海軍特別攻撃隊員の遺書 (水漬く屍) 36 | 針尾三郎 随想録

   海軍特別攻撃隊員の遺書 (水漬く屍) 36

 海軍大佐  有賀幸作

  (海上特攻・戦艦大和艦長、明治30年8月21日生。海軍兵学校45期。昭和20年4月7日、九州南西海面にて戦死。48才)


 正章殿

愈々勉学の好期となり大いに努力していると思っている。

身の鍛錬も怠らざる事肝要なり。

予定の志望を変更せず、大いに精神を集中し、動揺せずに努力している事と思って安心しているが如何。

残る所3ケ月余だ 光陰矢の如し 油断せず努力せよ 但し身体には十分注意せよ お前の意思が動揺せず一心に勉強せば 必ず月桂冠を獲得し得るものと確信している お前の成否は弟妹に及ぼす処も大なり 責任の重大なるを思い 不撓の気力を以って努力せよ

 成功と健康を祈りて

      28日      父             (注・長男への遺文)


 

 海軍中尉  中西達二

  (神風特攻・常磐忠華隊、大正12年5月25日生。海軍兵学校72期。昭和20年4月12日、南西諸島ケラマにて戦死。22才)


 72期諸官へ

 串良基地(鹿児島県)に無事到着して翌6日、菊水一号作戦に参加した部隊を送りました。

 宇佐・姫路空を以って編成した九七艦攻(艦上攻撃機)特攻隊30機と、小生の所謂教え子の吉岡中尉の率いる天山特攻機10機でした。皆元気にニッコリ笑って出発しました。我が戦友、野中繁男もやや体の不調を押して出て征きました。小生の教えた飛行学生・予備学生・練習生が沢山出て征きました。

 小生も近い内に征くとは知りながら、送る身としては涙を禁じ得ませんでした。かの歌にある「送るも征くも今生の別れと知れど微笑みて」という文句、しみじみ味わいました。顔で笑って心で泣いて約3時間にわたって出発した特攻隊を送りました。

 6日の戦果はもう公表になったと思いますが、大戦果をあげました。海軍1日50機、陸軍60機の特攻隊の大部分が体当たり成功でした。百里基地(茨城県)の艦爆隊も輸送船団に突入した模様です。艦攻機40機のうち数機の外は全機空母及び戦艦に体当たりしました。

 小生共、愈々明10日菊水2号作戦の唯一の艦攻特攻隊として出撃します。飛行機の調子もよく、搭乗員の元気も上々です。我に天祐神助あり、必中疑い無しです。キット空母に体当たりします。列機をつれて行きますので、必ず轟沈し得ると確信しています。戦果の発表を楽しみにしていて下さい。

 長い間色々御世話になりました。至らぬ小生が何度か皆様に迷惑をかけたことを、ここに御詫び致します。

 こちらに来て一層日本の危機を感じました。敵の物量は我々の考えていたよりずっとずっと凄いものです。未だ敵の空母は約20隻この近海に遊弋(ゆうよく)しています。7日我が海上特攻隊なる「大和」を基幹とする、殴り込み部隊が九州・指宿(いぶすき)沖で敵艦上機の攻撃を受け、駆逐艦3隻を残して全部轟沈、撃破されました。既に帝国海軍水上部隊は全然なく、はた又、航空部隊もありません。夜間攻撃に行って今朝帰って来た天山を、その日の薄暮攻撃に又使用するという現状です。

 帝国海軍の最大の航空兵力は、我々10航艦特攻隊と思われます。それも既に12連空は殆ど底をはたいた有様です。残るは11連空のみです。陸軍特攻隊は殆ど頼みになりません。去る6日の攻撃の時も陸軍特攻隊の殆ど全機が、喜界ケ島に不時着して攻撃をしなかったという状況です。陸軍の関東軍は既に九州防衛の為に続々とやってきています。小生はこれではならぬと思います。敵を九州に上陸させては皇国は滅亡すると思われます。

 これを食い止める者は兄等12連空の残存部隊だと思います。どうか兄等益々自重されて時到らば必ず、莫大なる敵を撃滅されんことを願います。小生一足先に地獄に赴き兄等の奮戦を楽しみに待ちます。

 では呉々もごきげんよう。後を願います。

    4月9日   串良にて          中西達二


 坂元中尉へ私信として同封ありしもの。

 先日の写真は勝手ながら「ネガ」も一緒に小生の家へ送ってやって下さい。明日は「敵機だ、空母だ、戦艦だ」の歌を唄いながら突入する考えです。小生あの晩から彼の歌を唄い続けです。機上でも、地上でも、本当に良い歌です。

 此処には永田大尉が居られます。毎日攻撃に出ていますが、その余暇には一緒に飲んで話しています。彼が私の出撃を非常に惜しんでくれますが、本当に良い教官でした。何時まで経っても。貴兄も特攻隊になっている旨伝えたら、やっぱり惜しんで居ました。

 貴兄の御奮闘を見守ります。では御大事に。 さようなら。

                                 中西中尉

   (注・坂元中尉とは戦後、東大医学部教授になられた 坂元正一氏である)



 海軍大尉  三橋謙太郎

  (第1回桜花特攻・神雷隊、大正12年10月24日生。海軍兵学校71期。昭和20年3月21日、南西諸島方面にて戦死。22才)


 拝復 茂夫・千恵子よりの御手紙嬉しく拝見致しました。愈々新しき発足も間近く其の意気其の元気で頑張って下さい。

 こちらはその後極めて元気で毎日猛訓練に邁進致しておりますから御安心下さい。何と言っても敵米英の必死の反抗に対し、我等日本人も必死の戦いをせねば、皇土を万代の安きに置くことは出来ません。

 昔の神風は人事を尽くして天命を待つの賜物(たまもの)ですが、今亦果たして必ず皇土を守る神風があるか、勿論神国日本には、必ずあると思いますが、それは人事を尽くしての上の事です。

 今の有様を反省して、もうこれ以上出来ないと言う域に達して居りましょうか。日本人の一人一人がくたくたになるまで努めなければ、この戦いに勝ち抜くことは出来ません。日本人はまだまだ余力があると思います。その余力がなくなる迄、頑張らなければならぬ時です。今や敵は間近に我が本土を窺わんとしております。今こそ立つべき時です。

 茂夫も千恵子も、今こその意気に燃えて本分に邁進して下さい。

では、父上、母上、姉上に宜しく伝えて下さい。体に注意して益々奮闘せられんことを祈ります。

                                兄より

  3月5日

 茂 夫・千恵子 殿



○有賀大佐は長野県の出身で、昭和19年(1944)11月に戦艦大和の5代目の艦長に任命されている。有賀大佐は〝これでいい死に場所が出来た〟と手放しで喜んだという。なにせあの当時3000名の兵員が乗り組む世界最大の戦艦である。同期の中では出世頭であったと思う。

 しかし翌20年4月7日、沖縄での特攻作戦を目指した大和は、九州の南西海上でアメリカの艦載機の波状攻撃により撃沈され、有賀艦長も大和と運命を共にした。改めてご冥福をお祈りする次第である。

 拙ブログを開けて頂くと〝戦艦大和についての概略(3・2・1)・吉田 満という人について・映画「男たちの大和」を見て〟等など書いてありますのでご一読頂ければ、改めて〝戦艦大和〟をご理解頂けるかと思います。


○中西中尉は海兵72期。前にも書いたが昭和15年の採用で、625名のうち54%が戦死している。


○三橋大尉は海兵71期。大和で戦死をした臼淵大尉と同期。再度我々78期生を分隊監事として教育をしてくれた方々と同期である。

 71期生は昭和14年581名採用、戦死率57%。72期生共々改めてご冥福をお祈りするものである。