翌朝のパンと”覚書” | あしたうさぎ の 散歩日和 ー と 衣食住、ときどき好きな事。ー

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旧タイトル
あしたうさぎの朝ごはん ー野菜ごはん、ときどき、好きなこと。ー

足りないものを補い身体を整える朝ごはん・・・の事を書いていたけど、2020年から以外の事を書く機会が増えました。写真の著作権は放棄していません。ご使用ご希望の際はご相談下さいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

柄本明さんの2度目の登場シーン《B》で

 

こみあげた。

 

 

 

 

 

 

そこまでは、

 

すみずみに共感する要素がちりばめられていても、

 

間違いなくスクリーンのこちら側の私なんかよりも

 

ずっと熱(エネルギー)を持った肌の人たちだと感じ、

 

(そう願い)

 

 

 

「私の心配は要らない」「大丈夫なんだ」と

 

たくましさを期待できていたのに、

 

 

 

 

 

そこで一気に崩れてしまったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは『 万引き家族 』を観に行った私の覚書。

 

 

 

 

そして写真は

 

映画の帰りにメゾンカイザーでつだけ買ってきたパンで食べた、

 

翌6月16日(土)の朝ごはんのもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

豆乳と玄米黒酢でカッテージチーズを作りました。

 

 

まだ温かいそれに塩をまぜて、メゾンカイザーの

 

日本橋店限定のそのシンプルなパンにのせていきます。

 

 

 

(このパンはほかのパンと比べるとそう値段も高くないのですよ。

 

 大きな穴が空いているタイプだからこうして

 

 カッテージチーズなんかでふさぐのだけれど、

 

 噛みごたえがあるのに固すぎず誰でも食べやすいこれは

 

 人が集まる時のオープンサンドにいいなあ、とこの朝

 

 ふと思いました。)

 

 

 

 

 

3種類。

 

 

 

 

ひとつには誕生日にもらった「きいちごのジャム」を。

 

 

 

もうひとつには蒸しておいたかぼちゃをマッシュして、

 

カッテージチーズを作る時に出たホエイで

 

やわらかくのばしました。

 

 

 

 

 

そしてもうひとつにはあさりの佃煮と細ねぎをのせました。

 

 

 

 

(この朝はこの佃煮でお茶漬けを食べようかと思っていたけど、

 映画の帰りにお土産にパンをひとつ買うのもわりとよくあること。)

 

 

 

和のものを洋のものに(パン)に合わせるためには、

 

「無国籍風」にしたらいいかな?

 

 

そこでこれにはスパイスを使うことに。

 

 

 

貝のもつ強いうまみと、

 

(頂き物)市販のもので、わりとしっかりと

 

酒、みりん、醤油で味付けされていることから、

 

 

うちにある中では一番個性の強いクローブを使ってみました。

 

(すごいチャレンジです。)

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、クローブは、本当に個性が強いのでごく少量。

 

(すこしでも多すぎるとラッパのマークの胃腸薬の味に

 

 なってしまうでしょうから。)

 

 

この時は味見せずにそのまま食べ始めてしまったけれど、

 

クローブと佃煮の味をつなげるために

 

「レモン汁をたらしたらよかった。」と言いながら

 

食べました。

 

 

 

 

 

 

 

よく見て、よく味わって、感じて。

 

「次こそはそうしましょう。」と決めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからはまた映画のこと。

 

これから観ようと思われている方は

 

もしかしたら読まない方がいいかもしれません。

 

 

 

だけどものがたりの結末を書いているわけではないので、

 

たとえ読んだとしても観ていない人にとっては

 

ちっともわからないはず・・・とも思うから、

 

大丈夫といえば、大丈夫???

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うん。

 

観た人にだけ届き、解ける、暗号のようなメッセージのつもりで

 

未来の自分と、すでに観られたその方たちにむけて書いてみます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全て見終わった後の余韻の中で

 

釣りのシーン《D》が大きく再び浮かび上がりました。

 

 

 

後半に家族ひとりひとりの正面をむいたカットが続く中で

 

また新たな痛みが生まれた後のこのシーン《D》で

 

映画の冒頭からの痛みと新たに加わったその痛みが

 

ようやくすこしだけ癒されるようでした。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シーン《B》と、

 

そしてその後にやってくる少年が懸命に走るシーン《C》と、

 

釣りのシーン《D》が

 

つながって、

 

少年の存在が大きくふくらみ、

 

 

またもう一度ずっとさかのぼって、

 

柄本さんの1度目の登場シーン《A》が

 

頭の中に蘇って浮かぶ。

 

柄本さんの存在を思い出す。

 

 

(冒頭に書いた「こみあげてきたもの」は

 

 この1度目の登場シーンを思い出してのものでした。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

A・B・C・D。

 

 

この4つの場面が私の中で初めて深い関係性をもって繋がって

 

ラストへ向かい物語が走り始めた時こそが、

 

それまでの私の「大丈夫なんだね。」という認識が

 

とうとう完全にひっくり返った瞬間でした。

 

 

 

 

 

 

達者で特に芝居の上手な人ばかりが揃うこの映画の中にあっては

 

(子どもたちのお芝居ももちろん上手ですし、

 

 ドキュメンタリー的に通ずるような作り方を随所でする

 

 監督によってもそれぞれ小さいけれど立派な人としての重みが

 

 しっかりと十分に浮かび上げられてはいるのだけど。)

 

 

 

夫婦やおばあちゃん、お母さんの ” 妹 ” 

 

(大人の人たち)が

 

あまりにもしっかりと演じ、しっかりと描かれるがために、

 

最初はその大人たちひとりひとりが主役だと

 

どこかで感じながら観ていたのに、

 

ひっくりかえっちゃった。

 

 

 

やはり今回も多くを雄弁に語らない子どもが

 

(監督の過去の映画でもそうであったように)またも監督によって

 

主役に明確に押し上げられた瞬間でした。

 

 

 

そしてそれはスクリーンのこちら側で観ている自分と、

 

子ども(少年)、監督・・・の3人の視線が

 

それまでよりもずっと強く重なった瞬間。

 

 

また、すごかった。

 

 

 

 

 

 

 

(ね。相変わらず私、観ている方にも「なんのこっちゃ?」の

 

 書き方でしょう?すみません。)

 

 

 

 

 

 

 

 

思えば彼(少年)の目の前で起こっていたこと、

 

だったものね。

 

 

 

自分自身のの目で観ていたはずなのに気付いたら彼の目で見ることになって、

 

悲しく痛みを伴う部分も多いからと自分で無意識にすこしは作っていたはずの

 

スクリーンの向こう側とこちら側の隔たりは、

 

崩れ去る。

 

 

それまで、

 

たくさん見て、感じてきたのでしょう。

 

同じ痛みと強さを共有したそこからは、

 

少年と私(観客)は一緒に進む『同士』になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

肌で感じるようだった人物や世界の描写にひきこまれていた

 

「それまでの時間」は悲しくもあたたかく、

 

美しかった。

 

 

それは走馬灯や絵巻物のようないつもかたわらに置いておきたいようなもの。

 

その印象的なシーンたちも最後の大転換によって

 

夢物語ではなく自分の意思に関わらずも勝手に思い出され、

 

リピートされる、

 

強い永遠のものになりました。

 

 

 

 

 

(希林さんが今まで見たことのないような本当にかなりお年を召された

 おばあちゃんの表情をしていたことの衝撃や、

 茉優ちゃんをはじめとして本当に上手な大人たちばかり。

 でも映画の作り方としては、子どもの力がそこをあっさり越えていく

 ようにしているのかな?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カッテージチーズの副産物で生まれた「ホエイ」。

 

この日と翌日で、さらに別に豆乳を使い、

 

そうするとかなりの量になるけれど

 

ラッシー風にして全て残さずに2人で

 

飲み切りました。

 

 

 

 

 

大好き、美味しかった「木苺のジャム」も

 

この朝の分でほとんど食べきりました。

 

 

 

それでも、すべて過去のものになったはずなのに、

 

その時味わった何かは今ならまだすこしは覚えています。

 

この先何年も、「この事」をずっと覚えていたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「無敵」であることが強さではないのだと思いますし、

 

脆く崩れるものの中にも

 

強く美しい宝物はちゃんとあります。

 

 

ならばほかの余計なものはうまく捨て去る術を身につけよう。

 

そうしたらその宝物も埋もれてしまわずにすむでしょう。