不在の椅子/にんにく/新しさへ向かうこと
帰省途中の小田急線の中でふと、私はやさしいひとばかりにかこまれている そのやさしさに生かされている と
ふと、ね
しかし、そのやさしさすべてに私が応えようとするというのは間違っていて
みんな自分の人生の上で私にやさしくしてくれているのだから
私も自分の人生を生きればいいのだと思った
誰かのやさしさに、自分の決断を投げてしまうのは罪悪だと思った
出てくる頃には明るかったのに電車はすっかり夜の光を点つないでいる
言葉を仕事にする術を、そろそろ真剣に考えなければならないのだ
やわらかなせつない
のち、
クラムボンで全身が震えている 震えている
(動けなくなったのは、寒いからではないよ)
わたし、世界でいちばんうつくしい文章は、
詩と曲の解説文だとおもうのです、おもっているのです。
∞
クラムボンのベスト盤が3月に発売されるらしく、それに入れる曲をファンが投票できるらしいのですが
1曲なんて選べるはずもなく
HPの、いろんな著名人の「わたしのえらぶこの1曲」とそれへの思い入れの文章とか見ていたら
ああ、なんだろ、
全身が感性になるようなこのかんじです
なみだがでるくらい、クラムボンすきだ。すきだ、なあ。
ノイズノイズ
早いものでもう大晦日。
なんだか今月は、いろんなことがみっちりつまっていて自分に形がある気がしなかった。
常にかなしいとたのしいの両極にいたせいで、なんだか自分は概念の中で生きているようなふしぎな感じであったのでした。
概念の中にいるとき、ことばはものすごく遠いのだな、と思った
ことばは悪意のかたまりのようにはなるけれど、それが響くことはきっとないんだな。なんて
それはそうと、すきだったバンドのひとつであるミドリが解散なのです。今日ね。
ミドリ解散、を聞いたとき、ショックとかかなしいとか残念とかそういう気持ちはなくて、なんていうか、やっぱりそうなんだなあ、というか納得がいって穏やかに受け入れられた。
だってどこまでも、いけないよなあ、と思ったというか。
そんなえらそうなことも言えないけれど、なんだか爆発する前の星みたいなぎらぎらがあったもので、それがわたしにとってのミドリだったもので。
その刹那的なぎらぎら・あるいはきらきら、強い本質、衝動そのものが生きている、ようなそんななにか、を後藤まり子のtwitterのことばに見たきがした。
後藤まり子のアカウントが消えてしまったらしいので、七尾旅人がRTしていたところから、ここへ引用しようと思います
∞∞∞
ミドリの解散を聞いて「へー」とゆう人もおれば「ああ、悲しい。」ゆう人もおる思うし「やったー!」て人もおる思う。
とっても、楽しかったです。苦しかったです。こんな、形のないものに、沢山の時間をかけてしまいました。自分を注ぎ、紡ぎだして行く作業は、何事にも代え難い、大切な時間です。
時間は平等に、流れて行くので、僕も、あなた方も、こんなあほくさい、画面ばっかりみていると、あっとゆう間に、ばばあ、じじいになりますよ。インターネットなんか、便所の落書きみたいなもんや。嘘ばっかりやぞ。情報が錯綜しまくっとんのやぞ。なんちゃって
(中略)
僕を、今まで、追いつめてくれて、ありがと。遊んでくれて、ありがと。ぽっくり、いくでー。ホームラン!あっと、1っ回!!!あ。あと、音楽続けてほし いってゆうてるやつ、うさん臭いで。
どうせ、続けても、ミドリっぽいとか、なんかとゆうて、比較するんにゃろー。はははははは
明日のお弁当、なんやろー?みそ汁あるかにゃー、風呂入って、睡眠薬飲んで、寝る。明日、楽しみ◎12月30日は、ハッピーお葬式。
名残惜しくない訳はな いよ。惜しいよ。情もあるよ。つらいよ。せやけど、進まなあかんねん。おやすみにゃん。明日、全員、殺したるからな、勝負しよ
∞∞∞
(twitterからブログに転載するのってどうなんだろう、いいのかな
twitterの情報ってかなり曖昧だし、本当に後藤まり子なんですか?って言われたとき、100%の肯定はできないよなー。これもRTされたものの引用なわけだしなあ。それがtwitterの限界な気がした。)
()で書いたような色々もあり、我ながら阿呆なことをしているなとは思うのですが
ううむ、でもなんだろう、わたしはこのひとのことばの強度にびっくりしたです。びっくり、胸を突かれたというか隙間に入り込まれたというか、流れ込んでくる感じ。
内容というかね、まあ内容なんだけども、
ミドリの後藤まり子の苦悩、とか音楽的事情とかそういうのを越えて
このことばの強さはなんだろう。この生きていることばはどうしたことだろう。
どんなに有名になっても、
ファンがついても、アンチが存在しても、
どれだけたくさんのひとに見られていても、
結局、わたしたちはことばをいつでも、闇の向こうにしか投げられないんじゃないのだろうか
好意的な声も否定的な声も
そのどこにも持ち主の在りかは見えず、体温も感じられず
わたしたちはただただ、存在があるのか、ないのか、どんなものなのか、なにもわからないそんな場所へ投げることしかできないような気がした。
表現をする、という孤独
孤独に向き合うという孤独
それでも、発せずにはいられない、その、本質的な孤独。
途中の、このセンテンスがとてもすきだった。
∞∞∞
僕は、もうすぐ、言葉を失います。僕に、うざがっとるやつ、びびっとるやつ、だいじょぶ、ちゃんと、言葉、失うから、安心しいや。もうちょっとやねん。もうちょい。今は、もっともっと、もっと、どこまでもいけそう。
おうおうおうおうおうおうおうおうおう。これからがどうなるかわからん、キラキラした、毎日が、待ってる、はず!なんや。せやから、いっぺん死ぬ。なむー
∞∞∞
おしまいを生きるということの強さ、というものがあると思う
それは、構築しよう、と思っているひとの強さとはまた違ったもの
破壊して終わってしまうものとも、全く別のもの
死は、時間を止めない
死んでしまった後も時間は流れている
からからからから
故障しても回り続ける、カフカの「流刑地にて」のあの機械のような。
わたし、やっぱり、
表現の先にあるものは沈黙だと思うのです
ことばも、おとも、こえも、
もう発せずに満たされるようになれるその場所へ
還るために
わたしはこんなに書き続けるのだと、思うのです。
窓に、
穏やかな結露
爆発する前のぎらぎらは、爆発した後も残るのかな
果たして。