『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』



これはキリストの言葉なんですが、初めて聞いたときにとても衝撃を受けました。

敢えてここでは説明しませんが、気になる人は是非調べてもらいたいです。


ではでは。
桜の木の話がある

自分が何者か分かるのであればそれはそれで良し。分からなければ分からないでそれで良し。

自分が自分であるならば自分に託せるか託せないかだけだ。

桜の木が桜の木だろうと無かろうと桜は、時間など気にせずすべき事を当たり前の如く淡々とこなし花を咲かせる。

桜の木にとって桜の花が咲くことは当たり前だから、桜の木として成り立つ。


桜の木が他の花を咲かそうものなら、苦しむかもしれない。

本来咲くはずのものを敢えて他のものを咲かそうと思ったのだろうからそれだけの意図や必要性があるのだと伺える。

そう、その必要があるのであればきっと桜は他の花も咲かすことも出来るだろう。


又は、その桜の木が他の花を咲かすことを自ら知っている可能性もある。
よほどの意図があったか、単なる気まぐれかは知る由もないが。


これは、人に例えても同じだろう。
理解しようとした瞬間から、


許せるようになる。

見下そうとしなくなる。

相手を攻める必要性が無くなる。


周りに理解を求める前に理解しようとする姿勢が無い者は理解されない。


理解しようとする態度を示さずに、人を批判・非難する事は何を意味するか?

これは、



『自らの愚かさ』



を自ら露呈していることになる。

どういう意味かと言うと、


『自分の思考の範囲内で決めつけたこと。』

を下に判断している。

そして、そうすることによって自分の自尊心や威厳を保つ。

あたかも、そう判断出来る自分は素晴らしいと。


しかし、実際はそういう者に限って中身がなかったり小物だったりする。

小さい頃に良く言ったり聞いたりした、

『バカって言ったら自分がバカなんだよぉ~。』

の意味がようやく分かった気がする。

その頃に発したり聞いたりしたことが実に真意を付いていたのかと思う。

ここで同時に矛盾を感じるのが、理解しようと言う姿勢でいても理解出来ない事もある理解したくない時もあるという事実。



当然あると思う。


しかし、それはそれで良いではないかと。

大事なのは姿勢。


全てを知り尽くしているかのように批判・非難するのはおろか以外の何者でもない。

恐らくこの現実世界を知る尽くすことは到底不可能。

もっと気楽でいいのだと思う。


自らの理解力が伴えば腹を立てることも少なくなる。

いちいち細かいことが気にならなくなる。

腹を立てて一番不愉快なのは自分なのである。

腹を立てるきっかけが周りにあると思いこんでるが、実際は自らの理解力のなさなのだ。

それに気づいていないだけのこと。





そして、理解する事は


『調和、平穏、平和』


を促す。

その下での自立が出来た者が不安や恐怖と縁を切ることが出来る。


理解しようとした瞬間から自分の可能性がますます広がるのだ。

逆にそれを止めた瞬間から窮屈さを感じる事になる。


OPEN MIND!!