその混乱と疑いと、誘惑に駆られた人たちによってつくられてきた。それを思い、そして信じたとき、正々堂々と己に絶望し、あきらめている自分がいた。

向谷地生良「ベテルの家」から吹く風(いのちのことば社2006年pp.52-53)

マタイによる福音

 〔そのとき、〕9・32悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。33悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。34しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。

 35イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。36また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 

 一宮教会ではミサの前に、召命の祈りを唱えますが、その祈りの冒頭で、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」というイエスの言葉が引用されます。

 働き手は司祭、修道者に限定されてはいません。神の国の福音を宣べ伝える仕事は、洗礼を受けたすべての人にイエスから委ねられた使命です。誰かわたし以外の人が働き手になるように祈るのではなく、「主よ、わたしをあなたの働き手としてして下さい」と祈りましょう。