ラジオエクストラ ♭76 Starman | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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ロック史に残る名盤、
ZIGGY STARDUSTからのチョイス。

もちろんボウイ。72年の作品。

ジギー・スターダスト/デビッド・ボウイ

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しかしこのアルバム、
何度聴いても
本当にただものすごい。


確かクィーンの
Bohemian Rhapsody(♯33)を
扱った際にも

似たようなことを
書いたのではなかったかと
思うのだが、


まったく、こっちがまだ
小学校に上がろうかどうか
くらいでしかないような時期に


こんなすごいことやらないでよ、と
いったようなところが
個人的な率直な感想である。


いや、まあ結局はこの意味では
ビートルズもまるで同じことなのだが。


むしろそういうものが、
世界に登場してきたのと
ほぼ時代を同じくして、


自分がこの世に生を享けたことを
喜ぶべきなのかもしれない。

――たぶんそうなのだろう。

ボウイの新作がもう決して
届けられることがないというのは
正直、相当痛烈である。


それでも、
少なくとも幾つかの作品は

僕自身リアルタイムで
追いかけることができた訳だし、


一度だけだが、直接お会いし、
のみならず、握手さえ
してもらうことが叶ったのだから、
たぶん僕は幸運なのだろう。


92年の、
ティン・マシーン時代の
来日時のことである。

先輩に指示され、
日曜日に日本に着いて、


そのまま会社を訪ねてくれた
バンドのために
昼食のサンドウィッチを手配した。


あの当時の自分自身がまだ、
この人の偉大さというものを

十分に理解しては
いなかったことばかりが


今となってはどうしようもなく
悔やまれてしまいはするのだが。



さて、では以下、
本作ZIGGYに関する基礎知識。

ボウイがメジャーRCAとの
契約をようやく獲得した


SPACE ODEITYを起点に数えて、
四枚目に当たるアルバム。


そして、いわゆる
グラム・ロックなるシーンの、
一つのピークを極めたといって
過言ではない一枚である。

のみならず本作、
コンセプト・アルバムとして


ビートルズのSGT.PEPPERS(♭4)の
切り拓いた方法論を
さらに一歩前進させたといっていい、


みたいなことは
たぶん以前にも一度
ここで書いているかとも思うのだが

本作がエポック・メイキングというか、
すでにレジェンドの域に達しているのは、


アルバムの全体が、
ZIGGY STARDUSTなる
架空のロック・シンガーの
一つの物語、すなわち、


異星からの降臨から、
その活動に打たれる終止符までを
過不足なく描き出し、

しかもボウイ自身が、
ステージやプロモーションの場で、


一貫してこのZIGGYなる
キャラクターをあくまでも演じ続け、


さらには一年半後、
突然に自らこのZIGGYの
封印を宣言してしまったこと、

すなわち、あたかも
自身が作品で描き出して見せた
ストーリーの通りに、


現実の物語が、
開始からその終息まで
進行していったという点にある。


虚構の方が先行して世に登場し、
むしろ現実を飲み込んでいく、
あるいは従えさせてしまう。

その類稀なるダイナミズムが、
この一枚には
しかと封印されているのである。


予言的、とまでいえば
いい過ぎになろうか。


いや、確かに意図してできることでは
ある意味では
あったのかもしれないとも思う。

最初からそういう企みをもって
ボウイはこの時まずこの


ZIGGYというキャラクターを
この世界に産み落としたのかもしれない。


もちろんその真偽を
確かめてみることは最早
絶対に叶わなくなってしまった訳だが。

しかしながら、当時のこの
ZIGGYなる架空のアーティストと


彼のバンド、
THE SPIDERS FROM MARSに
向けられていたであろう、
周囲の熱狂を考えれば、


スタッフもオーディエンスも、
それからバンドのメンバーも

とにかく回りにいる誰も彼もが、

この異星からのヒーローに
そのままずっと


この星に存在し続けてくれることを、
望んでいたのではないかと思う。

それでもボウイは、
果断を躊躇しはしなかった。


もうただただ、カッコいいとしか、
形容のしようがないではないか。



そうせざるを得なかった
その切迫感みたいなものを、

僕のいるこの場所からでは、
結局は想像によって
補うしかないのだけれど、


まるで書き始めた小説が、
それ以外の結末を迎えることは
決してできないのだと、
見えてくるその瞬間のようなものを、


このボウイという人は実は、
自身の棲む現実の時間の中に
見つけてしまっていたのではないか。

時にそんな気がして
たまらなくなることがあるのである。



大体★(ブラックスター)が
背負うことになってしまった顛末だって、


今こういうことになって
思い返してみると
ややどころではなく出来すぎている。

ボウイの死が報じられたのは、
同作の発売の二日後である。


ちょっとギリギリに見えることを
承知で書いてしまうけれど、


このアルバムが
チャートのトップにまで昇るためには、

これ以外の筋書きはたぶん
ありえなかったのではないかとさえ
正直にいって、考えてしまった。


同作についてはいずれ近々改めて
きちんとここでも
取り上げるつもりではあるけれど、


ある意味では
まったくもってボウイらしい、
極めて難解な作品である。

ベルリン三部作と同様、
ポピュラリティーとは
違う方向に精力を注ぎこんでいる。


コマーシャルでは決してない。

本当、最後の最後まで、
なんて前のめりな人だったんだ、というのが、
同作を聴いた最初の所感であった。

――しかも、ブラックスターである。

考えてみれば、
ボウイの最後のアルバムに
これほど相応しいタイトルもないだろう。



余談ながら、死のおおよそ一週間前に、
イーノに宛てて送られたメールには、

深読みすれば、
自らの死を予見していたような
表現も見受けられるというから、


なんとなく本当にこの人、
どこかで全部、わかってしまって
いたんじゃないだろうかとさえ
思いたくもなってしまうのである。



さて、例によって
話がすっかり横道に
逸れてしまったようなので、

そそくさとZIGGYに戻ることにする。

改めてこのアルバムが傑作なのは、
そういう架空の人物の評伝ともいうべき


縛りというか、バックボーンを、
全体に持っていながらも、

個々のトラックが
まったくといっていいほど
そこに依存しきることがなく、


単独できっぱりと成立している、
それどころかむしろどの一つもが、


シングルカットに耐えられそうなほど、
よほどきちんと立っているところが、

とにかく他の追随を
決して許さないのである。


ありていな表現をしてしまえば、
捨て曲が一切ない。


だから、それこそ
ZIGGYのベスト盤みたいな
手触りなのである。


とりわけラストへと向かう四曲の
盛り上がり方はただすさまじい。


ロックとバラードの間で
絶妙に振り子を揺らしながら、


終幕にこれほど相応しい曲は
ないだろうという、
Rock’n’Roll Suicideへと
物語が収束していく。

本当、絶句するしかないのである。


だからたぶん、このアルバムの
代表曲ということになれば、


コンセプトの中心であり、
タイトル・トラックともいえる

Ziggy Stardustに
普通はなるのだろうと思う。


だけど、個人的に
一番好きだなあ、と思うのは、
やっぱりこっちなんだよねえ。


一応今回標題にした
こちらのStarmanも

アルバム発売と同時に
シングルとしてもリリースされた、
いわゆる
リーディング・トラックの位置にある。


ところが、そもそもはこのStarmanは
前作HUNKY DORYの
いわばアウト・テイクだったらしい。


はっきりいって個人的には
え、なんでこれ落としちゃうの?
くらいな感じなのだけれど、

それでも結果としてみれば、
このStarmanにとって、


ZIGGYの四曲目収録という
現状のポジションよりも
相応しい場所など


ほとんどといっていいほど
見つかりはしなさそうである。

いや、でもこれ僕、
本当に大好きなのである。


どこにもつけ入る隙がない。

たとえばサビに入る直前の、
ブレイクを支えるギターなど、

なんというか、ものの見事に、
電波チックだったりする。


――この音色、この弾き方。

そしてこれが、
このStarmanというトラックが、

浮き彫りにしようとしているテーマと
寸分の狂いも見せずに
合致しているのである。


神は細部に宿るとは
たぶんこういうことをいう。


前奏のコードだって、
極めて複雑である。

この音色だからこそ聴ける。
そういう部分が確かにある。



でも極めつけはやはり
あのサビのラインであろう。


Let the children lose it
Let the children use it
Let all the children boogie


子供たちにそれをなくさせてしまえ
むしろ利用することを覚えさせよう

そしてすべての子供たちを
踊らせてやろうじゃないか


なんでこんな詞が書けるかなあ。

このitが本当は何を指すのかが、
たぶんこの曲のキモである。



曲中のStarmanは空の上で
延々と「待ち続けて」いる存在である。

そうしてある夜、ラジオに紛れて
主人公に話しかけてくる。


でも彼は、
自分がじかに触れてしまえば、


相手の心を吹き飛ばして
しまいかねないことを懸念している。

それでも君たちが、
火花で合図を返してくれれば、


自分はきっと地上に降りて
いけるだろうとも口にする。


そしてこの話者=ボウイは、
このStarmanを書くことによって、

結果として本物のStarmanへと
合図を返してしまったことに
なったのではないかと思う。


かくしてStarmanは
ついにボウイの元に降りてきて、
彼に入り込み、彼と同一化を果たし、


そこでZIGGYという
新たな名を得たのではなかったか。

だからつまり、
このStarmanが
書けてしまったからこそ、


ボウイはZIGGYなる存在を生み出し、
その新たな人格と同化しなければ
ならなかったのではなかったのではないか。


個人的には実はそんなふうに
捕らえていたりもしたりする。

すなわち、ZIGGYの物語のすべてが、
実はこのStarmanを起点に
始まっていたのではないかと思うのである。



なお、このStarmanは
僕がここまででたぶん唯一、


自作の中で引用している
ボウイのトラックだったりする。

まあおそらく、そのうちまた
必ずやるだろうとは思うけど。


それがどの作品かは、
たぶんわかる人にはすぐわかって、


きっとにやにやしているだろうと思うので、
あえて今回は書かないけれど、

でも子供たちが踊るあの場面が、
実はこの曲をそもそものヒントにして、


作られているのだということは、
こっそり告白しておくことにする。



でもねえ、本当、
たぶんこのitってやつは、

間違いなく宇宙の方から
やってくるんだと思うよ。


個人的な体験も踏まえて、
つくづくそう思わせられる場面が
ここまで決して皆無ではないもの。


相当アブなく見えること
承知で書いちゃってるけどさ、

でも、おそらく真理だろうと思う。

僕ごときではまだ
上手く言葉にできないところが、
正直ひどくもどかしいのだけれど。



なお、本作のほかの収録曲についても、
また機会を改めて、
ここで取り上げさせて戴くつもりでいる。

では今日のところはこの辺で。