無題
終電後の線路を歩くひとがいる
わたしは
その線路から平行に
歩道をきちんと歩いています
カンカンと
石を蹴飛ばす音が
同じ空間から聞こえていて
通りすぎる自転車のひとが
驚いたように彼の姿を何度も見ていた
彼の安全なドラマチックを
真夜中という等しさを
ふと
カンカンの音は止んだ
ファーのついたフードは止まった
通りすぎてゆく排気ガス
私もエレベーターに乗ってるみたいに
それ から遠く離れてゆく
真夜中
に呑み込まれる
彼のドラマチック
線路につづくのは
日常だ
それ意外に何が
猫の舌
あまりお菓子は食べないのだけれど、ラングドシャの繊細な甘みだけは常に欲している気がする。
今更ながら、だけども宮崎あおいの「害虫」を見た。
「害虫」
少女の思春期の危うさ、という
安易で使いまわされた主題
10年前の宮崎あおいがうつくしい映画
という感じでした。
なんというか、これはある種の「オリエンタリズム」(サイード的な意味での)だと思う。
表象=支配
塩田明彦という、一人の大人の男性(中心・秩序・西洋・支配者)に
中学生の少女(周縁・カオス・オリエント・被支配者)が
あどけない・生意気な・身体を持て余した・危ういエロティシズム・行き止まりの・うつくしい
そんな概念を当てはめられた、そのイメージの具現化としての映画。
「リリィ・シュシュのすべて」もそうなのだけど
思春期の脆さを主題にした映画が湛えるこのような通り一遍のきりきりとしたうつくしさ(死、を意識したうつくしさ)は、消費され使いまわされて却って俗っぽいように感じる。
少女の長い黒髪、制服、白い靴下、不機嫌な表情、教室の机、青空、トイレ、悪口、ピアノの音、合唱、草、雨、川、もろもろのアイテムと物語との組み合わせでいくつでも同じような感触の映画を作ることができる。
もはやデータベース消費。
思春期というテーマが、もはやひとつのイメージ・概念しか想起させない。
オリエンタリズムというテーマが、東洋にひとつのイメージしか想起させなかったように。
さて、きりきりとしたうつくしさ、と先ほど呼んだものは、
死を意識しながらも死からはとても遠い
しかし生からはたぶんさらに遠い
それは単なる物語上の演出に過ぎず
死という概念すらアイテムに過ぎない。
そこには生きた人間などおらず、たとえば90分・たとえば120分の枠の中に収められたキャラクターがいるだけである。
「害虫」のラストの後味の悪さは、こういうことなのだと思う。
(注・死、とは概念の問題であって物語の実際の展開の問題ではない)
物語としては、ああいう風に途切れることはきれいなラストかもしれないけれど
もしあの少女が実際にいたらあんな風には諦めないと思う。私は。
この映画をわざわざ全部見なくても、上の予告編で十分だと思う。
田辺誠一と宮崎あおいの語りが交差するこの予告編は良い。
これはふたりがやりとりしている手紙の内容なのだが、実際映画では活字のみであって声はない
長い空白がある
それはそれで良いのだけども。
しかし思春期というのはどうしてこんなにも美化されるのだろうか
完全にうしなわれたものだからだろうか
ひとは秒刻みで現在をうしないつづけているのに
喪失はどうして美化されるのか
うつくしくしなければ生きていけないからであろうか

ラングドシャ 食べてたら 16時 過ぎ
久しぶりのともだちと電話をした
風が吹いている音がした
指が冷たい
繊細な安心 なんてうそっぽい
わたしをおびやかすものは
私をおびやかすものは
外側の誰も いない
そんなきもち
そんなきもち です
高温で
裏返る声 がきこえる
書くことがすき
声を発することも たぶんすき
ゆったりと沈む
身体以外の部分
焼酎との相性が良い
ゆっくりと出ておいで
身体は浮遊する一方だから
今この瞬間だけ
自由に
おいで 出ておいで
透明なグラスと
透明な氷と
透明な液体が
黒い影を作る
それが不思議でたまらないのです
私を
私をおびやかすものは
外側の誰も いない
そんなきもち
そんなきもち です
高温で
裏返る声 がきこえる
書くことがすき
声を発することも たぶんすき
ゆったりと沈む
身体以外の部分
焼酎との相性が良い
ゆっくりと出ておいで
身体は浮遊する一方だから
今この瞬間だけ
自由に
おいで 出ておいで
透明なグラスと
透明な氷と
透明な液体が
黒い影を作る
それが不思議でたまらないのです
私を
私をおびやかすものは