ろくじょうのおとしあな -34ページ目

あたたかな、




編集者の目、なんてものをわたしが持っているかどうかは別として

今は限りなく客観視しなければならない期間。



12月にたのしみなお知らせがあります!

たのしみかどうかは知らないけれども。まあわたしにとってはたのしみです







この間、

文章はこれから長いこと書いていくのだろうから、といわれた

そのことばがとても刺さった

ことばに受け入れられているわけではないけれど

ことばの中にわたしはいるのだな

しかも一生

その、絶望的な安らぎ。


路上にて




すずめ、
であっただろうものを見た
ぺしゃんこになって
乾いて
まるで毛皮だけみたいなそれは
しかしうっすらと表情があった

コンクリートに何気なく落ちていたその物質過ぎる物質性はあまりに気持ちが悪かった
血液も臓器もない、すでに乾いたその感じが。

正しい、ただしさ。



ふーむ。やっぱり機械オンチ

とてつもなく自由な7限の間に、今週日曜までの課題をやってしまおう。と思うも、色々がうまくいかず。こりゃだめですな。



とりあえず、企画そのものを総括している側のひとに助けを求めた。

システムに乗っかっている限り、まあそれを作ったひとがとりあえず正解をくれるものでしょう。












そういえば、昨日はまた、彼氏のバンドアナグラムの路上ライブがあったのですよ。

私は無料のデモCDを配るお手伝いをしていて、けっこう多くのひとが足を止めて行ってくれて、なかなかに好調だったのですが、途中で警察がやってきて演奏中止になりました。



警察のひとはきっとした目つきをわざとらしく作っていた、ようにも見えました。








先ほど、ジャーナリズム論の授業を受けていて、それは天皇と権力の話なのですが、

「悪であるから罰せられるのではなく、罰するから悪になるのだ。」という法措置暴力の一説が出て、なんだかこうリンクリンク。





それは悪だ、と規定すること自体がもはや暴力である。と。








うん、なんだか私は権力がああたらこうたら、と主張するような気持ちになったわけでは、でもないんだな。

私の中の、私たちの中の善悪やら倫理観なんて、そうやって法で作られて統制されたものであるんだなってそう思ったのでした。

私たちの中には、吹きっさらしの野蛮な感情が欲求が、確かにあるよね。

誰かを殺したいことにも、誰かとセックスしたいことにも、理論なんてなくて、それは等しく、どんなひとへも向けられるべく感情なのだと思った。のでした。





通りすぎるひとへ、誰かれかまわず話かける、そのことばの浮遊性だって、おんなじところからきている

知らないひとにいきなり自分の内実について話すことがおかしいことだ、という感覚だって、何か大きなものに作られたに過ぎず。




そうしたら、黄色いトレーナーのおとこのひとのほうが、どんなにか自由な本質を生きているか、とか思ったりしました。



秩序を生きることは安心だけれど、

世界はきっと、わたしが思うよりもずっとずっと広くて深いんだろうな。













さしあたって、お腹が空いたのでご飯。

料理だって、ひとつの大きな権力だよな。

その権力の中で安心している私、私なのですが。