皆さま、おはようございます!
前回のブログで、軍事施設と関りを持つ歴史がありそうな
日豊本線・五十市駅の訪問記をUPしましたが、
今回は間違いなく、軍事施設と密接な関係を持った駅の訪問記です。
この街に、こんな悲しい歴史があったことは
駅を訪れるまでまったく知りませんでしたよ。
愛知県の豊川市内にあるこちらの駅でした。
名古屋鉄道豊川線・諏訪町(すわちょう)駅です!
豊川線は名鉄名古屋本線とここを結ぶために敷設された路線。
諏訪町駅が昭和20年に開業してから9年間はここが終点だったそうですよ。
諏訪町駅は単式ホームがあるだけの簡素な構造の駅でしたが、
ここを終点とした路線が敷設された理由とは?
その件については後ほど触れることにしまして…
諏訪町駅の特徴と言えば、何と言っても特異な駅構造でしょう。
一言で言うと「細くて長い」の。
駅舎&ホームの断面はこれしかないのですが、
ホームは6両編成の電車が停車出来る長さを持つため、
この様相の構内がひたすら奥まで続くのですよ。
ホームの途中で上屋が切れてる箇所があったりして…
こちらが西端側(国府駅寄り)にある出入口です。
諏訪町駅は、先ほど見た東端側(豊川稲荷駅寄り)の出入口と合わせて
2か所の出入口を持つ駅でした。
この東西2か所ある出入口は仕様が異なっており、
西口は自動券売機がなくスロープも設置されてません。
そしてそして…名鉄豊川線でメインで運行されてる2両編成の電車は
はるか遠くの東口付近に停車します。
それを知らずにこの場所で列車を待つと、
奥に見える東口まで80メートルダッシュしなければなりませんので
注意が必要ですぞ。
2つの出入口は近いように見えますが、実は結構離れてます。
諏訪町駅を離れる際に多くの乗客が東口で待つ中、
自分独りで西口で待ってて恥ずかしい思いをしたのですが…
「そこは列車が停まらないよ」と誰か教えてくれよ~
東側出入口にのみ設置されてる自動券売機を眺める。
東口に設置されてるスロープです。
こう見ると、諏訪町駅ってホントに細長い駅ですよね。
さてさて、冒頭に書いた諏訪町駅が開業した経緯についてです。
諏訪町駅の北側約1.5キロの地点には戦前、
戦闘機の機銃を生産するための
豊川海軍工廠(昭和14年開廠)がありました。
開廠当時は従業員数約1,500人規模だった豊川海軍工廠ですが、
太平洋戦争が始まると規模の拡張を重ね、
最盛期の昭和20年時点で
従業員56千人を抱える国内第一の規模を持つ工廠に変わったそうです。
そんな工廠への工員輸送を目的に開通したのが名鉄豊川線とのこと。
こちらは戦後の昭和23年に撮影された航空写真ですが、
行き止まりの線路が写ってるのがわかりますでしょうかね?
写真に写り込んでる小さな建物は駅舎?
豊川海軍工廠は画像の上方向(北側)にありました。
こんな経緯から、名鉄豊川線の終点として
昭和20年1月27日に開業した諏訪町駅でしたが、
その後、豊川市民にとっては忘れられない出来事が起きまして…
昭和20年8月7日に131機のB-29が飛来、
豊川海軍工廠に約800トンの爆弾を投下(豊川空襲)、
この空襲により約2,500人の工員の命が奪われたそうです。
上にUPした航空写真の工廠付近、
全壊した建物が写っているのはそれが理由だったのですね。
豊川稲荷では命日である毎年8月7日に
慰霊祭(みたま祭り 盆踊り)が行われているそうです。
そして豊川海軍工廠の跡地は現在、
日本車両製造豊川製作所等々が建ち並んでいるわけで…
他にも平成30年に「豊川海軍工廠平和公園」がオープンしたそうですので、
来月の名古屋訪問の際には立ち寄ってみたいと思います。
そうそう、それと忘れちゃいけないのが諏訪町駅の立地。
2本の道路に挟まれた場所に諏訪町駅があるのですが、
名鉄豊川線が開業当時、市内線(路面電車)の規格で敷設された
名残りだそうですよ。
路面電車ちっくな光景が楽しめるのも豊川線の魅力ですよね。
名鉄豊川線で唯一、交換設備を持たない駅でした。
その代わりと言っちゃなんですけど、
諏訪町駅の西側に列車を行き違いさせるための
諏訪新道信号場が設けられてます。
昭和47年に八幡駅が開業して駅の機能が集約させるまでは、
ここも駅として旅客営業を行っていたらしい。
そんな信号場の様子をこの後に眺めてきましたよ。
長くなりましたので次回に続きます。
(次回のブログもチェックくださいませ)
国府駅
八幡駅(平成31年1月20日)
諏訪町駅(平成31年1月20日)
稲荷口駅(平成31年年1月20日)
豊川稲荷駅(平成29年12月29日)
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