海軍特別攻撃隊員の遺書 (水漬く屍) 37 | 針尾三郎 随想録

   海軍特別攻撃隊員の遺書 (水漬く屍) 37

 海軍大尉  関 行男

  (第1神風特攻・敷島隊、大正10年8月29日生。海軍兵学校70期。昭和19年10月25日、タクロバン沖の敵空母に突入し戦死。23才)


 西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけ致し、不孝の段、お許し下さい。

 今回、帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐるものはありません。

 鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、其の御恩に報ゆる事も出来ず征く事を、御許し下さい。

 本日帝国の為、身を以って母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に

 父上様                              行男 

 母上様


 教え子へ(第42期飛行学生へ)

   教え子は 散れ 山桜 かくの如くに


○関行男大尉は、兵学校の70期、昭和13年に433名が採用されその66%が戦死をしたクラスであった。そして関大尉は第一次神風特攻・敷島隊の隊長として敵艦に突っ込み、名誉の戦死を遂げ2階級特進で中佐となって軍神とされた人であった。

 その関大尉の事が一番後になってしまった。それは次のように関大尉について書くことが多かったからであった。

 私が関大尉のことについて?と思ったのは、昭和の44年か45年の頃ある書店の店頭で、〝丸〟という月刊雑誌に関大尉の事が書かれていて居るのを見て読んだ時からであった。


 それはフィリピンの陸軍の特攻隊の基地で一人の隊員の人が、其の基地から特攻隊が撤退をするについて、大忙しの最中に、海軍の特攻隊員であった関という人に会ったという内容の記事であった。

 その内容は、海軍の飛行服を着て飛行帽も被っている人が近づいて来て、撤退の事で二・三話のやりとりをした後で、『俺は海軍の関だ』と言い『特攻で出たがエンジン不調で不時着した。今更帰るわけにも行かんので、何処か死に場所を探さねばなるまい』と言って立ち去ったという内容で、その時その関という人の飛行服の標識や記章などは全部剥ぎ取られてあったという。


 この記事を読んで私は〝フーン!なんだこれわ?〟と思った。しかし嘘でこんな記事を書いても、なんの得にもならないが、でもこの記事を読んで〝成る程そうだったのか?〟と思う人も居ないだろうとも思った。関大尉は特攻で敵艦に突っ込んで壮烈な戦死をして軍神になっている。しかし陸軍の特攻隊の人も自分の名前まで出して、嘘の記事を書かせる必要もなかったろうとも思ったが。そして確か発行所は光人社だと思ったが、光人社も〝何かしら真実さを感じさせるものがなければ〟記事にするわけがない。しかしあの時点では、到底其の記事の内容を信ずる気持ちにはなれなかったので私は読み捨てた。

 後になって〝失敗したな、買って置くんだったな〟とは思ったが。


 しかし其の後昭和48年にはグァム島で横井庄一氏が発見され、さらに其の翌年にはルバング島で小野田寛郎氏が救出された。そして其の後フィリピンのある島で、島民とは違う長身の男が云々という新聞記事があって、当時の厚生省は捜索隊を編成をして一応の捜索はしたが〝島民の情報の確度が低い〟として捜索は打ち切りとなった。

 私は〝まさか関大尉が?そしてそんな馬鹿な!〟とは思ったが。


 最近になって、あの頃の陸軍の特攻隊はどうであったんだろうかと思って、〝隼のつばさ・宮本郷三著・光人社〟を検索で出して買って読んでみたら、なんとその146頁の所に〝軍神は生きていた〟という見出しで、著者が関大尉と会った時の状況が書いてあったので、まさにビックリ仰天であった。次はその概要である。


 其の時期は昭和20年の1月の11日以降になる筈だと言う。その日著者を含む4人は、公園の芝生の上に座り込み、マニラから脱出のために、マニラを出て行く車は来ないものかと四方八方に目を配っていたという。

 突如前方に一つの人影が現れたという。そしてその人影は静かに近づいて来たという。4人は一様に奇異を感じて其の人影を凝視したという。その人は長身で整った顔をしていて、海軍の飛行服を着て飛行帽までかぶって居たという。しかし階級章も付けていないし軍刀も持っていなかったので軍属の人かと思ったら、その人が著者に向かって

『俺は関だよ』と名乗ったという。


 一瞬〝関?〟っと思ったが、『関大尉殿ですか?、あの神風特攻隊の・・・・』と聞いたら、その人は嬉しそうに『そうだ』と答えたという。

 著者は驚きのために暫らくの間、口がきけないでいたら、それと察して関大尉なる人が、話してくれた内容は次のような事であったという。

 『俺は確かに攻撃目標を発見して、急降下をした。そして無意識のうちに爆弾の投下ボタンを押した。その後は目標すれすれに離脱したが、機関をやられていたので、近くの島に不時着した』と。

 そしてこうも言ったという。『そのうちに戦果もデカデカと発表にもなるし、今更201空に還るわけにもいかないし・・・・。今の俺は所属部隊もないし、階級もない。言うなれば幽霊だよな・・・・』と、そしてハハハ・・・・と淋しそうに笑ったという。

 著者はその時〝これは本物の関大尉に間違いない〟と確信したという。話の内容はつじつまは合うし、第一こんな時期に、何もわざわざ嘘を言うために人前に出てくる人間などいるわけがない。


 著者の言う、関大尉の話は以上のようなものであるが、著者は思い切って、これから先どうするのか聞いてみたら関大尉は次のように言ったという。

 『そうさなぁ・・・。まさかこのまま生きているわけにも行くまいし・・・・。そのうち何処かに死に場所を求めて、其処で死ぬよ』と。

 そして『陸軍の佐々木伍長も生きているよ』とも言ったという。佐々木伍長とは陸軍特別攻撃隊万朶隊の一員で4度の生還を繰り返したことで有名であった。関大尉は当時其の事を知っていたことになる。

 そしてこの著者は、戦場には常に誤謬と偏見が付いて回るのが常であるから、敵の戦闘機と闘いながらの直掩機の戦果の報告が、虚報だったと断ずるのは酷であると言っている。そして彼等も精一杯真実を報告しようと努力したのであると。

 そして著者はこの後しばらくしてから関大尉と別れたというが、関大尉は多分〝マニラ攻防戦〟を死に場所に選んだのではないかと言って居る。

 この著者の宮本郷三氏は昔の福島高等商業学校から陸軍に入った人で、甲種幹部候補生で工兵から航空に転科した人で、昭和19年8月フィリピンのネグロス島の戦闘機搭乗員として配属され、翌20年の9月米軍の収容所へ入所21年6月復員。と、なっている。大正10年10月12日札幌の生まれ。終戦時24才。


 私は前に関大尉は特攻に行く途中にエンジンの故障で、不時着したものとばかり思い込んでいたが実際はそうではなくて、特攻々撃の時に被弾をして不時着をしたわけで、それらの不明をお詫びを致します。


 私は日本海軍の飛行機による特攻の本拠地であったマバラカットというのは、どの辺りに在ったのかと思って検索をしてみたら、マニラの北方80キロの地点に在った事が判った。

 そして更に〝神風の風景2006-12-21〟というのを検索をして見たら関大尉が、同盟通信の小野田政特派員に次のように語っていたことも判った。

 『僕のような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ。やらせてくれるなら、僕は体当たりしなくても500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中させて帰ることができる。僕は明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛の妻のためにいくんだ。僕は彼女を守るために死ぬんだ。どうだ、すばらしいだろう』と。

 私は、これは、関大尉の本音であったと思う。10月の22・23・24日と連続出撃しても敵艦隊に遭遇しなかった。だから敷島隊は基地に戻ってきた。それを上官の一部の者は詰ったと言う。

 それでなくても、あの当時の関大尉は悪性の下痢に悩まされていたようで、日々連続の出撃で気力・体力の限界に来ていたのではとも思うが。それでも25日の出撃の時は、上官のある者は『関!もう戻ってくるなよ』と言ったという。

 第一次の特攻隊に連日戻ってこられては、指揮する側の面子が立たないという事からだろうと思われるが、しかしこれでは誰しも、素直に突っ込む気にはなれない。

 昭和19年の9月頃と思われるが関大尉は、台湾の基地に赴任するまでは艦爆(艦上爆撃機)の搭乗員であった。艦爆とは急降下による爆撃を主とする飛行機であった。従って関大尉にとっては、同盟通信の特派員に言ったように、急降下爆撃は〝お手の物〟であったわけで、ましてやゼロ戦による特攻では250キロの爆弾を使ったようであるから、関大尉にとっては、尚更、急降下爆撃というのは、そんなに難しい事ではなかったわけで、爆弾を抱えたまま突っ込むなどという事は、必要はなかった事になる。


 艦爆から戦闘機への搭乗の変更はないわけではなかったという。しかし士官搭乗員については異例の事であったという。であるから関大尉が台湾の基地からマバラカットの基地へ赴任した時は、マバラカットに居た予科練出身の下士官の搭乗員達は〝関大尉は台湾から特攻隊長含みで来た〟と言ったという。


〝図子英雄著・母の碑(いしぶみ)・新潮社〟によれば、上掲の関大尉の遺書は、関大尉が台湾の基地からマバラカットへ赴任する時に、実家の親元に居る自分の新妻に宛てて送った遺品の中に、入れられてあったものであるという。であるから父上・母上様というのは妻の父母という事になる。

 関大尉の実父という人は、関大尉がまだ兵学校の生徒であった昭和16年の2月に死んでいる。

 因みに関大尉が結婚式を挙げたのは昭和19年の5月30日、東京・芝の水交社で、新妻なる人とは、その妹さんが出した慰問袋が縁で知り合った中であったという。

 この遺書を見ると関大尉の場合は、既に台湾の基地に居るうちに特攻隊長として決められていたわけで、であるから関大尉は台湾の基地を出る時に、自分の妻に宛てて遺品と遺書を送ったと〝母の碑〟には書かれている。

 であるから下士官の搭乗員達が『関大尉は特攻隊長含みで赴任してきた』と言ったのは、全く其の通りであったことになる。


 とに角〝母の碑〟を読んでみると、夫々の人物の名は仮名にはなってはいるものの、関大尉の家の中の事情が、即ちプライバシーに関することまで、実に細かく詳しく書かれているのを見て、少しばかり驚かされた。もっとも著者である図子英雄という人は愛媛県生まれの人であるというから、関大尉が生まれ育った西条の地域社会の様子や事情を、よく知っていたであったろうから、あれだけ詳しく色々な事が書けたのであったろうが。

 尤も著者も〝あとがき〟で〝可能な限り事実を踏まえているが、虚構も交えて作品化したことを付記して置きたい〟とも言ってはいるが。


 それからかなり前に、ある外国の女性が関大尉のことを書いた本が出版されたことがあったが、私はあの本を新聞で見て早速に取り寄せて最後まで読んで見たが、外国の女性にしてはよく此処まで関大尉を分析的に書いているなとは思ったが、結局は今に至るまで心に残るような印象的な所はなくて、唯一つ私があの本で印象的に残った所は〝関大尉という人は母一人・子一人〟という淋しい境遇で育った人であったという事であったが。あの本は他の図書と一緒に古書店に持って行ってしまったので、今は手許にはなくあの著者の名前も憶えてはいない。外国の女性があれまでに書くのは立派なことだとは思ったが。

 改めて〝関中佐〟のご冥福をお祈りして終わりとする。 合掌