ろくじょうのおとしあな -27ページ目

ぱりぱりぎょうざ





桃屋のキムチの素で白菜を漬けてみた。

一晩寝かせるらしい。

ちゃんとキムチになってたらいいなあ。

昔白菜の浅漬けを作ってみたら失敗したことがあるから半信半疑ではある。






キムチを漬けながら、わたしはたぶん料理に逃避しているのだなと感じた

料理ってちょっと、おそろしい行為だとは思いませんか、だって

食べさせる、というところがすごい

自分の相手への意図や感情や気持ちなんかを、

たとえばことばで表すのであれば見せる、聞かせる、という抽象的な体験でしか成しえないけども

料理という形にしてしまえば、実際相手の体内に取り込ませることができるという、




それに気が付いて、台所という場所のふしぎを思った

よしもとばななが「キッチン」を書いた理由も頷ける (とか言って読んだのが遥か昔すぎてちゃんと覚えていない)








そんなことをすべて飛び越えて、今日の餃子はおいしかった

羽根つきのぱりぱり。彼氏が焼いてくれた。

ポテトサラダも冷奴にかけた出汁醤油もお味噌汁も

みんな平然と穏やかにおいしくて

わたしはたぶんそこに逃避しているのだろうな

泣きながら食べたことはあるけれど心底起こりながら食べたことはない 気がする。

知覚マシン





世界を観測する方法は科学か文学でしかないのだろうか、とはたと立ち止まる。

不可解なものを前にしたときのアプローチは、

数値化されたデータをもとに論理を構築してゆくか

わからない部分に物語を見出して論理を構築してゆくか




で、科学は本当に文学の影響を受けないのだろうか

すべてを数字に表すことができれば可能かもしれないけれど、

何かしらのことばを使う時点で、そのことばの持つ秩序下に置かれるよな。







なんてことを考えた。昨晩。

友達と飲みながら、だんだんぼーっとしてくるのを無視していたら二日酔いになっていた

ピンクグレープフルーツジュースだと思って買ったのは食物繊維ジュースで、二日酔いの身体にそれはやさしくなかった。

あんなに家までの距離が長かったのは久しぶりだ。ねむたいなあ。


無題




お昼ごはんのチゲかしょっぱすぎた。ご飯を炊いておかなかった自分の過失に絶望した。








昨日、明日香ちゃんは守りがかたいよね、と言われた。

驚いた。

あまりにもそうであるという事実と、それに触れられないようにひとと接することを美徳としていたから。(だからこそ守りがかたいのだ。)



誰も、そこまでは来ない

いつも、いつもそう、そのひとは、

わたしのぼんやりを指摘する

保留にしておきたいいろんな曖昧を、逃さない。




小さな頃から集団が苦手だった。おそろしかった。

だから小学校は行かなかった。

周りが気になりすぎたのだ。

わからないことを高らかにわからないと言える無邪気さなんてなかった

いつでも秩序がこわかった

いやちがう、秩序の中心にいないことがこわかった。






大学生になって、秩序という枠がものすごく広がった今、システムに関する不安はなくなった

それでも、人間同士の付き合いは今でも少しこわい

サークルの、とても仲の良い友達にだって、見られても構わない範囲までしか見せたくはない。

自分を作れている部分までしか見せたくはない、

崩れたくない

自分のおかしな部分、反社会的な部分、幼稚な欲求、そのすべてを見られたくないし、

それを見せないようにしてきた

だから守りがかたいのだと思う





でも、信頼できるひとを得てからそれが少し崩れた。

見せられるひとができてしまったら、わたしの潜在的な欲求が止まらなくなった 止められなくなった









小学生のころのそれに戻ってきてしまっている

秩序から完璧に外れている

常に後ろめたい気持ちを持っている なぜだか

バイトをしていても飲みに行っても眠っているときも

きちんとできていないことに、後ろめたいきもちをもっている












甘やかされるとそちらに流れる

笑い飛ばされるのは、死にたくなる

自分を守りきれていない、

こんなことを書くためのブログでもない







意識の浮遊を詩にできないのは、きっとまだ伝えたいひとがいるからだ