年 末 雑 感
平成20年という年も、愈々終わりに近づいた。やはり年末というのは前々から侘しいが、特に今年は不況の色が濃いので尚更侘しい。
年が変わると私は79才になる。既に後期高齢者であるが、それに一つ輪が架かることになる。我々が子供であった頃に比べると、今の時代は年寄りの割合が増えているであろうから、そして昔に比べると社会保障も充実しているから、それらを背負わなければならない、今の時代の政府と国民は大変である。
昔の政府と国民は戦争とその敗戦で、大変な思いをした。しかし時代は変わっても国民一人一人が負担する税によって国家は維持される。
その意味では我々生産性のない高齢者は、せめて社会の発展の足を引っ張ることのないように心掛けねばならないが。
我々が生まれた昭和一桁の頃は、やはりアメリカの株の大暴落から始まった世界的な大不況で、我々親の世代は大変な苦労をした。そしてその大不況からもたらされた国際的な各国間の軋轢が、第二次世界大戦の一因になったとも言われている。
昔から〝歴史は繰り返す〟と言われている。果たしてそうなのかどうか?。しかし来年から本格的になるであろう世界的な大不況も、その発端は又しても〝アメリカの株の大暴落〟即ち〝金融政策の破綻〟からである。
今現在の働き盛りの人たちの失職。そして若い人たちの無職。これから先、我々高齢者は、せめて社会の邪魔者にならないように、務めなければならないが。
昔の人の歌に詠んで曰(いわ)く、
〝門松や冥土の旅の一里塚 目出度くもあり 目出度くもなし〟と。
電 子 マ ネ ー
今日の新聞に〝電子マネー〟のことについてある大学生からの、次のような投書が載っていた。
〝先日、駅で塾帰りの小学生が慣れた感じでJR東日本の電子マネーにもなる「スイカ」を使い、ガムを買っていた。何げない光景だがふと疑問に感じた。
親が入金したカードであれば、その小学生はお金に触らずに買い物が出来てしまう。物を買う経験が浅い小学生からすれば、カードを見せるだけでガムが貰える、という感覚にもなりなねない。これではお金の有り難味が分らず、金銭感覚が養われないのではないか。
私は小さい頃、お金は働いて稼いだもの、大切に扱えと教わった。小遣いを貰い、喜びながら欲しかった文具を買ったこともある。小さい頃のお金にまつわる記憶は、大人になっても残る。
防犯の面で現金を持ち歩かせない親もいるだろう。私自身も電子マネーを尊重して、小銭を持つ機会が減った。しかし小さい頃は、お金を触らせる環境にし、小銭やお札の価値を学ばせた方が良いはずだ。便利なことは何時でも学べるのだから〟
これは21才の男の大学生の投書だが、失礼だな、と怒られそうだが、今の若い学生にもこのように〝正論的な感覚を持っている〟人が居ることに感ずるものがあったので、ブログに掲載させてもらった。
つい先日半年ぶり程であったが、出かける用件があったので久し振りで電車に乗った。しかし、もう、券売機のところでマゴついている。
隣にも後ろにも人が並んでいる。年寄りが財布を握り締めて、上を見たり横を見たり、切符が出ているのにヤタラにボタンを押している。
〝もう、完全に時代遅れだナァー〟と思った。
家へ帰ってから、その事を倅の嫁さんに言ったら、「こんど電車に乗るときは、オトゥチャンのスイカを借りて行ったら」と言われたが、そうかも知れない。(スイカと言われても、西瓜、と思う年寄りの方が多いと思うが)
しかし、大学生が言うように〝子供が手にする機会がない現金の、使い方が分らない〟という時代になってしまったら、それでもいいのかな、とも思うが。
あ と が き
私の写真集『海軍兵学校』撮影のため江田島を訪れたのは、第二次世界大戦初期の昭和17年春から夏にかけてのことであった。そのとき何かと面倒をかけ、お世話願ったのは、今は亡き教官田辺清治大尉であった。四国の今治に近い大井海岸の幕営地で話し合ったときに、「皆張り切って愉しくやっているが、このまま戦争がつづけば、2・3年でみんな死んで逝くんだよ・・・・」と、いつもの青年士官らしい闊達さに反して、しんみりと感慨深げにつぶやかれるので、沈んだ気持ちを引き立てようと『その時には私が遺書をまとめますよ・・・・・』と、冗談にまぎらわしたことを、今も昨日のことのように覚えている。ところがそれが冗談で終わらなくなり、悲しい現実となって、ここに一書をまとめることになった。
戦後、色々な方面から入手した遺書をコピーして保存するように努めてきたが、今回、思いがけない厚意によって届けられた遺書2000余通、机上に積み重ねて花を供え、香煙をくゆらして、一通、二通と芳名を繰っていくと、あの人もあり、この人もあって、海軍で過ごしたのは僅か3年余の月日に過ぎなかったのに、在りし日の名が次々に記されていて、当時の面影が生き生きと甦ってくる。
途上で行き会い「クラブへ遊びに来ませんか!」と、誘われるままに古鷹山麓にあった、旧家の座敷で、名物の江田島羊羹や、白い大きな「握り飯」をご馳走になった記憶は鮮やかだが、その時の一号生徒(最上級生)が、桜花特攻第一号の三橋謙太郎大尉(71期)であり、その時の動作までが昨日のことのように浮かび上がってくる。
江田島で特に印象に残っているのは、回天特攻で散華された石川誠三中尉である。兵学校での撮影は、演出的な方法を極力避け、あるがままの自然な姿を、あるがままにレンズの眼で把握し、描き出したいと考えていたが、長焦点レンズによるクローズ・アップなどでは、技術的に無理なこともあった。
夏の日焼けした肌に光る水滴のアクセント、これは健康の象徴であり、フォト・ジェニックでもあるが、海からあがると、まず手で顔をぬぐうのが、人間の習慣でもあるらしい。そのため、二度・三度と、海中での演出撮影を繰り返すようなことになったが、目に海水がしみるのも我慢して無理な注文にも快く応じられたのが、ここに掲げた石川誠三中尉の2号生徒時代の写真であり、、大井海岸における幕営地でのスナップである。
特攻隊員といえば、何か猛々しく、神経の太い豪傑肌の人が多かったように思っている人もあるようだが、私の知る限りでは、むしろ反対のようであり、こころ優しく温かな愛情の深い人が多かったようだ。
人間魚雷〝回天〟の創始者の一人であり、自ら回天に乗り組み、第一次攻撃で散華された仁科関夫中尉が、最後の別れに大阪の自宅に帰られたときの様子を、母堂の仁科初枝様が、海軍兵学校71期のクラス会誌に執筆されているので、其の一部を請うて転載し、仁科中尉の人柄を偲ぶよすがにしたい。
『夜10時過ぎに玄関に強いベルの音がする。直感的に〝関夫だなぁ〟と思って戸を開けたら果たしてそうであった。深くマントをかぶっていたのをぬいだら長い髪、どうしたのかと聞いたら、忙しくて散髪の暇もないらしくいう。父親が郷里の信州に行って留守である、と言ったら淋しそう。
電報で知らせても、関夫が帰る時間までに間に合わぬとのことで止めにした。物の不自由なあの頃、関夫が帰った時のためにと、北海道から送ってきていた鰊やら信州の干物等をとってあったのを料理して、配給の酒で弟等も交えて夜食を共にした。
夕食をまだ済ましていない関夫にしてはあまりに食が細い。「どうしたのか?」と聞くと「関夫も、もう大人になりましたから、そんなに大食ではなくなった」等と申していました。後で思うと、胸が詰まって、食事も通らなかったのかなぁと想像しています。
当時神戸に居た姉にも、小・中学時代の先生や友人の名等も申したり、観心寺へ疎開していた小学6年の弟にも、皆会って見たいとも申しつつ皆「時間がないから、この次に帰った時に会うことにする」と、申していました。
その頃始まった神風特攻隊の話などを私がして、戦局の事を聞いても一切無言。私は本当に壮烈な事であり、愛国の至情ではあるが、若桜が散って行くことをとても辛く思う。必死でなくて決死で勝てないものなかなぁ、と申しても無言であった。結婚という事について、あの頃は危ない戦場に行く人にも世話をして下さる方もあった。そんな話しもしたが、今は非常に忙しいから全て次の帰省の時にしましょう。と申し、私が作ってやった握り飯を持って、見送ってあげるというのも断って出て行ったのは、4日の午前中であった。
後でだんだん人の話を聞くと、小・中学校の頃の家の周りやら学校附近等で、髪の毛の長い関夫さんに会った、とのことであるから、一人でぐるぐる回って大津島に行ったのかしら?と思っている』(以下略)
仁科中尉が自宅を訪れたのは、昭和19年の11月3日から4日にかけてだが、4日後の11月8日には、回天と共に母艦の伊号潜水艦に乗り組み、ウルシー海域に向かって大津島から出撃している。また母堂が特攻々撃や戦局について話しかけても、一切無言・・・・のあたりには、海軍々人らしい厳しさを感じさすが、母や弟に別れを告げて一人になり、少年時代を過ごした自宅の周辺や学校附近を歩き回って、往時を追想し永久の別れを告げたであろう辺りに、仁科中尉の人間的な感情の綾が強くにじみ出ているのであり、こうした事は他の遺書の数々にも強く現れている。
死に望んで先ず家族の健康を案じ、弟・妹の教育を配慮し、死後に紛争が生じないよう心を配って借金や女性関係、家計のことまで、事こまやかな心遣いをしている人が多かったようだ。また戦友と共に勇躍出撃したが〝回天〟の故障のため、壮途むなしく再び基地に帰還する友を案じて、突入直前に基地の人達に依頼の手記を残した久家稔少尉の文字など、至純の愛の深さを強く感じさせるのであり、死を賭けて殉国の誠を捧げた特攻隊のいさおしを讃えるだけでなく、彼等若人達の至高の精神を深く味読して欲しいと思う。
ともあれ戦後4半世紀、時点の異なる今日の若人達にとっては、特攻隊の行動は理解し得ない人もあるようだが、局限の境地において書きつらねた人間記録には、胸うたれる人も多いと思う。そのため本書では、2060余名の特攻隊員が残された遺書の中から、人間性のにじみ出たもの・・・・を主眼に選び、掲載させて戴くことにした。
ペンを擱くに当って、特攻隊員の御遺族はもとより、回天顕彰会、海軍兵学校71・72・73期のクラス会の皆様をはじめ、野村実・押本直正・小灘利春の三氏には、何かと御助力いただき有難いことだと思っております。
又記事執筆には、特殊潜航艇については後藤脩氏、「あゝ特別攻撃隊」の北川衛氏、「神雷特別攻撃隊」の三木忠直、細川八朗両氏の記述を参考にさせていただき、遺書の浄書は佐藤嘉躬君の助力を得ました。ここに記して謝意を表します。
なお遺書の朗読によるレコード化を企画し、本書上梓の機縁をつくられた日本クラウン社の厚意に対して感謝し御礼申し上げます。
真継不二夫
この写真集は昭和39年12月に東京の大泉書店によって発行されている。私はこの写真集について昭和40年の頃、真継氏に問い合わせをして二度葉書でご返答を頂いた。お陰でこの写真集を手に入れることが出来たが、地元の書店からの注文では〝在庫なし〟という返事であった。
真継氏は戦時中の昭和18年?の頃に最初の兵学校についての写真集を出されている。その頃は〝海軍の学校の写真集〟であったので、表紙の下の方に〝大本営海軍報道部監修〟という文字が入っており、〝海軍兵学校〟という表題は表紙の左側に印刷されていた。
真継氏は17年の頃から海軍の委嘱をうけて海軍の諸学校の写真を撮っていたようで、為に敗戦後はGHQによる〝家宅捜索〟まで受けたそうで、真継氏は、それらのネガを地中に埋めて没収を免れたという。
表紙の二人は〝左・小島 威、右・八島準二の各中尉 〟で、仁科中尉と同期の71期で、共に台湾沖で戦死したという。(再度71期生は昭和14年の採用で581名のうち、その57%が戦死されている。そして前記のように我々78期生の分隊監事として指導教育に当られたのも、71期の方々であった)
これは兵学校内の〝教育参考館〟
の前で撮られた写真と思われるが、
そしてこの生徒の人は、その風格から
も1号生徒(71期)とも
思われるが。写真集には生徒の氏名は付
記されていないが、この人が戦死され
たか、どうかについては
不明である。(上掲の写真集より)
こちらの生徒の人も、やはり
1号生徒と思われるが、これは
教育参考館の中の東郷元帥の
遺髪に礼拝しているところであろうと
思われるが。
やはりこの生徒の氏名も、戦死
されたかどうかについても、
不明である。(写真集より)
以上、真継不二夫氏が編者として昭和46年9月に発行されたものを基とした、〝海軍特別攻撃隊員の遺書〟を終わりとする。
文中、ご遺族の方、又は関係者の方々で、ご不快に思われた点も、在るや、とも思いますが、私が知り得た事のみを記しまして他意は全く在りませんので、ご理解の程、お願い申しあげます。
改めて、特攻隊員として散華された方々と、真継不二夫氏とのご冥福をお祈りして終わりと致します。 合掌
最後の遺書
海軍特別攻撃隊に関する最後の遺書は、奇しくも特攻隊の生みの親として知られ、最初の指揮官でもあった大西瀧治郎海軍中将の遺書だと言ってもよい。
終戦時には、海軍軍令部次長の要職にあり、終戦の勅語が放送された8月15日の夜は、若手部員を官舎に招いて深厚まで話し合っていたが、翌16日の未明、日本刀で腹一文字に掻き切って自決された。
副官が気付いて駆けつけると、未だ意識はあったようだが、『治るようにはしてくれるな』との言葉だけで他には一言も語らず、其の夕方の6時、遂に絶命された。
あとに残された遺書には、
特攻隊の英霊に申す。善く戦いたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れども其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾れ死を以って旧部下の英霊と其の家族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ、
吾が死にして、軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に添い奉り、自重忍苦する誡めとならば幸いなり。隠忍するとも日本人たるの矜持(きんじ)を失う勿れ。
諸子は国の宝なり。平時に処し猶克(なおよ)く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を尽くせよ。
とあった。
(大西瀧治郎は結婚はしていなかったようだが)
最後の特攻機
かくて殉国の誠をもって死地に赴き、海に空に散り去った 海軍特攻4379名の英霊に続いて、最後の特攻としてピリオドを打つことになったのは、電波によって終戦の詔勅が伝えられた直後であった。
それは緒戦劈頭パールハーバーの攻撃には、連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の参謀長として、また南太平洋ブインの基地に向かう長官機に随行して敵機の襲撃を受け、山本長官は戦死、参謀長は重傷の悲運に見舞われ、その後は第5航空艦隊司令長官の任務にあった宇垣纏海軍中将搭乗の特攻機であり、他に随行不許可の令を押し切って大分から進撃した艦上爆撃機11機のうち、3機は故障のため途中不時着したが、残る8機が長官機と共に沖縄に進攻した敵機動艦隊に向かって進撃して征ったのが、最後の特攻機となった。
途中の行動は、長官機に同乗している遠藤飛曹長から次々に基地へ打電してきたが、突入直前に長官は、各部隊に対して、訣別の辞の発令を打電させた。
『過去半歳に亘り各隊将士の奮戦にも拘わらず、驕敵を撃砕、皇国護持の大任を果たすこと能(あた)はざりしは、本職不敏の致すところなり。本職は皇国の無窮と天航空部隊特攻精神の昂揚を確信し、部下隊員の桜花と散りし沖縄に進攻、皇国武人の本領を発揮し、驕敵米艦に突入轟沈す。指揮下各部隊は本職の意を体し、あらゆる苦難を克服し、精強なる皇国の再建に死力をつくし、皇国を万世無窮たらしめよ。
大元帥陛下万歳』〈この電文を読むと宇垣長官は、既に日本の敗戦を明確に知っていたことになる〉
長官機は一九二四(午後7時24分)、敵艦に突入、続いて7機もそれぞれ沖縄の敵艦隊に突入の無電を放って、遂にその後の連絡を絶った。
(しかし実情は、一番機の隊長であった中津留大尉〈海軍兵学校70期〉が、沖縄の伊平屋島に達した時には、米軍の基地では電灯を煌々と点けてパーティーの真っ最中で、これによって中津留大尉は既に戦争は終わっていることを認識し、〈中津留大尉も14・15日と空襲警報も何もなかったので、?とは思っていたらしい〉後部座席の遠藤飛曹長にその旨を各機に打電させて、爆弾を海面に投下をしてから、同じく後部座席に遠藤飛曹長を抱くようにして同乗していた長官に、『長官突っ込みます』と伝声管で伝えて、近くの岩礁目がけて突っ込み、他の7機もそれに倣ってそれぞれに海岸や海中に突っ込み、日本海軍の特攻は終わりを告げたのであった。〈これで日本海軍の特攻は、一番手も70期の関大尉、最後はこれも70期の中津留大尉となって、奇しくも最初と最後を同期のホンチャンが隊長として締め括ったことになった〉〈そして中津留大尉以下全機が突っ込んで果てたのは、発進直前に500キロの爆弾を800キロに変えたので、其の増えた重量分をガソリンを抜いて調節をしたので、帰りの燃料は元々無かったからだという〉
結果的には、この中津留大尉の決断によって日本海軍は、戦争が終わった時も〝騙まし討ち〟をしたと言われなくて済んだわけだが、しかし、日本が敗戦の受諾をした後の死であった為に〝戦死としては扱われず事故死扱い〟となったことは残念なことであった。
戦後100才まで生きた中津留大尉の父親は〝一人息子を宇垣に殺された〟と言い続けたそうだが無理もない。当時大尉には奥さんも居て生まれたばかりの子供さんも居たという。司令長官という一人の人間のエゴによって、死ななくてもよかった者まで死んだ。特攻の責任をとりたかったら、大西瀧次郎のように、独りで死ねば問題はなかったと思うが)
なお宇垣長官が沖縄に向かって発進して征った時には、連合艦隊からの作戦中止の命令は未だ到達はしてはいなかったが。
これが宇垣長官が後ろの特攻機〝彗星〟に乗って発進する直前の写真である。既に襟の階級章は剥ぎ取られている筈であるが、この写真では判然としない。
この日、昭和20年8月15日正午には、天皇陛下のボツダム宣言受諾即ち〝降伏〟の放送があったわけだが、飛行場に居て其の放送を聴いていなかった多くの士官・下士官・兵の人達は、其の事を知らなかったらしい。当然に宇垣長官は知っていた筈だが。なにかこの写真では宇垣長官は、すこしばかり笑みを含んでいるように見えるが。それは今迄自分の命令で、数多くの若い者を死なしてしまったことに対して、今度は自分が死ぬことで〝彼等に詫びが出来る〟という安堵のための笑みであったろうか?。
前にも書いたがあの当時私などは、山口県の防府の分校の病室でアメーバー赤痢の為に寝ていたが、14日の午前中に空襲の警戒警報が出ただけで、その後は毎日飛んで来たB24による空襲警報もなくて、そしてその夜も次の15日の午前中も警報もなくて、全く静かなものであった。前の日の夜〝下士官の人が明日で戦争は終わりだと言って居る〟という話が病室にも伝わってきたので〝ホントならいいな〟と思ってはいたが、正午には〝なにか判らない放送はあった〟が、現実には敵機による空襲がなくなったのであるから、やはり〝戦争は終わった〟事を実感できて、すっかり安心出来た訳であったが。
海軍特別攻撃隊員の遺書 (水漬く屍) 37
海軍大尉 関 行男
(第1神風特攻・敷島隊、大正10年8月29日生。海軍兵学校70期。昭和19年10月25日、タクロバン沖の敵空母に突入し戦死。23才)
西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけ致し、不孝の段、お許し下さい。
今回、帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐるものはありません。
鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、其の御恩に報ゆる事も出来ず征く事を、御許し下さい。
本日帝国の為、身を以って母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に
父上様 行男
母上様
教え子へ(第42期飛行学生へ)
教え子は 散れ 山桜 かくの如くに
○関行男大尉は、兵学校の70期、昭和13年に433名が採用されその66%が戦死をしたクラスであった。そして関大尉は第一次神風特攻・敷島隊の隊長として敵艦に突っ込み、名誉の戦死を遂げ2階級特進で中佐となって軍神とされた人であった。
その関大尉の事が一番後になってしまった。それは次のように関大尉について書くことが多かったからであった。
私が関大尉のことについて?と思ったのは、昭和の44年か45年の頃ある書店の店頭で、〝丸〟という月刊雑誌に関大尉の事が書かれていて居るのを見て読んだ時からであった。
それはフィリピンの陸軍の特攻隊の基地で一人の隊員の人が、其の基地から特攻隊が撤退をするについて、大忙しの最中に、海軍の特攻隊員であった関という人に会ったという内容の記事であった。
その内容は、海軍の飛行服を着て飛行帽も被っている人が近づいて来て、撤退の事で二・三話のやりとりをした後で、『俺は海軍の関だ』と言い『特攻で出たがエンジン不調で不時着した。今更帰るわけにも行かんので、何処か死に場所を探さねばなるまい』と言って立ち去ったという内容で、その時その関という人の飛行服の標識や記章などは全部剥ぎ取られてあったという。
この記事を読んで私は〝フーン!なんだこれわ?〟と思った。しかし嘘でこんな記事を書いても、なんの得にもならないが、でもこの記事を読んで〝成る程そうだったのか?〟と思う人も居ないだろうとも思った。関大尉は特攻で敵艦に突っ込んで壮烈な戦死をして軍神になっている。しかし陸軍の特攻隊の人も自分の名前まで出して、嘘の記事を書かせる必要もなかったろうとも思ったが。そして確か発行所は光人社だと思ったが、光人社も〝何かしら真実さを感じさせるものがなければ〟記事にするわけがない。しかしあの時点では、到底其の記事の内容を信ずる気持ちにはなれなかったので私は読み捨てた。
後になって〝失敗したな、買って置くんだったな〟とは思ったが。
しかし其の後昭和48年にはグァム島で横井庄一氏が発見され、さらに其の翌年にはルバング島で小野田寛郎氏が救出された。そして其の後フィリピンのある島で、島民とは違う長身の男が云々という新聞記事があって、当時の厚生省は捜索隊を編成をして一応の捜索はしたが〝島民の情報の確度が低い〟として捜索は打ち切りとなった。
私は〝まさか関大尉が?そしてそんな馬鹿な!〟とは思ったが。
最近になって、あの頃の陸軍の特攻隊はどうであったんだろうかと思って、〝隼のつばさ・宮本郷三著・光人社〟を検索で出して買って読んでみたら、なんとその146頁の所に〝軍神は生きていた〟という見出しで、著者が関大尉と会った時の状況が書いてあったので、まさにビックリ仰天であった。次はその概要である。
其の時期は昭和20年の1月の11日以降になる筈だと言う。その日著者を含む4人は、公園の芝生の上に座り込み、マニラから脱出のために、マニラを出て行く車は来ないものかと四方八方に目を配っていたという。
突如前方に一つの人影が現れたという。そしてその人影は静かに近づいて来たという。4人は一様に奇異を感じて其の人影を凝視したという。その人は長身で整った顔をしていて、海軍の飛行服を着て飛行帽までかぶって居たという。しかし階級章も付けていないし軍刀も持っていなかったので軍属の人かと思ったら、その人が著者に向かって
『俺は関だよ』と名乗ったという。
一瞬〝関?〟っと思ったが、『関大尉殿ですか?、あの神風特攻隊の・・・・』と聞いたら、その人は嬉しそうに『そうだ』と答えたという。
著者は驚きのために暫らくの間、口がきけないでいたら、それと察して関大尉なる人が、話してくれた内容は次のような事であったという。
『俺は確かに攻撃目標を発見して、急降下をした。そして無意識のうちに爆弾の投下ボタンを押した。その後は目標すれすれに離脱したが、機関をやられていたので、近くの島に不時着した』と。
そしてこうも言ったという。『そのうちに戦果もデカデカと発表にもなるし、今更201空に還るわけにもいかないし・・・・。今の俺は所属部隊もないし、階級もない。言うなれば幽霊だよな・・・・』と、そしてハハハ・・・・と淋しそうに笑ったという。
著者はその時〝これは本物の関大尉に間違いない〟と確信したという。話の内容はつじつまは合うし、第一こんな時期に、何もわざわざ嘘を言うために人前に出てくる人間などいるわけがない。
著者の言う、関大尉の話は以上のようなものであるが、著者は思い切って、これから先どうするのか聞いてみたら関大尉は次のように言ったという。
『そうさなぁ・・・。まさかこのまま生きているわけにも行くまいし・・・・。そのうち何処かに死に場所を求めて、其処で死ぬよ』と。
そして『陸軍の佐々木伍長も生きているよ』とも言ったという。佐々木伍長とは陸軍特別攻撃隊万朶隊の一員で4度の生還を繰り返したことで有名であった。関大尉は当時其の事を知っていたことになる。
そしてこの著者は、戦場には常に誤謬と偏見が付いて回るのが常であるから、敵の戦闘機と闘いながらの直掩機の戦果の報告が、虚報だったと断ずるのは酷であると言っている。そして彼等も精一杯真実を報告しようと努力したのであると。
そして著者はこの後しばらくしてから関大尉と別れたというが、関大尉は多分〝マニラ攻防戦〟を死に場所に選んだのではないかと言って居る。
この著者の宮本郷三氏は昔の福島高等商業学校から陸軍に入った人で、甲種幹部候補生で工兵から航空に転科した人で、昭和19年8月フィリピンのネグロス島の戦闘機搭乗員として配属され、翌20年の9月米軍の収容所へ入所21年6月復員。と、なっている。大正10年10月12日札幌の生まれ。終戦時24才。
私は前に関大尉は特攻に行く途中にエンジンの故障で、不時着したものとばかり思い込んでいたが実際はそうではなくて、特攻々撃の時に被弾をして不時着をしたわけで、それらの不明をお詫びを致します。
私は日本海軍の飛行機による特攻の本拠地であったマバラカットというのは、どの辺りに在ったのかと思って検索をしてみたら、マニラの北方80キロの地点に在った事が判った。
そして更に〝神風の風景2006-12-21〟というのを検索をして見たら関大尉が、同盟通信の小野田政特派員に次のように語っていたことも判った。
『僕のような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ。やらせてくれるなら、僕は体当たりしなくても500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中させて帰ることができる。僕は明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛の妻のためにいくんだ。僕は彼女を守るために死ぬんだ。どうだ、すばらしいだろう』と。
私は、これは、関大尉の本音であったと思う。10月の22・23・24日と連続出撃しても敵艦隊に遭遇しなかった。だから敷島隊は基地に戻ってきた。それを上官の一部の者は詰ったと言う。
それでなくても、あの当時の関大尉は悪性の下痢に悩まされていたようで、日々連続の出撃で気力・体力の限界に来ていたのではとも思うが。それでも25日の出撃の時は、上官のある者は『関!もう戻ってくるなよ』と言ったという。
第一次の特攻隊に連日戻ってこられては、指揮する側の面子が立たないという事からだろうと思われるが、しかしこれでは誰しも、素直に突っ込む気にはなれない。
昭和19年の9月頃と思われるが関大尉は、台湾の基地に赴任するまでは艦爆(艦上爆撃機)の搭乗員であった。艦爆とは急降下による爆撃を主とする飛行機であった。従って関大尉にとっては、同盟通信の特派員に言ったように、急降下爆撃は〝お手の物〟であったわけで、ましてやゼロ戦による特攻では250キロの爆弾を使ったようであるから、関大尉にとっては、尚更、急降下爆撃というのは、そんなに難しい事ではなかったわけで、爆弾を抱えたまま突っ込むなどという事は、必要はなかった事になる。
艦爆から戦闘機への搭乗の変更はないわけではなかったという。しかし士官搭乗員については異例の事であったという。であるから関大尉が台湾の基地からマバラカットの基地へ赴任した時は、マバラカットに居た予科練出身の下士官の搭乗員達は〝関大尉は台湾から特攻隊長含みで来た〟と言ったという。
〝図子英雄著・母の碑(いしぶみ)・新潮社〟によれば、上掲の関大尉の遺書は、関大尉が台湾の基地からマバラカットへ赴任する時に、実家の親元に居る自分の新妻に宛てて送った遺品の中に、入れられてあったものであるという。であるから父上・母上様というのは妻の父母という事になる。
関大尉の実父という人は、関大尉がまだ兵学校の生徒であった昭和16年の2月に死んでいる。
因みに関大尉が結婚式を挙げたのは昭和19年の5月30日、東京・芝の水交社で、新妻なる人とは、その妹さんが出した慰問袋が縁で知り合った中であったという。
この遺書を見ると関大尉の場合は、既に台湾の基地に居るうちに特攻隊長として決められていたわけで、であるから関大尉は台湾の基地を出る時に、自分の妻に宛てて遺品と遺書を送ったと〝母の碑〟には書かれている。
であるから下士官の搭乗員達が『関大尉は特攻隊長含みで赴任してきた』と言ったのは、全く其の通りであったことになる。
とに角〝母の碑〟を読んでみると、夫々の人物の名は仮名にはなってはいるものの、関大尉の家の中の事情が、即ちプライバシーに関することまで、実に細かく詳しく書かれているのを見て、少しばかり驚かされた。もっとも著者である図子英雄という人は愛媛県生まれの人であるというから、関大尉が生まれ育った西条の地域社会の様子や事情を、よく知っていたであったろうから、あれだけ詳しく色々な事が書けたのであったろうが。
尤も著者も〝あとがき〟で〝可能な限り事実を踏まえているが、虚構も交えて作品化したことを付記して置きたい〟とも言ってはいるが。
それからかなり前に、ある外国の女性が関大尉のことを書いた本が出版されたことがあったが、私はあの本を新聞で見て早速に取り寄せて最後まで読んで見たが、外国の女性にしてはよく此処まで関大尉を分析的に書いているなとは思ったが、結局は今に至るまで心に残るような印象的な所はなくて、唯一つ私があの本で印象的に残った所は〝関大尉という人は母一人・子一人〟という淋しい境遇で育った人であったという事であったが。あの本は他の図書と一緒に古書店に持って行ってしまったので、今は手許にはなくあの著者の名前も憶えてはいない。外国の女性があれまでに書くのは立派なことだとは思ったが。
改めて〝関中佐〟のご冥福をお祈りして終わりとする。 合掌
海軍特別攻撃隊員の遺書 (水漬く屍) 36
海軍大佐 有賀幸作
(海上特攻・戦艦大和艦長、明治30年8月21日生。海軍兵学校45期。昭和20年4月7日、九州南西海面にて戦死。48才)
正章殿
愈々勉学の好期となり大いに努力していると思っている。
身の鍛錬も怠らざる事肝要なり。
予定の志望を変更せず、大いに精神を集中し、動揺せずに努力している事と思って安心しているが如何。
残る所3ケ月余だ 光陰矢の如し 油断せず努力せよ 但し身体には十分注意せよ お前の意思が動揺せず一心に勉強せば 必ず月桂冠を獲得し得るものと確信している お前の成否は弟妹に及ぼす処も大なり 責任の重大なるを思い 不撓の気力を以って努力せよ
成功と健康を祈りて
28日 父 (注・長男への遺文)
海軍中尉 中西達二
(神風特攻・常磐忠華隊、大正12年5月25日生。海軍兵学校72期。昭和20年4月12日、南西諸島ケラマにて戦死。22才)
72期諸官へ
串良基地(鹿児島県)に無事到着して翌6日、菊水一号作戦に参加した部隊を送りました。
宇佐・姫路空を以って編成した九七艦攻(艦上攻撃機)特攻隊30機と、小生の所謂教え子の吉岡中尉の率いる天山特攻機10機でした。皆元気にニッコリ笑って出発しました。我が戦友、野中繁男もやや体の不調を押して出て征きました。小生の教えた飛行学生・予備学生・練習生が沢山出て征きました。
小生も近い内に征くとは知りながら、送る身としては涙を禁じ得ませんでした。かの歌にある「送るも征くも今生の別れと知れど微笑みて」という文句、しみじみ味わいました。顔で笑って心で泣いて約3時間にわたって出発した特攻隊を送りました。
6日の戦果はもう公表になったと思いますが、大戦果をあげました。海軍1日50機、陸軍60機の特攻隊の大部分が体当たり成功でした。百里基地(茨城県)の艦爆隊も輸送船団に突入した模様です。艦攻機40機のうち数機の外は全機空母及び戦艦に体当たりしました。
小生共、愈々明10日菊水2号作戦の唯一の艦攻特攻隊として出撃します。飛行機の調子もよく、搭乗員の元気も上々です。我に天祐神助あり、必中疑い無しです。キット空母に体当たりします。列機をつれて行きますので、必ず轟沈し得ると確信しています。戦果の発表を楽しみにしていて下さい。
長い間色々御世話になりました。至らぬ小生が何度か皆様に迷惑をかけたことを、ここに御詫び致します。
こちらに来て一層日本の危機を感じました。敵の物量は我々の考えていたよりずっとずっと凄いものです。未だ敵の空母は約20隻この近海に遊弋(ゆうよく)しています。7日我が海上特攻隊なる「大和」を基幹とする、殴り込み部隊が九州・指宿(いぶすき)沖で敵艦上機の攻撃を受け、駆逐艦3隻を残して全部轟沈、撃破されました。既に帝国海軍水上部隊は全然なく、はた又、航空部隊もありません。夜間攻撃に行って今朝帰って来た天山を、その日の薄暮攻撃に又使用するという現状です。
帝国海軍の最大の航空兵力は、我々10航艦特攻隊と思われます。それも既に12連空は殆ど底をはたいた有様です。残るは11連空のみです。陸軍特攻隊は殆ど頼みになりません。去る6日の攻撃の時も陸軍特攻隊の殆ど全機が、喜界ケ島に不時着して攻撃をしなかったという状況です。陸軍の関東軍は既に九州防衛の為に続々とやってきています。小生はこれではならぬと思います。敵を九州に上陸させては皇国は滅亡すると思われます。
これを食い止める者は兄等12連空の残存部隊だと思います。どうか兄等益々自重されて時到らば必ず、莫大なる敵を撃滅されんことを願います。小生一足先に地獄に赴き兄等の奮戦を楽しみに待ちます。
では呉々もごきげんよう。後を願います。
4月9日 串良にて 中西達二
坂元中尉へ私信として同封ありしもの。
先日の写真は勝手ながら「ネガ」も一緒に小生の家へ送ってやって下さい。明日は「敵機だ、空母だ、戦艦だ」の歌を唄いながら突入する考えです。小生あの晩から彼の歌を唄い続けです。機上でも、地上でも、本当に良い歌です。
此処には永田大尉が居られます。毎日攻撃に出ていますが、その余暇には一緒に飲んで話しています。彼が私の出撃を非常に惜しんでくれますが、本当に良い教官でした。何時まで経っても。貴兄も特攻隊になっている旨伝えたら、やっぱり惜しんで居ました。
貴兄の御奮闘を見守ります。では御大事に。 さようなら。
中西中尉
(注・坂元中尉とは戦後、東大医学部教授になられた 坂元正一氏である)
海軍大尉 三橋謙太郎
(第1回桜花特攻・神雷隊、大正12年10月24日生。海軍兵学校71期。昭和20年3月21日、南西諸島方面にて戦死。22才)
拝復 茂夫・千恵子よりの御手紙嬉しく拝見致しました。愈々新しき発足も間近く其の意気其の元気で頑張って下さい。
こちらはその後極めて元気で毎日猛訓練に邁進致しておりますから御安心下さい。何と言っても敵米英の必死の反抗に対し、我等日本人も必死の戦いをせねば、皇土を万代の安きに置くことは出来ません。
昔の神風は人事を尽くして天命を待つの賜物(たまもの)ですが、今亦果たして必ず皇土を守る神風があるか、勿論神国日本には、必ずあると思いますが、それは人事を尽くしての上の事です。
今の有様を反省して、もうこれ以上出来ないと言う域に達して居りましょうか。日本人の一人一人がくたくたになるまで努めなければ、この戦いに勝ち抜くことは出来ません。日本人はまだまだ余力があると思います。その余力がなくなる迄、頑張らなければならぬ時です。今や敵は間近に我が本土を窺わんとしております。今こそ立つべき時です。
茂夫も千恵子も、今こその意気に燃えて本分に邁進して下さい。
では、父上、母上、姉上に宜しく伝えて下さい。体に注意して益々奮闘せられんことを祈ります。
兄より
3月5日
茂 夫・千恵子 殿
○有賀大佐は長野県の出身で、昭和19年(1944)11月に戦艦大和の5代目の艦長に任命されている。有賀大佐は〝これでいい死に場所が出来た〟と手放しで喜んだという。なにせあの当時3000名の兵員が乗り組む世界最大の戦艦である。同期の中では出世頭であったと思う。
しかし翌20年4月7日、沖縄での特攻作戦を目指した大和は、九州の南西海上でアメリカの艦載機の波状攻撃により撃沈され、有賀艦長も大和と運命を共にした。改めてご冥福をお祈りする次第である。
拙ブログを開けて頂くと〝戦艦大和についての概略(3・2・1)・吉田 満という人について・映画「男たちの大和」を見て〟等など書いてありますのでご一読頂ければ、改めて〝戦艦大和〟をご理解頂けるかと思います。
○中西中尉は海兵72期。前にも書いたが昭和15年の採用で、625名のうち54%が戦死している。
○三橋大尉は海兵71期。大和で戦死をした臼淵大尉と同期。再度我々78期生を分隊監事として教育をしてくれた方々と同期である。
71期生は昭和14年581名採用、戦死率57%。72期生共々改めてご冥福をお祈りするものである。
海軍特別攻撃隊員の遺書 (水漬く屍) 35
海軍少尉 田中公三
(神風特攻・第2・七生隊、大正11年11月29日生。日本大学。昭和20年4月12日、南西諸島にて戦死。23才)
世に生を享けて20有余年、この間に於ける御両親様並びに親戚の皆々様、又町の皆様には数々御世話になりました。厚く御礼申し上げます。皇国は正に未曾有の岐路に臨んでいます。敵米英は物量を頼み地図の上から世界史の上から大日本帝国を謀殺せんとしています。実に悠久三千年の歴史を持つ大和民族の興亡はこの大東亜戦争に懸っています。この時不肖私は海軍戦闘機搭乗員として激戦に参加出来るのです。何たる幸福何たる栄誉でしょう。只体当たりをと訓練を積んで来ました。永い訓練も唯体当たりの一瞬を生かさむが為でした。私は皇国の弥栄(いやさか)と大和民族の繁栄の為に嬉々として死に就きます。私は御先祖様の所に行って御国(みくに)の御報告を致しましょう。祖父様を初め御先祖様も必ず私の殉国をお褒めになるでしょう。「これで田中家も益々栄える」と。
弟・妹達へ、 愈々兄と別れなければならぬ。先日帰った時言った通りになった。お前達も幼き時から母に別れ相当苦労して来たが、最早大人となり兄も安心している。今後は一層父の言えつけを守り我が家を立派に守ってゆくように願う。弟も入隊が近づいて来た事と思うが入隊したら一生懸命に御奉公せよ。妹達も父の言いつけを守り、将来立派な女性になる本分を尽くせ。何れ小生の事は解るだろう。
辞世
空征かば 雲染む屍大君の
御楯となりて 我は行くらむ
父上様
小生が死んでも泣かないで下さい。喜んで下さい。これが小生の望むところです。飛行機乗りの最も光栄とするところですから。
部落の皆様へ
永らく御無沙汰致しました。其の後皆々様には御壮健にて、銃後の増産にお励みの事と存じます。重ねて永らく御世話様になりました。部落の皆々様の暖かい心に感激致しております。今後とも父を始め、弟・妹達が御世話様になることと存じますから、どうぞ宜しくお願い致します。
海軍二等飛行兵曹 亀田尚吉氏(神風特攻・神雷桜花隊、昭和20年3月九州東方海面にて戦死。)
の遺墨である。
桜花隊となっているから、人間ロケットの桜花による特攻で戦死をしたものと思われる。
上の部分は葉書に書いた文面と思われるが、真ん中に〝面会絶対禁止〟のゴム印が押してある。
つまりは、このような文面の葉書を見た親は、なんとなくこの葉書が息子からの最後の便りのような気がして、無理を押して遠い所を面会に行ったものなのです。そしてその結果は誰も面会に来なかった隊員の心情との落差が、その影響がよくなかったので、このようなゴム印を押すことになったようです。とに角ある時期以降は〝面会絶対禁止〟というのは、あの当時は全特攻隊員には公平であったし、機密保持の上からも止むを得ない処置であったと思うが。
海軍一等飛行兵曹 田上初治
(神風特別攻撃隊、大正12年2月15日生。特第11期丙種飛行予科練習生。昭和20年4月10日、戦死認定、但し其の地域不詳。22才)
今日の日を 待ちて磨きしこの技量
いざ散り征かむ 君の御為に
桜花も今まさに咲きほころびんとしている、この桜と一緒に俺も咲き、また桜が散り行く時には俺も沖縄の花と散り征こう。
母上初め皆様方、生を享けて20余年いろいろと有り難う御座いました。きっと人に笑われない働きを致します。どうか私の功を楽しみにお待ち下さいますよう。
では皆様さようなら。
海軍二等飛行兵曹 信本廣夫
(神風特攻・第9銀河隊、大正14年1月10日生。乙種飛行予科練習生。昭和20年5月11日、沖縄方面にて戦死。20才)
拝啓
其の後父母様にはお変わり有りませんか?小生御父母様を初め皆様には御世話ばかり御かけ致しまして、今更になって言っても始まりませんが、何一つ皆様に対する、親に対する孝行もせず、親を親とも思わないような私ではありましたが、今小生の思っている事、目的を達成したならば、これが何よりの国家に対する御奉公であり、又、親・姉・弟に対しての御恩返しだと思っています。
自分が思っている事、今張り裂けるばかりに胸中に詰まっている思いを、明朝は必ず晴らして見せます。そして新しい春のような気持ちで皆の後を追って行きます。御父様や御母様も其の事をよく理解されまして、あっさりと御諦めて下さい。
御両親とも御体に気をつけて最後まで頑張って下さい。時ちゃんも敬ちゃんも御父母様の言われることをよく聞いて、何が何でもやり抜く事。日本人だから何処に出しても恥かしくない、日本人だから、米や英人にならぬ事。兄に負けぬようついて来い。近所の皆んなに宜しく言って下さい。
では皆さんお元気で、後、発進まで三時間しかありません。あと三時間したら他国の人となるのです。諦めて下さい。泣かないで下さい。
お父さん、お母さん、時ちゃん、敬ちゃん、さようなら。
これは海軍の陸上爆撃機の銀河という飛行機である。信本二飛曹の第9銀河隊というのは、まさかこの銀河を使っての特攻ではなかったろうとは思うが。機体も大きいから被弾率も高いし、それに搭乗員も一人というわけには行かない。
これはあの当時のドイツのハインケル?と言った飛行機と形が似ているので、技術導入でもあったのかどうか。我々が中学生当時飛行場に勤労奉仕に行っている時など、頭の上を独特な金属性の爆音を響かせながら着陸して行ったのを覚えているが。なにかエンジンの整備が難しかったようで、その稼動率は低かったようであったが。あの戦争後半の新鋭機であったのだが。
海軍少尉 土井定義
(神風特攻・第5・七生隊、大正11年5月23日生。中央大学。戦死年月場所等不詳。昭和20年に戦死したとして23才)
朝鮮の元山(げんざん)の基地に居る頃面会に行きしに、確かに居た筈であるのに転勤したと友人に言わしめて、面会に応じなかった。後日、本人より次の手紙が来た。(遺族の言)
先日わざわざ来て下され有り難う存じます。
いよいよ戦争も大事。
本土にも火が付き私達もじっとして居れません。多分近い将来命令も下ると存じますが、或いはこの手紙の着く頃進撃の命令が出るかも知れない程身近に迫っております。
作戦に参加するともなれば、もとより一死奉公、生還はもとより期し難いものあり。私が潔く散りましたれば、何卒定義よくやったと褒めてやって下さい。
勿論嘆き悲しむ等の事はないものと確信しますが、命令一下、男として見事散る覚悟です。思い出せば短いようで長かった生活でした。又長いようで短い生活、今の心境は何の未練もありません。ただ御両親はじめ皆様が末永く生きられ私達の築く勝利をよく御覧下さいますように。
万一の事があり、荷物が着くも決して慌てず立派なものもありますから処置してください。
衣は美智子の平素衣に、日本刀と短刀は決して身離さずに御持ち下さい。今は実に朗らかです。早く戦争に行きたいものです。
尚私の荷物は遺品等と言わずに、散った後も南の空で毎日戦っているものと思ってください。とに角元気一杯戦って死んで参ります。新京(満州国)の皆様に宜しく。
○田中少尉の場合母親とは、死別であったのか生き別れであったのか書かれていないが、弟さんも何か徴兵の年令に近かったようで(何かあの戦争末期近くには、徴兵年令が18才とされたような記憶もあるが)残される父親の心境を思うと暗然たるものがある。そして部落の人たちに対する感謝と今後も何かと世話になる父親・弟・妹達への御願い、田中少尉は家族に心を残して逝ったわけで、なんとも痛ましい。
○土井少尉の場合、わざわざ面会に行ったのは親御さんであったろうが、その時土井少尉は同僚に、転勤したと嘘を言わせて親に会わなかった。土井少尉にして見れば何か余程の事情があったのであったろうが、それらの事情や理由に就いては後日の遺書としての手紙でも何も触れていない。隊内から出す手紙には書けないような理由と事情があったのであろうが、一体何があったのであろうか?。
私の親戚に当たる者で、東大から海軍に入った者が居て、其の者が少尉に任官して間もないころ日曜日に外出をしたが、夕刻近くの帰隊の時間になって、そのまま定められた時刻までに帰隊するのが馬鹿らしくなって、東大時代の友人が隊の近くに居たのを思い出して寄ってみたら居たので、久し振りの思い出話に花が咲いて夕飯もご馳走になって隊に帰ったのは、夜の9時頃であったと言う。
隊の方では帰隊すべき時刻を遙かに過ぎても何の連絡もなく帰隊しないので、当直士官達の判断は〝脱走〟の線に傾き、その捜索の方法手段を如何にすべきか検討に入った頃に、営門の衛兵から〝本人が今帰隊した〟と連絡が入ったという。
それからは当直士官室で数人の兵学校出のホンチャン達から鉄拳と罵声を浴びせられ、其の挙句に軍装を脱がされて、隊舎の裏手のダビット(短艇の繋留場所)まで連れて行かれて、更に殴られ最後には太いロープで体をグルグル巻きに縛られて、翌朝の明け方までダビットのアームに吊り下げられていたという。本人は当時既に柔道の有段者で体も大きかったから、殴る方も手加減も何もしなかったんであったろうが、日頃のホンチャン達と学徒出の連中との感情の本音が、ムキ出しになった感がある。
であるから私の一方的な想像ではあるが土井少尉の場合も、親御さんが面会に行った日の前辺りに何かがあって、鉄拳などを喰らって顔が腫れ上がってしまっていて、とても親に会えるような状態ではなくて、そして親に会えば余計な心配をかけることにもなるので、〝本人は急な転勤で此処には居ない〟と同僚に言わせて親を帰したものと思われるが。
そして更に想像を働かせるならば、土井少尉の戦死についてはその年月や場所等は不詳となっているから、特攻で基地を飛び立った後エンジンの不調等もあってか、編隊から離れ、誰からも知られない所へ行ってしまったんではないのかとも思うが。
後で触れるが私が所属した分隊の分隊付教官であった人も、東大から海軍に入った方であったが、やはりアンチ海軍の人であった。とに角アメリカの学徒は前述したように志願で軍に入ってきたが、日本の場合は〝学徒動員〟という国家の命令で軍に入ってきたので、其の辺りの〝心の差異〟は否定できなかったと思うが。
ただこれも前述したように、ホンチャン以上に軍人になり切った人も居たことも事実であったが。
海軍特別攻撃隊員の遺書 (水漬く屍) 34
海軍中尉 木野宥治
(神風特別攻撃隊、大正7年8月26日生。同志社高等商業学校。昭和18年6月23日、マカッサル上空にて戦死。25才)
拝啓 御手紙拝見有り難う御座いました。
坂本竜馬氏大西郷を評して曰く「彼は大鐘のような男だ。大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」と。最近漸くこの言葉の意味が判ってきました。僕が海軍予備航空隊に入隊した第一日、部長は我々に曰く「海軍のスピリット、伝統的な気風は黙ってやる。黙ってただ実行練磨する事だ。黙って実力を養うんだ。宣伝なんかしなくても、真の実力者はグングン頭角を表して行くものだ。今の事変の海軍航空隊の活躍を見ろ」と。
僕が高商へ入学して約一年、つくづく感ずることは世の中、特に学校内になんと又口ばかりの人間が、実力のない人間が多い事だろう。口に政治・哲学・法律・経済等を一人前に論じながら、学校の僅少の学課の予習復習さへも満足にやるだけの根気と、学問に対する熱と実力のない人間が、なんと多い事だろうということです。
僕自身、過去、現在を反省して誠に、口に南進政策、海洋政策を論じながら、僅かに英・数・国・漢の高商入試をも突破出来なかったのです。僕は足元を忘れていました。大きな落とし穴のある足元を。無論我々の全ての行動を律し統一すべき志は必要です。そしてその志に対する実行力と熱と信念を持って、自己の生活の第一根本より基礎を固めて行くべきです。そして黙ってやることです。黙って実力を養うんです。世は実力の時代です。大学卒・高商卒の肩書きが何の役にも立たない時代です。一に実力、二に実力です。そして大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く、底知れぬ実力者たるべく努力せねばならぬ事が、ようやく判って来ました。
母上、昨日より発熱流感との事。僕は肺炎の怖れなき様子なれど目下静養中、至極元気、食欲旺盛、着々快方に向かい居り、又十分無理せぬように監督中なれば御安心下さい。
帝都も流感、大流行との事、くれぐれも御注意を。
御義兄上章君によろしく。
姉上様 宥治
海軍二等飛行兵曹 中別府重信
(神風特攻・神雷第7建武隊、大正12年2月8日生。第16期丙種飛行予科練習生。昭和20年4月16日、沖縄周辺にて戦死。22才)
御母様御喜びくださいませ。おろかなる重信を今日まで如何に致したならば人並みの人間になすことが出来るか、如何に致したならば立派な軍人になってくれるかを一日として忘れた事のなき御母様の心境は、重信自身として又子供として良く良く察せられます。其の御情け深き御母様、這えば立て、立てば歩めの親心、我が身に積る老いも忘れて。この慈愛深き御母様にこの重信は何一つとして充分なる親孝行も出来ず、瞬間なりとも心行くまで御慰めすることも出来ず、只心配のみお掛け致して何とも御詫びの申し上げようも様も御座いません。実に重信の心境この事のみが頭に残り、残念でたまりません。然しながら今日ではこの心打ち消さんと如何に働いたならば人並みの軍人になれるか、如何に勉強したならば立派な搭乗員になれるかと、最後まで努力しました。その甲斐ありて今は世界への搭乗員となり、こんな嬉しい事はありません。これでこそ今迄親孝行出来なかったのも最善の親孝行と一人決めに致して、勇んで御母様より頂いた体を以って米英の艦隊に、あの日の丸の鉢巻を締めて潔く日本男子の最後を遂げることが出来ると喜んでいます。
この日をば かねて覚悟の重信が
桜花(さくらばな)とは 母も泣かなん
御母様後に残りし妹・弟も、重信より以上に立派な人間に育てて下されん事を御願い致します。最後にもう一ッペン御母様と呼ばせてください。御母様何より体に充分注意され頑張って下さい。
やがて花咲く春も近き事でしょう。
以上重信の最後の御礼、御詫び、御願いに代えさせて戴きます。
海軍中尉 永富雅夫
(神風特攻・第19金剛隊、大正10年1月2日生。関西学院。昭和20年1月6日、比島リンガエン湾にて戦死。24才)
天恩・地恩・父母の恩・師の恩・友の恩、雅夫は実に幸福な25年を過ごしてきました。感謝の裡に散り得ることを実に幸福に思い、唯御国の為立派な死に方をしたい気持ち。
新春というのに飛ぶホタルを見つつ、微笑を浮かべつつ飛び立って征きます。後に続く者を信じつつ。
新春や 南海の空蛍飛ぶ 空染むる愛機に託す 吾が命
微笑浮かべつつ眦(まなじり)を上げ、父母よ来たり給えよ靖国へーー微笑浮かべ微笑を浮かべつつ待つ。
(比島前線基地にて出撃前夜)
海軍中尉 鮎川幸男
(神風特攻・笠置隊、大正12年3月30日生。海軍兵学校71期。昭和19年11月25日、比島パラナン岬にて戦死。21才)
最後の通信
前略 11月の始め松山から大分へ基地を移動しました。○月○日を
期して南方第一線に出撃致します。もとより生還は期していません。もしもの時はよくやってくれたと褒めて下さい。松山では戦闘機隊に隊長、分隊長合わせて4人居たが今残っているのは私一人です。
我々戦闘機乗りは如何にすれば立派に死ねるかを考えています。荷物は〝トランク 1、軍刀 1〟大分の水交社に置いておきます。元気で帰れば自分で運びますが、もしもの時は水交社の人に家へ送ってくれるように頼んでおきます。では何時までもお元気でお暮らし下さい。
敬具
父上様
母上様 幸男
○木野中尉は昭和18年に戦死をしていて、神風特別攻撃隊となっているが、神風特攻は19年の10月からであったので、何処かで誰かが間違ったのであろうと思うが。従って書かれているものも遺書ではなくて、前に姉から送られて来た手紙に対する返書である。
出身校の同志社高等商業は戦後、同志社大学商学部となった。手紙の中で海軍予備航空隊へ入隊したとあるが、このような名称の航空隊は聞いたことがないので、当時学徒出身の予備学生で航空機搭乗員の志望者を入隊させたので、仲間同士で予備航空隊と言って居たのかも知れなかった。(当時の手紙の検閲の関係で、具体的な航空隊名を書けなかったとも思われるが)
其処で海軍精神の一つである〝不言実行〟の教育を受けて、いたく感銘を受けたようであるが。
木野中尉が戦死をしたマカッサルは東インドネシヤの大都市で、其の上空に進攻してきた米軍の戦闘機と戦って、撃墜されて戦死をしたのであったろうが、改めて御冥福をお祈りするものである。
○中別府二飛曹、生んで育ててくれた母親に対する感謝の念・言葉の数々。しかし『母さん、戦争終わったよ。もう隊に居なくてもいいんだよ。これからは親孝行するからね、母さん』という言葉を母親は、世の母親はどれ程待ち焦がれたことか。
しかし我が子は〝いくら待っても、自分の命が尽きるまで待っても、遂に帰って来なかった〟無情!。
○海軍兵学校71期の鮎川中尉は、我々78期生の分隊監事として、日夜指導教育をしてくれた方々と同期の桜である。
71期生は昭和14年に581名が採用されて57%の人が戦死している。この前後のクラスの人たちと同じく、卒業即戦場へのクラスであった。
昭和20年4月我々の分隊監事となられた71期の方々は、既に大尉になられていたが、とても22・3才の方々とは思えなかった。常に眼光炯々として吾等生徒の一部始終を見通すが如く、全く〝油断も隙も無かった〟
我々は終戦となったあの年に、6ケ月にも満たない期間ではあったが海軍で、人間形成の為の教育指導を受けたことを〝生涯の誇り〟に思っている。改めて鮎川中尉の御魂に〝敬礼!〟です。
海軍特別攻撃隊員の遺書 (水漬く屍) 33
海軍少尉 田熊克省(たぐまかつよし)
(神風特攻・菊水天桜隊、大正8年3月1日生。旅順工科大学。昭和20年4月16日、南西諸島方面にて戦死。26才)
春が参りました。首に巻いた純白の絹のマフラーも汗ばむようになりました。春だと言いますのに、今、日本はそれどころではありません。戦いは苛烈になるばかりです。もう生きてお目にかかれる日はありません。私も飛行機乗りとして本望に存じて居ります。
何卒御両親様の御壮健の程お祈りいたします。
人相の悪い写真を送ります。最近のものです。
大君の御楯となりて吾は今
翼休めん靖国の森
海軍上等飛行兵曹 森 茂士
(神風神雷特攻・第7建武隊、大正14年3月5日生。第19期乙種飛行予科練習生。昭和20年4月16日、沖縄南東海面にて戦死。20才)
拝啓 御両親様、其の後お変わり御座いませんか御伺い申し上げます。先達ての便りに母上病気との由さぞ御苦労の事と存じます。茂士皇国の干城として一生懸命働きますれば、何卒御安心下され度御願い申しあげます。弟春直も元気に奉公のことと存じます。この手紙はなんケ月振りやら随分御無沙汰致しました。悪しからず御許し下さい。何時ぞや渡部兵曹と国東に帰りましたね、その時の思い今に忘れません。渡部も今や国家の干城として天晴れ日本男児として立派に戦死致しました。その彼を思うとき何時も涙が出て参ります。
吾等一同何処までも頑張ります故御安心下さい。帝国は今や非常の難局に当面致しております。吾等此の世に帝国海軍軍人として御奉公出来得ます事は無上の光栄と存じて居ります。不肖私は海軍に身を投じて以来御両親の子では御座いません。君に捧げし身で御座います。それは一にも二にも、承知致して下さるものと思います。
然るに今までの親不孝、御許しの程御願い致します。吾等には唯国家の二字あるのみ、必ずや日本男子の本分を完遂致す覚悟で御座います。何卒御安心の程御願い致します。母さんは体が弱い故、呉々も御体大切になされまして、後に居る弟達の養育に務められます様御願い致します。
先ずは乱筆ながら御伺いまで。 敬具
国民の安きを祈り 吾は征く
敵艦隊の 真只中に
海軍中尉 瀬口政孝
(神風特攻・第11金剛隊、大正10年10月25日生。上海東亜同文書院。昭和19年12月16日フィリピン海域にて戦死。23才)
謹みて御両親様に一筆申し上げます。
「親思う心にまさる親心 今日の訪れ何と聞くらん」と古人も詠みました如く、必ずや御両親様には朝な夕な或いは又寒さ暑さにつけ、私の身を案じておられる事と思いますが、お陰様にて先祖様はじめ御両親様方の御加護によりまして元気旺盛、軍務に精励致して居りますれば他事ながらも御安心下さい。
神土の防人(さきもり)として出征以来既に一年余になりますが、異国に居て懐かしく且つ心強く感ぜられるのは、神土の雄大さ神国の尊厳さであります。その防人として前線に活躍できる喜びを御察し下されたく思います。神代以来、悠久三千年連綿として異彩を放つ国体に殉じた幾多祖先の尊い血潮により護られ続けた神土は、前古未曾有のこの難局に直面して、再びそれらの血を継ぐ我々国民の真剣な姿で護られつつあります。
思えば先祖達は只々神土の弥栄(いやさか)を祈りつつ、黙々として殉じて来たのであります。平和な時は政治・経済・社会・芸術とあらゆる方面に、優秀なる日本文化の建設により神土の弥栄を祈り、又戦争に於いては率先大君の御楯となり神土の防人として尽忠の誠を尽くし、平和と戦争を論ぜず、只黙々と神土の弥栄を祈り、その弥栄を信じつつ殉じたのであります。
しかも神土が悠久の躍動を続ける如く、全民族は生死を超越して永遠の大儀に生き、神土の弥栄に尽くしつつあるのであります。父様この時間と場所を超越した根底に脉々(みゃくみゃく)と通ずる大きい流れこそ、真の日本の姿ではないでしょうか。過去の歴史も示す如く、幾多政治家・科学者・芸術家・宗教家・武人・農夫共にその分野々々に於いて、神土の弥栄を祈り且つ信じて来ました。
先祖様始め御両親様がそうであった如く、その尊き血を受け継いだ私も神土の危機に殉じ、神土の弥栄を祈り且つ信ずる者であります。幸いにして私達瀬口家には、未だ二人の弟が居ます。これが立派な人間に成長し如何なる部門に進もうとも、その部門で十分活躍し、共に神土の弥栄に寄与することを信じて止みませぬ。されど十分活躍するには、健やかなる身体と、逞しき心と、深い学問が必要な素地です。
特に現在の如く進歩せる世に於いては、深い学問が必要と思います。私は御両親様の温かき心から学問に身を捧げさせて下さいまして一番嬉しく思います。
正しき学問、この真の自己を自覚し、真の天然理法を理解する唯一の道です。私もかかる危機に遭わざれば、研学に生涯を傾注する覚悟でした。弟達にも必ずこの学問だけは十分やらせて下さい。そしてその素地を広める事により、必ずや真に自覚し、真に理解し、意義ある生涯をもって神土の弥栄に寄与出来るかと思います。先祖の墓前に額(ぬか)づく時、又神社に詣でる時の心境こそ、我々の真の心境ではないでしょうか。私にとってあの時程、幸福を感ずる時はありませんでした。思えば万国に比類なき神土ではありませんか。この神気に打たれし時程、一家の喜び、自らの感激を感ずる時はありません。この世に生を享け、この尊き神土に籍を置きし幸福を沁々(しみじみ)感じさせられます。
先祖がそうであった如く、この比類なき神土に生まれし喜びを、御両親様と共々感ずると共に一家共に生死を超えて、この神土の弥栄を祈りましょう。幼き弟妹達のことは呉々もお頼みします。孝行の真似事すら出来ず、いつもいつも心配をおかけした事を深く詫びると同時に、御両親様の天寿の全からん事を切望して止みませぬ。 敬具
七生隊の歌(神風特攻・七生隊)
海軍中尉 成田和孝
1、 七度生きて大君の
御楯とならん決意もて
見よ襲い来る醜敵の
頭上にかさず日本刀
今ぞ出で立つ七生隊
2、 再び生きて還らじと
思う心は梓弓
切って放てば神風と
渾幕縫ってまっしぐら
今ぞ必中七生隊
3、 神州護持の伝統に
もえ立つ血潮この命
捧げまつらん時ぞ今
敵もろともに轟然と
今ぞ爆ぜちる七生隊
○田熊少尉は旅順の工科大学から学徒動員により海軍に入った。旅順とは戦前の満州国関東州の遼東半島の突端部に位置する都市であった。明治37年(1904)の頃は、その港湾はロシアの軍港になっていて、その軍艦の存在が我が国の安全を脅かす基であったので日露戦争の時日本海軍は、旅順港内のロシア艦隊を攻撃して、そしてそれらの艦隊が港外に出るのを防ぐ為に、港湾の入り口に船を沈めて旅順港を閉塞したのであった。そしてその時の作戦で戦死をした広瀬中佐と杉野兵曹長は、軍神とされて永く日本海軍軍人の〝鑑(かがみ)〟とされたのであった。
その旅順に大正11年(1922)に設立されたのが日本官立の旅順工科大学であった。旅順に隣接した大連の中学からも、我々の海軍兵学校に入校した者もかなり居たが、戦後は日本の領地ではなくなってしまった為に親の居る所へは帰れず、その殆どは内地の親戚を頼って復員したのであった。
従って田熊少尉の出身校であった旅順工科大学も戦後は、なくなってしまった事になるが。
○森上飛曹、海軍の軍人となったからには、親に〝吾が子とは思ってくれるな、我が身は大君に捧げた身である〟と、あの頃は、そういう時代であった。
○瀬口中尉が学んだ、上海東亜同文書院とは、中国の上海に明治34年(1901)に、日本の近衛篤麿により根津一を学長として開設された学院で、その目的は日本人の為の高等教育機関であり、中国人も受け入れたが、日本の学生には中国語と英語を中国の学生には日本語を学ばせ、中国や諸外国の制度律令、商工務の要を教え、儒教的な実用主義を重視した教育であったと言い、その卒業生は多方面にわたりあの戦前・戦中かなりな活躍をしたという。
昭和20年日本の敗戦により閉鎖となったが、その後身は愛知大学であるとも言われている。
私は数年前に上海へ行った時にガイドから「この橋を渡った向うが日本の租界だったそうですよ」と言われて〝あぁ、この橋がそうか〟と思ったが、その昔は、その橋に〝支那人と犬、渡るべからず〟と書いた板が釘で打ち付けられていたそうで、国民が外の国からそのような扱いをされている国から日本の国を見たら、そして濃い松の緑と秀麗な富士山を思い浮かべれば、〝神の国日本・神州・神土〟と思うのも、湧き上がる愛国心の然らしむるところであったろうと思うが。
(昔は今の中国人を、支那人と呼び、チャンコロとの蔑称もあった。それらは〈china〉から来ていると聞いたが)