海軍特別攻撃隊員の遺書 (水漬く屍) 33 | 針尾三郎 随想録

   海軍特別攻撃隊員の遺書 (水漬く屍) 33

 海軍少尉  田熊克省(たぐまかつよし)

  (神風特攻・菊水天桜隊、大正8年3月1日生。旅順工科大学。昭和20年4月16日、南西諸島方面にて戦死。26才


 春が参りました。首に巻いた純白の絹のマフラーも汗ばむようになりました。春だと言いますのに、今、日本はそれどころではありません。戦いは苛烈になるばかりです。もう生きてお目にかかれる日はありません。私も飛行機乗りとして本望に存じて居ります。

 何卒御両親様の御壮健の程お祈りいたします。

人相の悪い写真を送ります。最近のものです。


 大君の御楯となりて吾は今

        翼休めん靖国の森



 海軍上等飛行兵曹  森  茂士

  (神風神雷特攻・第7建武隊、大正14年3月5日生。第19期乙種飛行予科練習生。昭和20年4月16日、沖縄南東海面にて戦死。20才)


 拝啓  御両親様、其の後お変わり御座いませんか御伺い申し上げます。先達ての便りに母上病気との由さぞ御苦労の事と存じます。茂士皇国の干城として一生懸命働きますれば、何卒御安心下され度御願い申しあげます。弟春直も元気に奉公のことと存じます。この手紙はなんケ月振りやら随分御無沙汰致しました。悪しからず御許し下さい。何時ぞや渡部兵曹と国東に帰りましたね、その時の思い今に忘れません。渡部も今や国家の干城として天晴れ日本男児として立派に戦死致しました。その彼を思うとき何時も涙が出て参ります。

 吾等一同何処までも頑張ります故御安心下さい。帝国は今や非常の難局に当面致しております。吾等此の世に帝国海軍軍人として御奉公出来得ます事は無上の光栄と存じて居ります。不肖私は海軍に身を投じて以来御両親の子では御座いません。君に捧げし身で御座います。それは一にも二にも、承知致して下さるものと思います。

 然るに今までの親不孝、御許しの程御願い致します。吾等には唯国家の二字あるのみ、必ずや日本男子の本分を完遂致す覚悟で御座います。何卒御安心の程御願い致します。母さんは体が弱い故、呉々も御体大切になされまして、後に居る弟達の養育に務められます様御願い致します。

 先ずは乱筆ながら御伺いまで。            敬具


 国民の安きを祈り 吾は征く

         敵艦隊の 真只中に



 海軍中尉  瀬口政孝

  (神風特攻・第11金剛隊、大正10年10月25日生。上海東亜同文書院。昭和19年12月16日フィリピン海域にて戦死。23才)


 謹みて御両親様に一筆申し上げます。

 「親思う心にまさる親心 今日の訪れ何と聞くらん」と古人も詠みました如く、必ずや御両親様には朝な夕な或いは又寒さ暑さにつけ、私の身を案じておられる事と思いますが、お陰様にて先祖様はじめ御両親様方の御加護によりまして元気旺盛、軍務に精励致して居りますれば他事ながらも御安心下さい。

 神土の防人(さきもり)として出征以来既に一年余になりますが、異国に居て懐かしく且つ心強く感ぜられるのは、神土の雄大さ神国の尊厳さであります。その防人として前線に活躍できる喜びを御察し下されたく思います。神代以来、悠久三千年連綿として異彩を放つ国体に殉じた幾多祖先の尊い血潮により護られ続けた神土は、前古未曾有のこの難局に直面して、再びそれらの血を継ぐ我々国民の真剣な姿で護られつつあります。

 思えば先祖達は只々神土の弥栄(いやさか)を祈りつつ、黙々として殉じて来たのであります。平和な時は政治・経済・社会・芸術とあらゆる方面に、優秀なる日本文化の建設により神土の弥栄を祈り、又戦争に於いては率先大君の御楯となり神土の防人として尽忠の誠を尽くし、平和と戦争を論ぜず、只黙々と神土の弥栄を祈り、その弥栄を信じつつ殉じたのであります。

 しかも神土が悠久の躍動を続ける如く、全民族は生死を超越して永遠の大儀に生き、神土の弥栄に尽くしつつあるのであります。父様この時間と場所を超越した根底に脉々(みゃくみゃく)と通ずる大きい流れこそ、真の日本の姿ではないでしょうか。過去の歴史も示す如く、幾多政治家・科学者・芸術家・宗教家・武人・農夫共にその分野々々に於いて、神土の弥栄を祈り且つ信じて来ました。

 先祖様始め御両親様がそうであった如く、その尊き血を受け継いだ私も神土の危機に殉じ、神土の弥栄を祈り且つ信ずる者であります。幸いにして私達瀬口家には、未だ二人の弟が居ます。これが立派な人間に成長し如何なる部門に進もうとも、その部門で十分活躍し、共に神土の弥栄に寄与することを信じて止みませぬ。されど十分活躍するには、健やかなる身体と、逞しき心と、深い学問が必要な素地です。

 特に現在の如く進歩せる世に於いては、深い学問が必要と思います。私は御両親様の温かき心から学問に身を捧げさせて下さいまして一番嬉しく思います。

 正しき学問、この真の自己を自覚し、真の天然理法を理解する唯一の道です。私もかかる危機に遭わざれば、研学に生涯を傾注する覚悟でした。弟達にも必ずこの学問だけは十分やらせて下さい。そしてその素地を広める事により、必ずや真に自覚し、真に理解し、意義ある生涯をもって神土の弥栄に寄与出来るかと思います。先祖の墓前に額(ぬか)づく時、又神社に詣でる時の心境こそ、我々の真の心境ではないでしょうか。私にとってあの時程、幸福を感ずる時はありませんでした。思えば万国に比類なき神土ではありませんか。この神気に打たれし時程、一家の喜び、自らの感激を感ずる時はありません。この世に生を享け、この尊き神土に籍を置きし幸福を沁々(しみじみ)感じさせられます。

 先祖がそうであった如く、この比類なき神土に生まれし喜びを、御両親様と共々感ずると共に一家共に生死を超えて、この神土の弥栄を祈りましょう。幼き弟妹達のことは呉々もお頼みします。孝行の真似事すら出来ず、いつもいつも心配をおかけした事を深く詫びると同時に、御両親様の天寿の全からん事を切望して止みませぬ。      敬具



 七生隊の歌(神風特攻・七生隊)

             海軍中尉  成田和孝

 

 1、 七度生きて大君の

           御楯とならん決意もて

    見よ襲い来る醜敵の

           頭上にかさず日本刀

    今ぞ出で立つ七生隊


 2、 再び生きて還らじと

           思う心は梓弓

    切って放てば神風と

           渾幕縫ってまっしぐら

    今ぞ必中七生隊


 3、 神州護持の伝統に

           もえ立つ血潮この命

    捧げまつらん時ぞ今

           敵もろともに轟然と

    今ぞ爆ぜちる七生隊


○田熊少尉は旅順の工科大学から学徒動員により海軍に入った。旅順とは戦前の満州国関東州の遼東半島の突端部に位置する都市であった。明治37年(1904)の頃は、その港湾はロシアの軍港になっていて、その軍艦の存在が我が国の安全を脅かす基であったので日露戦争の時日本海軍は、旅順港内のロシア艦隊を攻撃して、そしてそれらの艦隊が港外に出るのを防ぐ為に、港湾の入り口に船を沈めて旅順港を閉塞したのであった。そしてその時の作戦で戦死をした広瀬中佐と杉野兵曹長は、軍神とされて永く日本海軍軍人の〝鑑(かがみ)〟とされたのであった。

 その旅順に大正11年(1922)に設立されたのが日本官立の旅順工科大学であった。旅順に隣接した大連の中学からも、我々の海軍兵学校に入校した者もかなり居たが、戦後は日本の領地ではなくなってしまった為に親の居る所へは帰れず、その殆どは内地の親戚を頼って復員したのであった。

 従って田熊少尉の出身校であった旅順工科大学も戦後は、なくなってしまった事になるが。


○森上飛曹、海軍の軍人となったからには、親に〝吾が子とは思ってくれるな、我が身は大君に捧げた身である〟と、あの頃は、そういう時代であった。


○瀬口中尉が学んだ、上海東亜同文書院とは、中国の上海に明治34年(1901)に、日本の近衛篤麿により根津一を学長として開設された学院で、その目的は日本人の為の高等教育機関であり、中国人も受け入れたが、日本の学生には中国語と英語を中国の学生には日本語を学ばせ、中国や諸外国の制度律令、商工務の要を教え、儒教的な実用主義を重視した教育であったと言い、その卒業生は多方面にわたりあの戦前・戦中かなりな活躍をしたという。

 昭和20年日本の敗戦により閉鎖となったが、その後身は愛知大学であるとも言われている。

 私は数年前に上海へ行った時にガイドから「この橋を渡った向うが日本の租界だったそうですよ」と言われて〝あぁ、この橋がそうか〟と思ったが、その昔は、その橋に〝支那人と犬、渡るべからず〟と書いた板が釘で打ち付けられていたそうで、国民が外の国からそのような扱いをされている国から日本の国を見たら、そして濃い松の緑と秀麗な富士山を思い浮かべれば、〝神の国日本・神州・神土〟と思うのも、湧き上がる愛国心の然らしむるところであったろうと思うが。

 (昔は今の中国人を、支那人と呼び、チャンコロとの蔑称もあった。それらは〈china〉から来ていると聞いたが)