タイトルの話題に入る前に、昨日の補足を。

明治村にある金沢監獄の話を書きましたが、
実はそこからやや離れた場所には金沢監獄の正門部分が別途残されています。
それがこちら。

 

建築家の矜持を感じさせるこの威風堂々たる門。
特色は、内側と外側で、装飾の差が著しい点。
外側ははこのとおり、かなり装飾的で表面がでこぼこ。
しかし、内側は装飾なし、凹凸一切なし。

そう、足掛かりとなって脱獄されてしまうから。

内側は無理でも、外側だけでもせめて目いっぱいデコラティブにしよう、、

そんな発想は現代にはなさそうだなぁ。

 

 

なお、監獄部分については明治村に保存されているのは看守所・監房の一部分のみ。

 

 

これを全体図の中で見てみると、こんな具合↓

当該部分はこんな小さな赤色部分のみ。

広大な敷地に広がる建物のごく一部に過ぎないのです。

下の図の下方に監獄全体像の模型写真があります。

この模型、普段はここに置かれているものの、訪問時は谷口吉郎・吉生記念金沢建築館に

貸し出し中でした。

(谷口吉郎は明治村創造の提案者のひとり。)

 

 

 

監獄内には、前橋刑務所の全体写真もあり、こうした放射線状(あるいは片側放射線状)の

配置がスタンダードだったようです。

 

 

 

昨日見た通り金沢監獄には、網走監獄で使われていた見張り所が設置されていました。

さらに上記のように前橋刑務所の写真も置かれています。

つまり、実際の建物に即した遺物だけでなく参考になる資料を、他の施設などから
かき集めている、それが明治村のひとつの特色だと感じます。

 

それが証拠に、明治村内旧帝国ホテル中央玄関の建屋の中には

行ってびっくり、明治38年ポーツマス条約締結の際使用されたテーブルが置かれていました。

 

 

別に帝国ホテルで調印したわけではありません。

もちろん調印場所はポーツマス(具体的には米ニューハンプシャー州ポーツマスの海軍工廠)。

なぜこんなところに?

答えはこちら:

 

 

日露戦争終結のための講和会議・ポーツマス条約というのは確かに明治期の

ひとつの大きなイベント。帝国ホテルの場を借りて、このビッグイベントを

振り返ろう、というわけです。

 

実際、この一角には、単にテーブルが置かれているだけでなく、

さまざまな関連資料が提示されています。

 

 

 

 

 

条約調印所の冒頭と最終頁のコピーもあり、

こちらは最終頁。
小村寿太郎(写真右上のサイン)、高平小五郎(写真右下のサイン)、ウィッテ(写真左上のサイン)、ローゼン(左下)の4名のサインがありました。

明治期の日本人にしては、なかなかこなれた感じの英文サインを書いているなぁ。

 

 

 

テーブルにはこんなプレートもついていたとのこと。

訳が書かれており、「1905年9月5日火曜日午後3時47分、日本とロシアの使節により「ポーツマス条約」が調印された講和会議のテーブル」と。

 

それに基づきこの癖のある英文を書き下してみると、こんな感じかな:

The Peace Conference Table
on which The Treaty of Portsmouth was signed
by the Russians and Japanese Envoys
3.47.P.M. Tuesday September 5. 1905




幅が狭く、ビリヤード台を長くしたようなこの細長いテーブルに

双方使節が対面しています。

テーブルをはさみ両国代表が1か月近く交渉を重ねポーツマス条約が調印された、

と説明文に書かれています。




似たような角度で撮ってみました。



 

 

時代を映す資料としては、さらにこんなものもありました。

帝国ホテルで使用された食器かと思ったらさにあらず。

金谷ホテルで明治期に使用された食器類。

復旧された建物を博物館のごとく利用することで、時代の断片を拾うことができます。

 

 

 

保存中の建物を、博物館のように利用しているのも、明治村の特色です。