ブログラジオ ♯196 River | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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先週がキャロル・キングだったので
あるいはと予測されていた方も
中にはいらっしゃるかとも思われるが

お察しの通り今週は
ジョニ・ミッチェルである。

永遠の愛の歌-ジョニ・ミッチェル・ベスト<ヨウガクベスト1300 SHM-CD>/ジョニ・ミッチェル

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孤高の、という形容詞が
史上登場してきた
ほかの誰よりも似合う

女性アーティストだといったら、
ちょっといい過ぎになるだろうか。

でもそう断言したくなるくらい
実に不思議な存在なのである。

語弊があることを
承知で書いてしまうけれど、

彼女の作品に関しては
なんとなくなんか

単に音楽を聴いていると
いったような気が
全然してこないのである。

たぶんスピーカーから
こぼれ出してくるものが
あまりに多過ぎて、

身構えなければならないというか
常に緊張を強いられるとでも
いった感じの形容が相応しいのか、


とにかくそういう感覚に
襲われてしまうのである。

実をいえばこれは
大抵の場合自分が

音楽に求めているものとは
ちょっとベクトルがずれている。

少なくとも彼女の曲は
小説を書くBGMには
あまり向かない気がする。

とりわけ初期の作品には
この傾向が極めて顕著で


メロディーラインも簡単には
覚えられないというか、
一発では鮮明に入ってこない。

身を任せづらいのである。

たぶんリリクスとそれから
ヴォーカルに込められている
意味作用みたいなものが

多過ぎるというか
圧縮され過ぎているのだと思う。

そして改めて、実際には
ジョニの声とギターのほかには

ほとんど楽器が
使われていないことにも気づかされ、
時に唖然としてしまう。

つくづく不思議な音楽である。

これもまた極めて
陳腐ないい方になってしまうが、

たぶん彼女のトラックは
ポップという言葉で括って
かまわないような領域など
優に越えてしまっていて、

アートという表現の方が
より近い場所へと
到達してしまっているのだと思う。


七〇年代さえまだ始まらない時期
デビューの当初からすでにもう、

この人はこんなことを
やっていたのかというのが
正直率直なところである。


さて、ジョニ・ミッチェルは
カナダの出身である。

小児ポリオを
患っていたこともあって、
幼少の頃は
内向的な子供であったらしい。

十代のうちに
望まぬ妊娠をし、


人目を憚るようにして
最初の女の子を産んでいる。

しかもどうやらこの長女は
時期は定かではないのだが、

それでもたぶんまだ本人が
物心つくかどうかといった時期に

出自を伏せ施設に送られるなり
養子に出されるなりしてしまい

だからほとんど
生き別れのような状態に
なってしまってもいたらしい。

その後、失意にあった彼女は、
アメリカ人で、
シンガーでもあった
ある男性と出会って結婚し、

彼と組んでデトロイトで
ローカルなデュオとしての
活動を始めたことで
音楽の道へと入っていく。

この時のご主人の
ファミリー・ネームがミッチェルで、

やはり当時その名前で
デビューしてしまったものだから、

アーティストとしてのこの方は
一貫してジョニ・ミッチェルという
存在となったという経緯になる。


ちょうどP.ベネター(♯158)や
ドナ・サマー(♯186)と
同じような感じであろう。

まあドナ・サマーの場合には
あの時にも多少書いたように
さらにもう一捻りあった訳だが、

それにしてもこういうのって、
別れた旦那様の側は

いったいどういう感慨を
抱くものなのだろう。

もっとも確かめる術も
どうやらなさそうではあるが。


まあいずれにせよ
結局はこの時の結婚は、

彼女にとっては決して
幸福なものとはならなかったようで、

ほどなくジョニは単身で
ニューヨーク近郊へと居を移し、

ソロ・アーティストとしての
道を模索し始める。

この辺りまでが大体
60年代がそろそろ終わりを
告げ始めようかという
時期の出来事になる。

それこそ僕自身もまだ
物心などついてはいない。

そしてほどなくこの
ジョニの物語には

CS&Nのデイヴ・クロスビーやら
グレアム・ナッシュやらが
登場してくることになるのだが、

それはとりもなおさず、
最初の最初から彼女の書く曲が、

たぶん異様なオーラを
聴くものに感じさせていたからに
ほかならなかったのだろうと思われる。



意味作用の豊潤な
この彼女のスタイルに
直接の影響を与えたのは

やはりボブ・ディランの
存在であったらしい。

彼の歌詞に込められた物語性と
メロディーラインとの両立を

ジョニは最初の最初から
自身のソングライティングの
目標として持っていたのだそうで、

そういった主旨を含んだ
本人の発言も確認できるし、


ついでながらジョニが
Big Yellow Taxiの一部を

ディラン風に歌った
映像なんてのも見たことがある。

こんなことして許されるのは
たぶん彼女だけだろう。

しかしいわれてみると
このディランの影響というか、
上の目標みたいなものは

彼女の各トラックの随所に
なんとなく見えているのである。

歌というものがある種の物語を
語ることのできる器へと
変貌していく過程で、

ディランとそれから
このジョニの果たした役割は
相当大きかったのだろうと思う。

いや、それ以前の歌に
物語性が皆無だったと
いいたい訳では決してないのだが、

とりわけこの人たちの楽曲からは
まず語られなければならない
言葉なり文なりの方が先にあって、

メロディーの方がそれに
引きずられる形で出てきた
そういう印象がより強いのである。


だからまあ、
メロディーの親しみ易さとか
わかりやすさみたいなものは、

自ずと優先順位を下げられる。

のみならず、同じモチーフが
言葉に合わせて

微妙にぶれていくものだから、
なかなか一発では覚えられない。

鼻歌気分で口ずさむことが難しい。


その辺がたぶん
個人的にものすごくハマるという
ところまで

なかなか行かなかった
原因なのかなあとも思っている。


さて、この一番最初の
ニューヨーク時代に、

彼女のマネージメントを
引き受けた事務所の
その一員であったのが

デヴィッド・ゲフィンと
いう人物である。

何度かここでは
名前を出しているはずなのだが、

イーグルス(♯150)や
あるいはトム・ウェイツなどの
アサイラム・レコードと

それからレノンの
DOUBLE FANTASYを出した
ゲフィン・レコードとの

これら二つのレーベルを
立ち上げたのがこの方である。

だからそもそもはこのゲフィン、
アーティストのマネージメント、


つまりはたぶん
芸能事務所のような事業から
音楽の業界に入ったらしい。

そしてその自身の
担当アーティストの一人、

当時まだ新人だった
ジャクソン・ブラウンを

どうにかデビューさせようと
画策していた際に、

手を上げてくれるレーベルが
なかなか見つからなくて、


のみならずアトランティックの
窓口担当者からは、

そんなに有望なら
自分で出せばいいじゃないか
みたいなことをいわれたのが、

アサイラム成立のまず最初の
契機となったのだそう。

これが大体ちょうど
70年前後の
出来事だったと思われる。

一方68年にはもう
メジャー・デビューを
果たしていたジョニは、

71年発表のBLUEで
その名声を
確実なものとするのだが、

同作のあまりのヒットに
戸惑ってだったのか、

この直後にほぼ一年近く
遁世のような生活を送っている。

カナダのどこかに
たぶん農場のような土地を買い

電気もないような生活を
単独で送っていたらしい。


いや本当、自分でレーベルを
立ち上げてしまった
ゲフィンもそれはそうなのだが、

この時のジョニの
決断というか行動力も
やはり生半可なものではないと思う。

時代がそういうことを
許してくれた側面も
あるいはあるのかもしれないが、

なんかやっぱり
天才と呼ばれる人は
一筋縄では行かないなあと、
つくづくそう思ってしまう。

そしてこの隠遁生活から
戻ってきた時ジョニは、


まずはこのゲフィンのところに
ルームメイトとして
転がりこんだのだそうである。

たぶん男女の関係では
なかったのだろうが、

それにしてもさらには
さも当然のように

このジョニもまた
アサイラムへと移籍するのである。

そしてこの時期にゲフィン本人から
なんかちゃんとヒットするような
曲を書いてよといわれ、

ジョークとまではいわないが
半ば意趣返しのような
スタンスで書き起こしたのが、

「恋するラジオ」の邦題で知られる
You Turn Me on, I’m a Radioなのだそう。

しかもこれが、たぶん
ゲフィンの目論見通りに本当に

ジョニにとって初めての
トップ40ヒットとなるのだからすごい。

基本それまでのジョニは
アルバム・アーティストというか
そういう存在だったのである。


まあこの言葉も最早死語に
なりつつあるのかもしれないが。

とにかくまあ
なんというかこの一連の

作り手と送り手の間の、
駆け引きというのとも
ちょっと違っているけれど、

目に見えないある種の
コラボレーションみたいなものには
なんとなく
微笑ましいような気持ちにさせられる。

ちなみに同曲のヒットを
皮切りにする形で
発表された二枚のアルバムは、


ともにビルボードで
彼女自身の最高位である
二位にまで上昇しているから、

新興のアサイラムを引っ張る
柱となっていたことは
たぶん断言して間違いはない。

なお、もちろんというか、
ジョニはやがて、
上のゲフィン・レコードが

立ち上がってきた時には、
やはりこちらに移籍しているし、

やがてゲフィン本人が
同レーベルを離れてしまった後では
古巣リプリーズに復帰している。

相当馬が合ったというか
強い信頼関係を
窺わせずにはいない経緯に見える。

さらにちなみに
Free Man in Parisという

彼女の代表曲の一つのタイトルは
このゲフィンのことだそうで、

アメリカを離れてようやく
仕事から解放された彼の姿や
言葉が元になっているのだそう。


さて、ここまで書いてしまって、
自分でもこれではどう読んでも


このジョニとゲフィンが
終生のそういうパートナーで
あったようにしか見えないなと
思いなおしもしたのだが、

改めて念を押しておくが、
たぶんそんなことは全然ない。

今回は機会を譲るつもりだが、
むしろこのジョニには
その時々にほかの恋人の存在がある。

それはそれこそまず
冒頭近くで名前を出した
D.クロスビーであったり
G.ナッシュであったり、

あるいは後年は
ジャコ・パストリアスや
ほかのバック・バンドのメンバーや、


時にはプロデューサー・クラス
だったりもするようである。

BLUEの時期には
レナード・コーエンの名前が
囁かれるような場面も

どうやらあったらしいのだが、
こちらは真偽は定かではない。

恋多きという言葉で
まとめてしまうほかは
ないのかもしれないが、

そういうのがたぶん
彼女の旺盛な
クリエイティビティの

一つの原動力となったことも
また事実なのだろう。

いずれ彼女の生涯については
たぶん映画か何かに
なるのではないかと思う。

実際テイラー・スウィフトを
巻き込むような形で
とある企画が
動いていなくもないようなのだが、

ただ近年はジョニ本人の体調が
あまり芳しくないようなので、

その辺りの影響が心配される。



さて、今回のテキストは特に
あまり音楽の方にきちんと
振り切れなかった気もするのだが、

とにかくは標題にした
このRiverについて。

BLUEの所収であるこの曲、
実はクリスマス・ソングなので、

時期的にはちょっと早い気も
ややしないでもなかったのだが、

いろいろ悩んだ末
やっぱりこれにすることにした。


これも正直に告白すると、
そういう訳で個人的には比較的
メロディー・ラインの
はっきりしている

90年代に入ってからの
Come in from Cold辺りが

すごくわかりやすくて
肌に合いもするのだけれど、

やっぱり最初に触れるのは
アサイラム以前の楽曲の方が
相応しいような気がしたのである。

70年代開幕前後のこの時期に
このジョニ・ミッチェルが

後続のアーティストたちに
及ぼしていた影響は

やはり計り知れないのだろうなと
そんなふうに考えたからである。

このRiverも、開幕から
ジングルベルのモチーフが
絶妙な形で引用されて、

おそらくは彼女自身の
故郷の風景であろう
凍り付いた川の様子が
まずは点描されていくのだが、

それが次第に、
ハートブレイクというか
失恋の物語へと変貌していく。


I wish I had a river――

自分でそう歌った通りに
この作品の後彼女が、
故郷へ引きこもってしまった辺りも

なんとなくその、言葉の方が
むしろ現実に先行して

本人を引っ張っていったような
そんな割と僕の好きそうな
不思議な手触りもそこにあるし、

それに上で触れた
Come in from Coldなんかも
まさにそうなのだが、


冬の景色の感じられるものの方が
どうやら僕は
気に入りがちなようである。

なお、ちなみにこのRIVERも
基本はピアノのみによる
弾き語りのスタイルである。


では小ネタ。

70年代の半ばからこのジョニは
ジャズ/フュージョンの分野へと
傾倒し始めて、

そのジャンルのアーティストたちとの
交流を急激に深めていき、

やがてはあの
チャールス・ミンガスを
テーマにした作品を
発表したりもしている。

そんな流れの中で80年に
SHADOWS AND LIGHTという
アルバムが発表されているのだが、

実はこの時のツアーの
メンバーというのが
ものすごかったりするのである。

ギターがパット・メセニーで
ベースがジャコパス、

キーボードにはメセニーの盟友
ライル・メイズが名を連ね、


さらにはサックスを
マイケル・ブレッカーが吹いている。

80年代の半ば、僕が洋楽に
本格的にはまり始めた時期にはもう

ジャズ・フュージョン界の
ビッグ・ネームだった方々ばかりである。

正直最初にこれを見つけた時には
本当、あっけにとられるというか

何じゃこりゃという
感じだったのだけれど、


だからたぶん、それぞれが
いよいよ頭角を
現わし始めていた時期に、

ジョニを核にする形で
こういう顔合わせが
実現したということらしい。

だからまあ、本当に
この方がシーンに刻んだ
影響というのは

いろんな意味で
計り知れないのである。

いつかもっときちんと
各アルバムをつぶさに聴いて、

いろいろ考えたり
書いたりできればなと思っている。


最後の最後に今回は久々に予告。

次回は一応はそのゲフィンの
アサイラム・レコードの

記念すべき第一回発売作品となった
アーティストを取り上げる予定でいる。