不思議なことに、

人は不器用な者を侮辱したり軽蔑したり蔑む。

果たしてそのように差別する者たちは器用な者なのか。

ここには誤解が生じているのだと思う。


何でも事をうまくこなす事が器用と言うことなのか。


もしそれが本当ならば、器用な者は出来ないことが無い者と見なすことが出来る。


しかし、果たしてそのような者が存在するものなのだろうか。

少なからず不器用な者を軽蔑する者は、自らが器用な者だと感じている。


ここで言う器用な者とは、失敗を避けることが出来るものである。


だから、何かとうまくこなしているように見える。


しかし、言い換えると失敗しないことが成功だと思っているのかもしれない。


失敗するくらいなら挑戦しない者とも言える。

事実、器用だと思っている者はただ単に思い込んでいるだけなのだ。

大概、自分の何処かしらに対して不器用さというものを感じるものだ。

それなのに、自分を美化し不器用さを無いものとする。

では、器用だと思いこんでいる者は実際に失敗した時にどうしているのかというと、

うまく逃げていたり誤魔化したり、他人に擦り付けたりと巧妙に周りを巻き込みながら自己正当化を計るのである。

又、器用だと思いこんでいる者はボロが出せないために実際は許容範囲外のことに関しての応用力・順応力は皆無に近い。

所謂、器用だと思いこんでいる者は自分の許容範囲内においてのみ器用なのだと言うことに気付いていない。


私は、このような光景を目の当たりにすると残念に思う。

決めつけること・思い込むことによって安心感を得ているのだろう。


これが慢性化することによって中毒のようになってくる。


ここで、言いたいのがそんなに自分を良く見せたいのかと言うこと。

良い所ばかり見せて何になるのだと言うこと。


人間の妙味と言うものは良く見せることだけとは限らない。

自分を良く見せようとすることばかりを繕ってればその内疲れてしまうはず。


人は意外性に心を奪われるのも事実である。


私がここで主張したいのは、



『器用・不器用と言う概念にこだわるな!』


と、言うことである。




要するに、



『そんな小さいことにこだわるな。』


と、言いたい。


付け加えるならば、


『どう観られても構わんよ。』

『かまへん、かまへん~それも又面白いがな(笑)』


と、構えていればいい。

open mind!!
あなたの価値観はどんなものか?

あなたを律する規範・基準は何か?

それらはあなた自身が決めてものか?

それがもし批判・避難・拒絶を示されたらどうか?


それで怯むようなものならそれはあなた自身が決めたものではないものになる。

しかし、価値観そのものに否定される筋合いは元々無いのだ。


あなたが良いと思って決めた事に自信を持って良いのだ。


しかも、その価値観はあなた自身のあなただけのものである。

作り替えだって自由だし可能だ。


他人の価値観が自分の価値観でもなければ、自分の価値観が全てでもない。

自分の価値観というものは、押し付けるものでもない。理解させようとするものでもない。


只単に、そこにあるのは自分がそう思っていることだけ。


あなたの行動と想いが一致した時にだけ、あなたは自信を持ち自分に誇りを持つことが出来る。


そして、やがてそれは有りとあらゆる場所へとゆっくり浸透し始める。


その時に、あなたは気付くだろう。


『私の価値観は間違えてなかった。』

と。


あなたは、

何に『楽しみ』、

何に『美』を感じ、

何に『正しい』と感じ、

何に『美味しい』と感じ、

何に『幸福』を感じるのか。


それは、あなたしか決めることが出来ないこと。


それとも、他人に決めさせて良いことなのだろうか。


もしこれから先、ケチをつかれるようならば、こう一言いってあげればいい。


『あなたに私の何が分かるの?』


と。

おそらく、何も言い返せないだけか独り言のようにボソボソと呟くだけになるだろう。

open mind!!
人のすごいところは、そのうち言葉いらずで相手が分かることである。

もちろん初対面の人程、分かりづらい面は充分にある。

分かり合える中であればあるほど、言葉が不要になる。

会っていない時でさえ、いつもそばにいる。

ホントに会いたくなった時にだけお互い自然と歩み寄る。

会わなくたって平気になる。

久しぶりに会っても久しぶりに感じない。

まるで、


『永遠』


という言葉が当たり前に存在するかのように。

例え、一生を終えたとしても、又何処かで当たり前の如く会える気さえする。


そして、お互い存在してくれていることだけにとても喜ばしくなる。


互いに期待し過ぎることもなく、只この世界にお互いいられることが嬉しい。


分かれ際でさえ、切なくもありつつ寂しさを変に残さない。


こんな感覚皆何処かで感じたことがあるはず。



孤独や寂しさから解放されないのは、

『人』、『対象』


に対して、都合のいいように解釈したり嫌悪しているからである。


向き合えば分かるはず。


『理解しようとせず、理解されようとばかりしていることに。』


それに気づいた瞬間から世界観が変わる。

理解することにだけつとめ始める。


理解しようとした瞬間から理解され始める。

これは、自分の中に

『自分という患者』と、それに当たる
『自分という医師』の問診にあたる。

患者の訴えを医師はどれだけ捉えることが出来るか。

医師の診断・説明を患者はどれだけ真摯に受け入れるか。


例え方は色々だが、そうすることにより自分が理解出来るようになる。

孤独、寂しさは知らず知らずに作り上げらたものと感じると同時に、そこには原因があり自分で作り上げたものでもある。


理解が深まれば深まるほど、孤独や寂しさとは無縁の関係になる。

究極的に、この世に一人になってしまったとしても孤独を感じさえしなくなる。


孤独を愛することさえ覚えるのである。

だからもうこれ以上寂しがることもなく、孤独に怯えることもない。


只、無理せず新しい自分の発見を期待し明るく振る舞えばいい。


open mind!!