よる、手前
リトルモアの「真夜中」のショートムービー「真夜中からとびうつれ」をいまさらながら見た。
監督は「ジャーマン+雨」の横浜聡子さん。
のぞき穴と、それを見つめる目。
映画の生まれる箱、映画をめぐって物語の生まれる部屋。
二重の箱と、それを脱することから交錯し始める新しい物語。
(物語の典型、追われる者と追う者というドタバタ劇)
そしてまた、学校という箱。
ピストルの音にて、音楽は止む
「物語」は去ってゆく
自らが「物語」を先導するイメージ
それを見つめる目は誰のもの?
「わたし」が「わたし」を見つめている
あるいは、いつの間にか観る者が映像の中に取り込まれてしまっている
炎
「わたし」は物語と交錯していなかったことを知る
映画の生まれる箱は、空洞
煙草の煙
光
しかし物語は、そこに生まれる
∞
なんとも、夏である
今日作って余った豚キムチをグラタン皿に入れてみたら、上にチーズをかけてトースターで焼く想像が勝手に発生した。お豆腐も入っているしおいしいに相違ない。相違ないことなんて、世の中にどれくらいあるのでしょうか。まったくもって。
線 あかの目立つ はじまり
オペラシティでホンマタカシの「ニュー・ドキメンタリー」展を見てきました。
http://www.operacity.jp/ag/exh129/
いくつかの連作が部屋毎に展示されている形式。
すべてが連作であることからか、とても編集的であった。

編集する、という行為はふしぎだ
創作されたひとつの表現はただの点であるけれど
それを編集すると物語を持つ線になる
単独では力を持たない断片が意味を持ち始める
写真が一般的に写真集のかたちで閲覧されることにも納得がいく。
この意味において、写真と詩はとても似ていると思う。
「Tokyo and My Daughter」と題された小さな女の子の成長の記録(しかしホンマタカシの娘ではない)のシリーズや

「Widows」と題されたイタリアの未亡人たちの肖像や過去のスナップ写真を組んだシリーズ

は、とても写真集的で
彼が撮った写真に既存のスナップ写真(過去のもの)を織り交ぜながら、時系列も人物もバラバラに物語りが進む。
「Widows」のピントの合わない素人の写真や日に妬けたセピアの写真の中の若い笑顔と、カメラを見据えて微笑む現在の皺、冷蔵庫の上の日常。
現在を見つめるほどに過去が静かに満ち満ちてくる
しかしそのものがなしさは、写真にうつる彼女たちの過去の笑顔の遠さからではなく、誰もいないしずかなリビングルームの無機物から発せられている気がする
過去の笑顔と現在の微笑みの時間の遠さは、つながった、直線の、一方向のものである
しかしリビングのソファや冷蔵庫といった、日常の時間は、そのわかりやすい直線の(そして非現実的な)感傷とは別次元のものである
その日常的な(なんの変哲もない)断片にこそ物語がある
過去から現在へ、というただの一方向の時間の流れではなく、
「人生」というよりも「生活」というような
大きな影を持つ(暗い、ということではない。立体的、という意味において)物語がそこに誕生している。
これが編集の力なのだと思った。
いちばんすきだったのは、「Trail」というシリーズである。


ふしぎだ。
写真と美術、の関係について詳しくはないのだけど、ホンマタカシの手法は完全にコンセプチュアル・アートである。写真集ではない、美術館という三次元の空間においてやることに非常に意味がある。でもそんなことはとてもとてもどうでもいい問題で、そんなこと以上にこれはもはや詩である。
白い雪山に、点々と赤い「痕跡」が残る
ざわめくような木々の茶色
これは血だ、
獣の血だ、
自らの体内を開きながら
逃げ生き延びようとする、獣の足跡だ
誰かが声高に言った
彼らはそれに賛同した
あるものは拳を握った
これが大自然の摂理である
あるものは涙した
自らに閉じ込められた血液のあたたかさへの安堵や
逃げる必要のない身体の弱さに
摂理、
わたしはわからない
生命?
この極めて演出的な画面の、
生命不在ゆえのドラマティカル!
そんなものにふるえた
私の身体は小さいというよりは平面であった
この画面はとてもわざとらしいのだ
白、赤、茶
赤という劇的な色
血を想起させるその色
しかしそれが血であるという明言も証拠もどこにもないのだ
ただそれは、観るもののそのイメージに根拠づけられる
まるで生命を感じない、ただの平面なのだ
今度はまるで、立体感がまるでない
わかりやすい物語のチープさがある
だからこそ、写真たちは逆に絵画として平面化してしまう
物語・線の強さがうしなわれるからこそ(しかもそれは明示されるが故に強くうしなわれる)衝動・点の意味合いが濃く立ち上ってくる
これはもはやドキュメンタリーなんかじゃない
しかしこの画面のうつくしさはなんだろう
時の止まってしまったような 作り物のような この画面はなんだろう
純粋に色、そして造形
どんなメッセージよりも意味よりも
その衝動の持つ強さとかうつくしさとか、そんなものこそが大自然なのじゃないかと思った。
面白かった。
Trailはちなみに写真集になっています。
それも、match and companyという写真集専門のものすごいこだわりを持った出版社から出ていて、本から伝わってくるエネルギーもすごい。やっぱり購入しよう、とこの文章を書きながら決めました。

無題
ああ、なんか辟易してしまうのだ
男とか女とか、
違うとかロマンとか正しいとか
そんな表面のことはどうでもいいもの
本質を見失う表現者なんてどうでもいい
ただ自分がそれだけの重さしか持たないのなら
どうしたらいいのだろうか
しがみつく意味はあるのかな
わたしは
そんな浅はかなものは軽蔑する
そんな浅はかな部分で愉しめる感性を軽蔑する
ああ、本当に、
うしなうことはうつくしいな
おわりはとてもうつくしい
別れたら?
死んだら?
消えたら?
ああとても、
うつくしい、うつくしい、
時には涙も流すね
誰かを泣かすことができる
多くのひとを
でも、わたしはわたしを救えない
ただ自分がそれだけの重さしか持たないのだとしたら
安全な場所なんて、この世に存在しない
心臓を口から取り出して、針先で傷をつけている
誰も彼もみな
なんて、
なんの慰めになろう
うつくしいことなんて
なんの慰めになろう
慰めだなんて
この世に存在するのかな
配列
タイル
詩
うつくしい
文字の配列
詩のことばはうそかもしれない
あるいは。
永遠に一緒にいたいが故に、書き続けるのかもしれない。
あるいは。
爪を
割る
不在、
永遠の不在
永遠に一緒にいたいが故に、
欠くのかもしれない。あるいは。
(決してことばにしたくなかった、断定、心臓。)