戦国三英傑ゆかりの武将の謎③[弟の七光り] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

跡部蛮の「おもしろ歴史学」

歴史ファンの皆さんとともに歴史ミステリーにチャレンジし、その謎を解き明かすページです(無断転載禁止)

松永久秀のことが初めて史料に登場するのは、天文二十年(1551)のことでした。


「三好筑守長慶家老、松永甚介兄弟」


『足利季世記』にそう記されています。


ここでいう三好長慶は、そのころ、幕府と畿内を事実上支配していた武将。久秀は、その家老クラスとして史料に登場しますが、「松永甚介兄弟」とあるとおり、弟・甚介の影に隠れていました。


甚助(諱は長頼)は武勇の士として知られています。


つまり、久秀は“弟の七光り”で出世の階段を一挙に駈け上がったともみられなくはありません。


しかし、久秀自身、才能があったのでしょう。彼が主君の長慶に重用されていたのは事実です。


やがて長慶が没すると、長慶の一族(三好三人衆)と連携し、将軍足利義輝の御所を襲って殺します。


吉田兼見(前出)がいった“将軍弑逆”はまぎれもない事実ですが、その責めは、三好三人衆も負うべきものでしょう。久秀だけのせいにするのは酷といえます。


しかも、調べてみますと、多聞院英俊(前出)が仏罰だとした「東大寺大仏殿焼失」という”容疑”に関しては、まったくの“冤罪“であることが判明しています。

(つづく)



※サブブログで「織田信長の死」の謎をめぐる歴史小説(「花弁」)を連載しています(毎週日曜日と木曜日の二回)。そちらもぜひご覧ください。