ろくじょうのおとしあな -15ページ目

24歳であると。



台風が行ったり来たりしていることに意識的であるような無意識的であるような
そんな感じで今やすっかり凪いでいるおそと。
近頃テレビをまったく見ません。
もしかしたらもう見られなくなっているかもしれないという懸念。
完全地デジ移行っていつだっけ。






ライブに行きたくなってしまったなあ。














bccksにて、写真日記はじめました。
http://bccks.jp/#B39837,P491642
まだ3日分くらいしかないですが、更新してゆくので良かったらこちらもどうぞ。









あ、また来る。
空気が上昇してきた。蒸し暑くなる。

ブンガクがめんどくさい。



昨日は芥川賞・直木賞の選考会だったようでニュースを見ていたら、今回は受賞作なしとのこと。
候補作よりも選考委員のコメントが気になり出す。
調べていたら、過去の受賞作・候補作・選考委員・評が一覧になっているサイトを見つけた。

「芥川賞のすべて・のようなもの」
http://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/index.htm


読んだことのあるものや気になっている作家の作品を中心にチェックしていたのだけども、選考委員の小説観が(当たり前だけども)モロに出ていて面白い。


私は小説も文学もいまいちきちんと自分の中に信念のようなものがあるわけではないのだけれど、
山田詠美の島本理生への評の「お行儀が良いものは、退屈と紙一重」に納得。
よくできている(よく書かれている)小説は、往々にしてあまり面白く感じない。
前回の朝吹真理子の「きことわ」も、丁寧に書かれているしビジョンもあるし表現力もすごいな、とは思ったけれどもう一回読みたいような小説ではないなと感じてしまった。
小説の持つ無限の可能性を、逆に狭めてしまっているような。
音楽的、とか映像的、って二次的なはずなのに、それが主軸にきてしまうとまた違う。


今、小説でできること(効力を持ちうること)は実はとても限られているのかもしれない。
古いものをなぞる意味をきちんと考えるべきだと思った。
「現代は~」とか「私」とか「身体」とか、文芸誌なんかの借り物の言葉で思考しているうちは絶対に文学はこちらに引き寄せられない。気がする。
作家や批評家に言われなくても、現代の感覚なんて自分の中にあるはずなのだ。



あんまり凝り固まりたくないよね、
というかまだ凝り固まれないよね20代なんて。
客観視された百万人の現代人の代弁やら問題意識を浮き彫りにやらそういう意識に何か違和感を覚える。
ううむ。


とりあえず古いひとにほめられるためになんかがんばりたくないなあと思った。
要するに石原慎太郎は変わらないんだろうし、それに合わせてく必要なんてない。





ろくじょうのおとしあな

ろくじょうのおとしあな

ろくじょうのおとしあな


※間違い探しではない

tenya-wanya





汗をだらだらかきながら、自分の書いたものを見つめなおす日々です。
ブログの再編集をしてみよう、と思ったものの
やはりものすごく膨大な量なわけで、
書いている時々の気分によって内容も書き手としての意識も違う。
それを切り取ってつなぎ合わせて、の作業が果たして成功しているかどうか。
とりあえずまだ本作り続行中です。
あと4日くらいで完成できるだろうか。


途中にも関わらず、更新し続けてアップしています。
よかったら追ってみてください。なんて。
http://bccks.jp/#B39741,P490184
(右側のNEXTでページがめくれます)




。。。。








昨夜、仕事が決まりました。
といっても3ヶ月前に働いていた居酒屋に戻れることになったのですが。
それで、お店でビールを一杯(たくさん、の意味ではない。ワンカップ)頂きながら音楽の話をしていたら「アフロビート」という単語が登場したのです。
知ってるような知らないようなだな、と思ってどんな感じの音楽なんですか。と問うたところ、なんか南米系のファンクでもサンバでもなくてなんか独特の、とにかく独特のリズムなんだよ。という答えが返ってきたため気になって調べてみた次第です。
もともとフェラ・クティの動画を見ていたのだけど、気づいたらフェミ・クティだった。
すてきだ。
夏にぴったり。