海軍特別攻撃隊員の遺書 (水漬く屍) 34 | 針尾三郎 随想録

   海軍特別攻撃隊員の遺書 (水漬く屍) 34

 海軍中尉  木野宥治

  (神風特別攻撃隊、大正7年8月26日生。同志社高等商業学校。昭和18年6月23日、マカッサル上空にて戦死。25才)


 拝啓 御手紙拝見有り難う御座いました。

 坂本竜馬氏大西郷を評して曰く「彼は大鐘のような男だ。大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」と。最近漸くこの言葉の意味が判ってきました。僕が海軍予備航空隊に入隊した第一日、部長は我々に曰く「海軍のスピリット、伝統的な気風は黙ってやる。黙ってただ実行練磨する事だ。黙って実力を養うんだ。宣伝なんかしなくても、真の実力者はグングン頭角を表して行くものだ。今の事変の海軍航空隊の活躍を見ろ」と。

 僕が高商へ入学して約一年、つくづく感ずることは世の中、特に学校内になんと又口ばかりの人間が、実力のない人間が多い事だろう。口に政治・哲学・法律・経済等を一人前に論じながら、学校の僅少の学課の予習復習さへも満足にやるだけの根気と、学問に対する熱と実力のない人間が、なんと多い事だろうということです。

 僕自身、過去、現在を反省して誠に、口に南進政策、海洋政策を論じながら、僅かに英・数・国・漢の高商入試をも突破出来なかったのです。僕は足元を忘れていました。大きな落とし穴のある足元を。無論我々の全ての行動を律し統一すべき志は必要です。そしてその志に対する実行力と熱と信念を持って、自己の生活の第一根本より基礎を固めて行くべきです。そして黙ってやることです。黙って実力を養うんです。世は実力の時代です。大学卒・高商卒の肩書きが何の役にも立たない時代です。一に実力、二に実力です。そして大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く、底知れぬ実力者たるべく努力せねばならぬ事が、ようやく判って来ました。

 母上、昨日より発熱流感との事。僕は肺炎の怖れなき様子なれど目下静養中、至極元気、食欲旺盛、着々快方に向かい居り、又十分無理せぬように監督中なれば御安心下さい。

 帝都も流感、大流行との事、くれぐれも御注意を。

 御義兄上章君によろしく。

 姉上様                         宥治



 海軍二等飛行兵曹  中別府重信

  (神風特攻・神雷第7建武隊、大正12年2月8日生。第16期丙種飛行予科練習生。昭和20年4月16日、沖縄周辺にて戦死。22才)


 御母様御喜びくださいませ。おろかなる重信を今日まで如何に致したならば人並みの人間になすことが出来るか、如何に致したならば立派な軍人になってくれるかを一日として忘れた事のなき御母様の心境は、重信自身として又子供として良く良く察せられます。其の御情け深き御母様、這えば立て、立てば歩めの親心、我が身に積る老いも忘れて。この慈愛深き御母様にこの重信は何一つとして充分なる親孝行も出来ず、瞬間なりとも心行くまで御慰めすることも出来ず、只心配のみお掛け致して何とも御詫びの申し上げようも様も御座いません。実に重信の心境この事のみが頭に残り、残念でたまりません。然しながら今日ではこの心打ち消さんと如何に働いたならば人並みの軍人になれるか、如何に勉強したならば立派な搭乗員になれるかと、最後まで努力しました。その甲斐ありて今は世界への搭乗員となり、こんな嬉しい事はありません。これでこそ今迄親孝行出来なかったのも最善の親孝行と一人決めに致して、勇んで御母様より頂いた体を以って米英の艦隊に、あの日の丸の鉢巻を締めて潔く日本男子の最後を遂げることが出来ると喜んでいます。

      この日をば かねて覚悟の重信が

            桜花(さくらばな)とは 母も泣かなん

 御母様後に残りし妹・弟も、重信より以上に立派な人間に育てて下されん事を御願い致します。最後にもう一ッペン御母様と呼ばせてください。御母様何より体に充分注意され頑張って下さい。

 やがて花咲く春も近き事でしょう。

 以上重信の最後の御礼、御詫び、御願いに代えさせて戴きます。


  

 海軍中尉  永富雅夫

  (神風特攻・第19金剛隊、大正10年1月2日生。関西学院。昭和20年1月6日、比島リンガエン湾にて戦死。24才)


 天恩・地恩・父母の恩・師の恩・友の恩、雅夫は実に幸福な25年を過ごしてきました。感謝の裡に散り得ることを実に幸福に思い、唯御国の為立派な死に方をしたい気持ち。

 新春というのに飛ぶホタルを見つつ、微笑を浮かべつつ飛び立って征きます。後に続く者を信じつつ。

 新春や 南海の空蛍飛ぶ  空染むる愛機に託す 吾が命

微笑浮かべつつ眦(まなじり)を上げ、父母よ来たり給えよ靖国へーー微笑浮かべ微笑を浮かべつつ待つ。

  (比島前線基地にて出撃前夜)



 海軍中尉  鮎川幸男

  (神風特攻・笠置隊、大正12年3月30日生。海軍兵学校71期。昭和19年11月25日、比島パラナン岬にて戦死。21才) 


 最後の通信

 前略 11月の始め松山から大分へ基地を移動しました。○月○日を

期して南方第一線に出撃致します。もとより生還は期していません。もしもの時はよくやってくれたと褒めて下さい。松山では戦闘機隊に隊長、分隊長合わせて4人居たが今残っているのは私一人です。

 我々戦闘機乗りは如何にすれば立派に死ねるかを考えています。荷物は〝トランク 1、軍刀 1〟大分の水交社に置いておきます。元気で帰れば自分で運びますが、もしもの時は水交社の人に家へ送ってくれるように頼んでおきます。では何時までもお元気でお暮らし下さい。

                                     敬具

 父上様

 母上様                         幸男


○木野中尉は昭和18年に戦死をしていて、神風特別攻撃隊となっているが、神風特攻は19年の10月からであったので、何処かで誰かが間違ったのであろうと思うが。従って書かれているものも遺書ではなくて、前に姉から送られて来た手紙に対する返書である。

 出身校の同志社高等商業は戦後、同志社大学商学部となった。手紙の中で海軍予備航空隊へ入隊したとあるが、このような名称の航空隊は聞いたことがないので、当時学徒出身の予備学生で航空機搭乗員の志望者を入隊させたので、仲間同士で予備航空隊と言って居たのかも知れなかった。(当時の手紙の検閲の関係で、具体的な航空隊名を書けなかったとも思われるが)

 其処で海軍精神の一つである〝不言実行〟の教育を受けて、いたく感銘を受けたようであるが。

 木野中尉が戦死をしたマカッサルは東インドネシヤの大都市で、其の上空に進攻してきた米軍の戦闘機と戦って、撃墜されて戦死をしたのであったろうが、改めて御冥福をお祈りするものである。


○中別府二飛曹、生んで育ててくれた母親に対する感謝の念・言葉の数々。しかし『母さん、戦争終わったよ。もう隊に居なくてもいいんだよ。これからは親孝行するからね、母さん』という言葉を母親は、世の母親はどれ程待ち焦がれたことか。

 しかし我が子は〝いくら待っても、自分の命が尽きるまで待っても、遂に帰って来なかった〟無情!。


○海軍兵学校71期の鮎川中尉は、我々78期生の分隊監事として、日夜指導教育をしてくれた方々と同期の桜である。

 71期生は昭和14年に581名が採用されて57%の人が戦死している。この前後のクラスの人たちと同じく、卒業即戦場へのクラスであった。

 昭和20年4月我々の分隊監事となられた71期の方々は、既に大尉になられていたが、とても22・3才の方々とは思えなかった。常に眼光炯々として吾等生徒の一部始終を見通すが如く、全く〝油断も隙も無かった〟

 我々は終戦となったあの年に、6ケ月にも満たない期間ではあったが海軍で、人間形成の為の教育指導を受けたことを〝生涯の誇り〟に思っている。改めて鮎川中尉の御魂に〝敬礼!〟です。