厳島の合戦について語る際に必ず持ち出される史料が『陰徳太平記』です。通説はほぼ、その記述にもとづいているといってもいいと思います。
『陰徳太平記』は、一級史料で裏付けされる部分もあり、まずまず信用できる史料ですが、こと厳島合戦の項については、作者の筆が走りすぎたようです。
まず、この合戦の最大の”みどころ”である「誘出の計」。元就の智略がほとばしる合戦の重要なポイントですが、詳細に検討してみると、この作戦は、『陰徳太平記』の創作であったことがわかります。
陶軍が安芸方面へ進軍する場合、まず周防から海路、厳島を経由するルートが一般的です。つまり、元就がわざわざ誘い出さなくても、陶軍は、安芸侵攻の拠点として当初から厳島上陸を考えていたのです。
大軍を狭隘な島に誘い入れて殲滅するという『陰徳太平記』の話は、いっけん説得力があるように思えます。しかし、2万余という陶軍の軍勢も誇張されていたものでした(次回以降詳述します)。
桶狭間の通説(別記事参照)と同じく、「誘出の計」は、少数の毛利方が大軍を打破るには何か突拍子もない戦術があったのに違いないという発想から生まれたものとしか思えないのです。
家臣の桂元澄に内応の起請文を書かせ、陶軍を油断させようとしたことは十分に考えられますが、それ以外の記述の多くは、捏造されたか誇張されたかのいずれかだと考えています。
たとえば『陰徳太平記』によると、「誘出の計」の重要な仕掛けとして、宮尾城を新たに築城したことになっています。しかし、宮尾城はもともとあった城。元就は、陶勢が厳島を安芸攻略の拠点とすることがわかっていたため、陶軍の襲来に備えて宮尾城を修復したにすぎません。
したがって、元就は宮尾城の後詰めとして厳島へ渡ったわけであり、「誘出の計」を完成させるのが目的ではなかったのです。ましてや、元就は奇襲攻撃を意図していたわけでもありません。それは桶狭間のときの織田信長と同じだったと思います。
『陰徳太平記』でさえ、この合戦が奇襲攻撃であったとは一言も書いていません。(つづく)