毛利元就といえば、ご存じ「三矢の訓(おしえ)」で有名な武将です。
安芸国の国人領主から中国地方全域に及ぶ”毛利帝国”を一代で築きあげます。現代でいうなら、町工場を世界に冠たる一流企業に育て上げたようなものでしょうか。
その元就が中国で覇権を確立するキッカケになったのが厳島の合戦です。
桶狭間と共に”みどころ満載”の合戦ですが、知名度はいまひとつといわざるを得ません。この合戦もまた、虚飾という名の化粧を施され、真相がみえにくくなっています。
まずは通説に従い、元就の智略がほとばしる合戦の流れをみてみましょう。
弘治元年(1555)当時、毛利家は安芸の国人らを従わせていたとはいえ、『陰徳太平記』によると、軍勢をかき集めても「五千には過ぐべからざる」勢力だったといいます。
一方、敵の陶晴賢(すえはるかた)は暗愚な主君・大内義隆を討ち果たし、大内家支配下の周防・長門・豊前・筑前の4ヶ国の軍勢を動員できる立場。その勢、「二萬五千」(『同』)が元就の本拠、安芸へ侵攻しようとしていました。
元就、絶体絶命のピンチです。しかし、戦国きっての智将はそこで妙案を思いつきます。
江戸時代の歴史家・頼山陽が著書『日本外史』に、
「厳島に城、蹙(しじか)みて誘う」
と書き残した作戦がそれです。
一般には「誘出(ゆうしゅつ)の計」と呼ばれているようです。狭隘な厳島に城(宮尾城)を囮として築き、大軍の陶軍を誘い入れ、身動きできなくなったところを撃破しようという作戦でした。
この作戦をより確実にするため元就は、家臣の桂元澄へ晴賢へ内通する起請文を書かせます。広澄の父はかつて、元就によって自害に追いこまれています。したがって元澄が元就を裏切っても、晴賢は怪しまないだろうと踏んでの計略でした。
しかし、それではまだ心もとないと思ったのでしょう。元就は次なる罠を仕掛けます。
陶方の間者(スパイ)が毛利の家中に入りこんでいることを逆手にとり、
「(家臣の)諫言を用いず、厳島に城を築き、数多(あまた)の軍士を籠り置きたる事、吾一生の過ちなり」「陶、大軍をもって彼の島(厳島)に渡りて、あの小城(宮尾城)を攻めなば、日を経ずして没落すべし」(いずれも『陰徳太平記』)
と、元就がいかにも陶軍の厳島渡海を恐れていると思わせるような偽情報を流し続けました。もちろん、元就の本音は逆。敵のスパイを使い、うまく情報操作する“反間の策”を用いたのです。
こうして、まんまと元就の罠に嵌まった2万余の陶軍は海を渡り、宮尾城を囲みます。こうして元就の作戦は成功したかにみえましたが……。(つづく)