マタイによる福音

 〔そのとき、〕イエスは13・54故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。55この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。56姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」57このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、58人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

 

 「哲学は驚きから始まる」と言ったのはアリストテレスです。

 ギリシャ哲学における「驚き」とは、単に「わぁ、すごい!」と感嘆することではありません。日常の中で「当たり前」だと思っていたことが、実はまったく分かっていないと気づいた時に生じるおびえや戸惑いです。

 イエスの故郷の人々はイエスの言葉に驚きますが、そこからイエスの言葉の意味を探求するのではなく、自分たちが見知っているイエスがどこからそんな知識をしいれたのかいぶかしがります。

 「分かったつもり」からは発見も回心も生まれないのだと教えられます。

 

 ロヨラのイグナチオについては女子パウロ会ホームページをごらんください。

 https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=073101

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕13・47「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。48網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。49世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、50燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。51あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。52そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」53イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去った。

 

 イエスが「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」と言った時、弟子たちは、「分かりました」と答えました。

 イエスが群衆にたとえで話す理由を、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」と弟子たちに言っています。

 しかし、「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。」のは群衆だけではなく、弟子たちも同じだと思います。

 わたしたちは「分かった?」と誰かから聞かれると、つい「分かった」と言いがちです。その「分かった」は相手の話の内容を理解したという意味ではなく「分からなかった」と答えた後のやり取りが面倒になるのを避けるため、また相手の機嫌を損ねないように忖度するためかもしれません。

 弟子たちがイエスの言葉の意味を理解したのは、イエスのために自分の命を捨てる時になってからだと思います。

ヨハネによる福音

 〔そのとき、〕11・19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 

 イエスとマルタ、マリア、ラザロは、最も親密で、最も人間味あふれる、無条件の愛で結ばれた友人でした。ヨハネ福音書はイエスと彼らの関係について、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」と語ります。

 ラザロが死んだ後、マルタとイエスとのやり取りで、イエスが「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と言うと、マルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えます。

 親しい人との別れの時、そして自分自身の死に直面したときに、イエスに向かって、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と信仰告白することができますように。

 

 教皇フランシスコは、毎年7月29日に祝われていた聖マルタの記念日を、2021年から聖マルタ・聖マリア・聖ラザロの三聖人記念日とするように定めました。

 制定の教令には、 ベタニアの家で、主イエスは、マルタ、マリア、ラザロたちの家族的精神と友情を体験された。それゆえに、ヨハネ福音書は、イエスが彼らを愛しておられたことを明らかに示している。マルタはイエスを寛大にもてなし、マリアはイエスの言葉に従順に耳を傾け、ラザロは死を屈服させたイエスの命によって墓から出た」と記されています。