『それ』は、

純真な心にしか反応しない。


なのに『それ』自体がそもそも疑われ深い。


『それ』からは決して近付くことはない。

『それ』は、

『それ』同士と共鳴する。


『それ』を利用しようとする者は、歪みを生じる。

ただ、『それ』自体そうされようと無かろうと『それ』自体は変わらず構わない。


『それ』は、只眺めて待っている。


『それ』を『それ』として知覚出来る者だけが『それ』を知る。


しかし、『それ』は特別なものではない。


そして、『それ』は決して高ぶらず誇らない。


『それ』を知りたい者だけが『それ』に近づくことが出来る。


『それ』は誰でも近付くことが出来るのに、『それ』に近付こうとしない。

『それ』は只そこに存在していしている。


そして、『それ』は結局は誰のものでもない。


『それ』は只そこに存在しているだけである。
世の中に『キレイ事を言うな!』的な事をよく聞く。

しかし、実は全てはキレイ事なのだ。

『金が全てだ!』


『お金は人を悪くする!』

この二つのことは相反する事を意味するが、どっちもキレイ事だ。

そもそも、何をもってキレイとするかの基準が曖昧なのだ。

それなのに、『キレイ事だ!』と、主張する。

きれいだと思えばキレイで、汚いと思えば汚い。


キレイと思う心があって自然。

汚いと思う心があって自然。


そして、人はキレイなものを欲する。

そして、汚いものは避ける。


お金が人を汚くすると考えるならば、人は本能的にお金を拒む。

お金が自分を避けているのでなく、自分が無意識に避けている。

しかし、無ければ苦しむという事実。
お金は人を汚くすると言う考えがあるから葛藤する。

日本人には昔質素に振る舞ったり、贅沢はいけないとかあまり目立ってはいけないとかいう習わしがあるみたいだが、その習わしで幸せな者がいたのだろうか?

これは、周りの視線を過剰に意識した日本人特有の気質ではないかと思う。
そして、この過剰意識は嫉妬を避けるためでもある。

結果、個性の無い文化が育まれた。


しかし、その個性は決して失われてた訳ではなく抑圧されていたに過ぎない。

昔に比べ、個性自体が認められつつある。

それは、現実として現代になってやっと理解され始めてきている。

現に日本人が日本という国以外で活躍し始めている。


何が言いたいのかというと、この活躍してきた者達は、



『きれいごと』を


ただ単に、


『きれい』


なことだとしか思わなかった事だ。


それだけ、誰に何を言われようと、疑う余地なく、只一途に純粋に事に当たっただけなのだ。


本来『きれいごと』は、求められるもので歓迎すべきことなのに、


『そんなのきれいごとだ!』


の相反する矛盾の一言によって、現実を理解しようとする解釈が歪まれてきたのだ。



あなたが思った通りの現実があなたの現実になる。

何をもって善とするか。

何をもって悪とするか。


この二つの事の間には複雑な事情があったりする。


まず、全体を前提としているか、それとも一部を前提としているかによっての善悪の基準が出てくる。


これは、全体的な立場から見て良しとするか、一部分が良ければ良しとするかの違いがあり、そこには当然のように対立が生じる。


ここには根底には両者とも、善と思っており、他方を悪と思っている。


しかし、これを善と悪を区別する明確な基準など端から無い。


それぞれの主張は結局のところ両者とも、筋が通ったものであろうが無かろうが、他方からしてみたら理解出来ない受け入れられないものと言うだけのこととなる。


それはどちらとも、善と思っているから対立するのである。


では、どちらかが悪になれば調和がとれるのか?


これに関しては分かり得ない。


しかし、悪という概念があるのだとしたらどう説明できるのか。


そもそもが悪には悪の自覚があるのかという疑問が出てくる。


悪が悪を自覚した瞬間でも、悪は悪なのか。


悪には悪の自覚がないから悪なのではないかと思う。


悪自らが悪の存在を自覚した瞬間から、悪ではなくなるのではないか。


それとも悪自らが悪を良しとするのか。


しがし、悪自らが悪を良しとしようものなら善の思う壺なのではないか。


悪が自らの悪に気付いたというのに、善はそれを良いことに更に自覚した悪を責め立てる。



そして、善は自らが


『善』


と言う名の王座に腰掛ける。


しかし、そこまで来ると善も悪なのではないか。

そして、何が善で何が悪なのかさえも分からなくなる。


ではなぜ、善は善の王座に腰掛けようとするのか。


そもそも善の王座など無い。


そこには善が善で在ろうとする理由がある。


善とする者達は自らの中に悪がこれっぽっちも無いのだと思っている。


在っては困るのだ。



そこには善で在ろうとする者のエゴしかないのだ。


善が悪を拒む理由は自らに悪が存在するからなのだ。

自らの中に存在する悪を排除しようとする動きが善で在ろうとする。


だから、善とする者達が用意した幻の王座に腰をかけ君臨しようとする。


しかし、やがて善であろうとする者達の集まりは崩壊し、善の集まりの中から悪の粗探しを始め出す。



そうでもしないと、善と言う威厳を維持出来ずにはいられないのだ。


善が善でいようとする限り悪が生まれるのである。



しかし、おかしな話である。



対立する者達は善であるのに関わらず、わざわざ悪を作ろうとしている。


善が善同士でなぜ対立するのか?


善と悪が対立するのか?



ここに、人間としての性が生じているのである。


善で在ろうと悪で在ろうと対立する。


これら、善と悪という概念自体幻なのかもしれない。


結局は人間が作り上げた概念であり、人間のエゴだけが存在する。