松永久秀のことが初めて史料に登場するのは、天文二十年(1551)のことでした。
「三好筑守長慶家老、松永甚介兄弟」
『足利季世記』にそう記されています。
ここでいう三好長慶は、そのころ、幕府と畿内を事実上支配していた武将。久秀は、その家老クラスとして史料に登場しますが、「松永甚介兄弟」とあるとおり、弟・甚介の影に隠れていました。
甚助(諱は長頼)は武勇の士として知られています。
つまり、久秀は“弟の七光り”で出世の階段を一挙に駈け上がったともみられなくはありません。
しかし、久秀自身、才能があったのでしょう。彼が主君の長慶に重用されていたのは事実です。
やがて長慶が没すると、長慶の一族(三好三人衆)と連携し、将軍足利義輝の御所を襲って殺します。
吉田兼見(前出)がいった“将軍弑逆”はまぎれもない事実ですが、その責めは、三好三人衆も負うべきものでしょう。久秀だけのせいにするのは酷といえます。
しかも、調べてみますと、多聞院英俊(前出)が仏罰だとした「東大寺大仏殿焼失」という”容疑”に関しては、まったくの“冤罪“であることが判明しています。
(つづく)
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