人々は神という存在に救いを求める。

神と言う存在はいつから存在するのか?

救いを求めれば救われる保証はあるのだろうか?


神が存在するにせよ、しないにせよ、それは分からないのでどちらでも良いが、存在するのであれば、


おそらく神が我々人間に求める事は、


『自立』


だろう。


神が存在しなくても良いように、我々『人間』が自らの『可能性』に『救い』ではなく『希望』を見出すことを願うのではないか。


こう考えると神が存在しなくてはならない理由があるのだろうか?



神が我々の都合の良い時にだけに存在したり、我々の都合の良いように解釈をされるくらいならば、結局は人のためにならない。



しかし、私自身が感じるのは、


『世の中には理由の付かないこと。』

が存在するのも事実であるし、


『人間の思考の下ですべて起きているわけではない。』


のも事実だと思う。


この世の中には、もちろん説明不可能な事や、未だ発見されていない事象等が存在している。



今までもそうだったように、確実に



『見えないチカラ。』



が働いているのである。



そして、



『見えないチカラ。』



こそ全ての『源』、原動力となる。



これは、『神』と言う存在だけが持つチカラではない。



我々、『人間』も持つことが出来る。


これは変な意味ではなく、ただ単に、


『信じる。』



と言う『チカラ』である。



だからと言って全てがうまくいくとは限らないのも『見えないチカラ』が働くからである。



しかし、このチカラがあったからこそ物事は具現化されていったのである。


その証拠に、人間は文明を築き上げてきた。



私が最後に言いたいのは、



『神』



と言う存在を信じる前に、



『自分』



と言う存在を信じているのか。



と言う事である。



『自分』



と言う存在もそれに相当する位に尊い存在なのではないだろうか?
今の日本に対して若者や子供達が憧れるような人がどれくらいいるのだろうか?

又は日本や世界に対して希望や夢を膨らませてくれるような人がどれくらいいるのだろうか?


私が社会に出て感じたのは、


『社会の厳しさをおまえ等も身を持って味あわなければならない!その厳しさが十分理解出来るようになったらおまえ等も一人前だ!』


『だからおまえはダメなんだよ!俺の時は~が当たり前で、そんなことあり得ないぞ!それは甘えだ!』


『おまえ等のためにやってやってるのに、それでも出来ないのはおまえがダメだからだ!』


と言う、社会からのメッセージだ。


しかし、私はそのようなメッセージをこのようにしか捉えられなかった。


『俺達はこんだけ酷いことを今までされてきたんだ!そして耐えてきた!だからおまえ達も俺達と同じように苦しめ!でないと、社会でやっていけないぞ』

『俺達がやってきた事は正しい!だから、今もこうしてやっていけてる!おまえ等も俺達のようにやればやっていけるから従え!』

『おまえ達がダメでないと、俺達が正当とされないんだ!だから、おまえ等が嫌でもダメというレッテルを貼らせてもらう。』

私はこのような者達を観て感じたのは、

下から入ってくる者達に対して怯えているようにさえ感じた。


それは、自分の居場所を確保するのに必死だからである。



証拠に、上の者にはペコペコとし、何か嫌なことがあったら下の者に言い掛かりを付けて八つ当たり、都合の悪いときは自らの責任を下の者に押しつけたり、失態を下の者の所為にしたり、少し出来そうな下の者に対しては上から押さえつけるような扱いだ。


私は問いたい。


事実、そのように言ってきた者達は実際に生き生きしているだろうか?


寧ろ、そのような者達程、絶望を感じているのではないだろうか?


そのように言ってきた者達の言ってることに従っていって若者や子供達は果たして幸せな人生を送る事が出来るのだろうか?


答えは明らかである。


とは言え、実はこのような人達でさえ犠牲者なのである。


当然のように教育を受け、在る一定の学業を納め、当然のように社会に出て当然のように働いた結果がこうなのである。


しかし、当の本人はこのようなことになる現実を想定出来たであろうか?


逆に、今までが順風満帆であったのでもっと良いイメージの現実を描いていたのではないだろうか?


これこそ、社会構造の恐ろしさである。


皆、魔法にかけられているのである。

今現在でもこのような現状が続いているように思われる。


今の社会は魔法にかけられるのが当たり前である。


魔法にかけられていない者が生きていけない世界である。


そのような者が生きているとするならば、


『魔法にかかったふり』


をして器用に生きているのだろう。


果たしてこの魔法はいつ解かれるのであろうか…。
この世は意味付けられた世界で成り立っている。

意味付けされる根底には、すべて人間の都合しかない。

私達が何かを観たり聴いたり感じたりされ知覚されたものが合理化され意味付けられる。

しかし、それはあくまで私達人間の解釈に留まるのである。


私達が感じたものが同様に他の生物が感じるとは限らない。


私達人間と他の生物が共通していることと言えば、生存するための欲求である。

まあここでそれだけが共通しているとも言い切れないのも、これさえも人間の勝手な解釈なのかもしれないが。


しかし、ここで疑問が生じるのは他の生物と同じように人間も生存する為だけの欲求で満足し得るかという疑問である。


それだけで良いのであれば人間が何も人間として存在しなくてもいい話にもなる。

事実、人間はそれだけでは満足出来ないのである。


それ以前に、生存するための欲求だけ満たしていても、満足どころか『生』への疑問へとぶち当たる。


ただ、命を明日に繋ぐための『生』への『今』という現実に。


この事実は、人間がただ命を存続させるためだけに存在する命ではないことを証明する事実ではないかと思う。


人間は価値を見出したいのである。


だから、意味を求める。


逆に、意味のない世界が想像し得ようか?

それは、人間には恐ろしく恐怖なものになるだろう。


人間が人間としている以上意味があるのである。

それは、人間が人間として意味を求める限り。


そして、最終的に意味のあるものとする事は信用・信頼とでしか成り立たない。

意味を求めると言うことは、


『信じる。』


ことなのである。