ろくじょうのおとしあな -30ページ目

「ひろがりつづけるいきどまり」

毎日日記を書くという新年の目標が早くも破れる




いや、まあゆるやかにがんばろうと思います。















昨日、クラムボンのベストの投票をした。



散々悩んで3曲、選び

曲へのコメントで、また思考停止した。



いや、ぐるぐる回転させてはいたのだけれど、

曲に対するイメージやら思いいれやらはわんわんと浮かぶのだけれども

それをことばに変換しようとするとすぐさまチープな表現になってしまう

ああ、わたしのことばなんてそんなものだったんだっけな

なんだか不誠実なのである

感じの良いことばばっかりを並べているみたいで

曲に対して誠実に向き合っていないような。





この間みた、有名人たちのクラムボンの曲へのコメントはあんなにうつくしかったのに

わたしが書くものは、なんだかその情熱から外れてしまっている




完全なる敗北であるような気がした。

完璧なる音楽への、わたしの持つことばの敗北。








それで、去年就活をしていたときにロッキンオンに提出するエントリーシートを書いていたときのことを思い出した。

CD評を書け、という課題に、私はクラムボンの「imagination」を選んだ。

あのときの難しさともどかしさに似ている。

イメージを集めても集めても、クラムボンの音には勝てなかった。

(評だから勝ったらいけないんだろうけれど、でも音の断片を捕らえることすらできなかった。)











ことばが、不自由でときどき嫌になる

どうしてわたしがとらわれているものはこんなものなのだろうとすら思う

たとえば音楽の、たとえばデザインの、たとえば料理の、

あのダイナミズムとか迫力とか自由とか

そんなものには遠く及ばない

わたしはこんなちっぽけなものしか持たずに遠くへ行こうとしてるんだなと思って呆れる そして焦る



そして、遠くになんかいけないのかもしれない、と思う。











それでもなんだか信じたくて

何を、って言われると、それはもはやたぶんことばじゃなくて

ことばがことばではなくなるその瞬間を信じたくて

それはでもことばでしか越えられないから、書き続けている

自己に没頭しどんどん閉ざされてゆく表現が

どうして共鳴を求めるのだろう

どうして、誰かからの拍手や涙やうしなわれたことばを求めるのだろう







自分の力で自分を認めることができない人間が、誰かから認められることなどできるのだろうか















曖昧なペシミズムを月とか空とかに託してうっとりしているだけじゃあ閉じることすらできない

それならばいっそ、わけがわからない、をまとって増殖させて、そのまま大きくなったそれの中で爆死したい そういう表現が、したい



















変化 など




七草粥を食べなかった1月7日はもしかしたら初めてなのかもしれない





代わりに、(ってわけでもないのだけども)豆乳鍋を作って食べた
豚のしゃぶしゃぶにした
ゴマだれが良く合った
少しずつ入れた餃子はくたくたになって壊れてしまった














ワインって
いつの間に飲むようになっていたんだっけな
10年後も20年後も
思い出したように わたしは歌をうたい
彼は10年前を思い出せず
そういう風でありたい
忘却されてゆく日常の集積の
それを名付ける者でありたい
何にも 誰にも 揺らがされない 日常を作りたい

機械礼賛



冷凍パイシートとトースターの利便性に驚いています。




今までトースターを持っていなかったから、パイシートなんて使う機会がなかったのだけれど、

頂いたりんごをアップルパイにすることをきっかけに、パイシートデビューを無事果たした昨日、

今日はシチューのパイ包み焼きを成功させました。






今日学んだことは、がさつさが功を奏すこともある、ということです。









(パイシートをきれいに麺棒で伸ばすことができなかった私は実はシチュー皿をパイで全部覆うことができなかった。

まあいいや、とおもって焼いたらそれはそれで上手くいった。

授業から夜帰ってきたらちょうど彼氏が同じ作業をしているところで、彼はものすごくきれいにパイを伸ばして四方を覆えていたのだけれど、そのせいで(?)トースターにふくらんだパイがあたって炎上したのでした)







火を見るとぞくぞくします。
















近々キッシュも作ってみようと思います。

今日はなんだか腑抜けている。




(すてきな構想をしたけれど、それはきっと頭の中だけであろう。)