何をもって善とするか。

何をもって悪とするか。


この二つの事の間には複雑な事情があったりする。


まず、全体を前提としているか、それとも一部を前提としているかによっての善悪の基準が出てくる。


これは、全体的な立場から見て良しとするか、一部分が良ければ良しとするかの違いがあり、そこには当然のように対立が生じる。


ここには根底には両者とも、善と思っており、他方を悪と思っている。


しかし、これを善と悪を区別する明確な基準など端から無い。


それぞれの主張は結局のところ両者とも、筋が通ったものであろうが無かろうが、他方からしてみたら理解出来ない受け入れられないものと言うだけのこととなる。


それはどちらとも、善と思っているから対立するのである。


では、どちらかが悪になれば調和がとれるのか?


これに関しては分かり得ない。


しかし、悪という概念があるのだとしたらどう説明できるのか。


そもそもが悪には悪の自覚があるのかという疑問が出てくる。


悪が悪を自覚した瞬間でも、悪は悪なのか。


悪には悪の自覚がないから悪なのではないかと思う。


悪自らが悪の存在を自覚した瞬間から、悪ではなくなるのではないか。


それとも悪自らが悪を良しとするのか。


しがし、悪自らが悪を良しとしようものなら善の思う壺なのではないか。


悪が自らの悪に気付いたというのに、善はそれを良いことに更に自覚した悪を責め立てる。



そして、善は自らが


『善』


と言う名の王座に腰掛ける。


しかし、そこまで来ると善も悪なのではないか。

そして、何が善で何が悪なのかさえも分からなくなる。


ではなぜ、善は善の王座に腰掛けようとするのか。


そもそも善の王座など無い。


そこには善が善で在ろうとする理由がある。


善とする者達は自らの中に悪がこれっぽっちも無いのだと思っている。


在っては困るのだ。



そこには善で在ろうとする者のエゴしかないのだ。


善が悪を拒む理由は自らに悪が存在するからなのだ。

自らの中に存在する悪を排除しようとする動きが善で在ろうとする。


だから、善とする者達が用意した幻の王座に腰をかけ君臨しようとする。


しかし、やがて善であろうとする者達の集まりは崩壊し、善の集まりの中から悪の粗探しを始め出す。



そうでもしないと、善と言う威厳を維持出来ずにはいられないのだ。


善が善でいようとする限り悪が生まれるのである。



しかし、おかしな話である。



対立する者達は善であるのに関わらず、わざわざ悪を作ろうとしている。


善が善同士でなぜ対立するのか?


善と悪が対立するのか?



ここに、人間としての性が生じているのである。


善で在ろうと悪で在ろうと対立する。


これら、善と悪という概念自体幻なのかもしれない。


結局は人間が作り上げた概念であり、人間のエゴだけが存在する。