『本能寺の変――「信長の謀略」と「光秀の懊悩」最終回』で書いたとおり、織田信長は「安土遷都」をたくらみ、信長の謀略を逆手にとった明智光秀によって殺されたというのが筆者の推理です。
それはさておき、足利義満の場合も、次男を皇太子に就け、野望を遂げようとする寸前に頓死します。
時代こそ違うものの、「義満急死」の裏側には、「本能寺の変」の時と同じく、暗躍する公卿らの顔がどうしてもちらついてしまいます。
ただ、問題は本当に義満は皇位を簒奪しようとしていたのかどうかということです。
以上の「皇位簒奪説」説はいまや、少数派になりつつあります。その主な理由は次のとおりです。
①皇位簒奪を確実なものとするためには後小松天皇の第一皇子・躬仁親王(のちの称光天皇)を暗殺する必要があるものの、その形跡がないこと
②義満の死後、朝廷から正式に太上天皇(上皇)の称号が贈られたものの、将軍義持(四代将軍=義満の長男)はそれを断り、法皇として君臨した父義満の事蹟を消去しようとしたこと。
しかし、少なくとも太政大臣を退いた頃の義満には、天皇の権威を否定して、自身が「王」とならなければならない理由がありました。
簡単に「皇位簒奪説」を否定するわけにはいかないのです。
次に、その事情を考えていきましょう。
大きな理由は中国の「明」と幕府との交易問題にあります。
義満は明に朝貢貿易を求めながらも、二回却下されています。
その理由が「国臣」、つまり義満が天皇家の家臣という扱いだったからです。征夷大将軍や太政大臣といえども、朝廷のポストであり、天皇の家臣に違いありません。
このため、義満はどうしても天皇を超越して、明の皇帝から「日本国王」に封じられる必要があったのでしょう。
(つづく)