針尾三郎 随想録 -3ページ目

   海軍特別攻撃隊員の遺書 (散る若桜) 22

 海軍二等飛行兵曹  山口一夫

  (神風特攻・第3御楯隊、大正14年6月24日生。第12期甲種飛行予科練習生。昭和20年4月6日、南西諸島方面に於いて戦死。20才)


 我今より死に就かんとす

    何も云う事なし

 生前の御不幸の数々をお許し下さい

   父母様



 海軍中尉  渡部一郎

  (神風特攻・右近隊〈戦304飛〉、大正12年3月9日生。海軍兵学校71期。昭和19年10月26日、比島タクロバン水道にて戦死。22才)


 御手紙有り難う

 元気で勉強居る由、兄ちゃんも元気。毎日軍務に服している故安心してくれ。

 毎日海水浴に行っている由、真っ黒になっていることと思う。大いに体を鍛えて早く兄ちゃんの後に続け、其れまでは御両親様の言われる事をよく守り、兄ちゃんの分まで孝行をしてくれ。

 兄ちゃんもしっかりやるからお前もしっかりやれ。 さようなら

                                         (注・弟良次君への遺文

謹啓

 長らく御無沙汰いたしました。内地はもう寒いことと思います。

 私相変わらず元気旺盛、敵撃滅に奮闘中です。さてこの度選ばれて当隊よりの特攻隊長として、今より敵空母撃滅に向かう事となりました。男子の本懐之に過ぐるものはありません。これまでにして下さった御苦労は明日の戦闘に於いて、必ずや敵空母の轟沈となって花を咲かす事と信じて居ります。

 天祐神助我にあり、必ず成功します。

 お父さんお母さんの側で孝養を尽くすことは出来ませんでしたが、大君の御為します。末永く御元気に御暮らしの程を大空より祈って居ります。

 忙しいので皆様に手紙を書く暇もありませんから、お父さんお母さんから宜敷御伝へ下さい。麟伯父さんには特に御世話になりましたから呉々も宜敷。其のうちに私の部下の名も分る事と思いますが、部下の遺族の方々にも宜敷。

   さようなら                         一郎

天皇陛下万歳  海軍航空隊万歳

   父上様  母上様   

          10月26日



 海軍少尉  今西太一

  (回天特攻・菊水隊、大正8年5月27日生。慶応大学経済学部。昭和19年11月20日、ウルシー海域にて戦死。25才)


 お父様

 フミちゃん

 太一は本日、回天特別攻撃隊の一員として出撃します。日本男子と生まれ、これに過ぐる光栄はありません。勿論生死の程は論ずるところではありません。私達は今の日本が、この私達の突撃を必要としているという事を知っているのみであります。

 上御一人に帰し奉るこの道こそ、太一、26年の生涯に教えられた唯一のものであり、そのままの生き方をなし得る今日を喜ぶものであります。連合艦隊司令長官は、私達に短刀を下され、出撃を祝して下さいました。また長官は只今内地においでにならぬと言うので、海軍大臣がこの短刀に護国の二字をしたためられ私等所属の艦隊司令長官より、伝達されました。

 最後のお別れを充分にして来るようにと、家に帰して戴いた時、実のところはもっともっと苦しいものだろうと、予想して居たのであります。しかしこの攻撃をかけるのが、決して特別のものではなく、日本の今日としては当たり前のことであると信じている私には、何等悲壮な感じも起こらず、あのような楽しい時を持ちました。坂本竜馬、中岡慎太郎、木戸孝允と先輩諸兄の墓に詣で、ひそかにその志に触れたと思ったのでありました。何も申しあげられなかったこと申し訳ない事とも思いますが、これだけは御許し下さい。

 お父様、フミちゃんのその淋しい生活を考えると、なにも言えなくなります。けれど日本は非常の秋(とき)に直面しております。日本人たる者、この戦法に出ずるは当然の事なのであります。日本人としてこの真の生き方の出来るこの私、親不孝とは考えておりません。淋しいのはよくわかります。しかしここ一番こらえて頂きます。太一を頼りに今日まで生きてきて下さったことも充分承知しております。それでも止まれないものがあるのです。

 フミちゃん、立派な日本の娘になって幸福に暮らして下さい。これ以上に私の望みはありません。お父様のことよろしく御願いします。私は心配をかけっ放しでこのまま征きます。その埋め合わせお頼み致します。他人が何と言えお父様は世界一の人であり、お母様も日本一立派な母でありました。この名を辱しめない日本の母になって下さい。この父と母の素質を受け継いだフミちゃんには、それだけの資格があるのですから。何にも動ずる事がない私もフミちゃんのことを思うと、涙を止めることが出来ません。けれどフミちゃん、お父様泣いて下さいますな、太一はこんなにも幸福に、その死所を得て征ったのでありますから、そしてやがてお母様と一緒になれる喜びを胸に秘めながら、軍艦旗高く大空に翻るところ、菊水の紋章も鮮やかに出撃する私達の心の中を何と申しあげれば良いのでしょう。

 回天特別攻撃隊菊水隊、今西太一 只今出撃致します。

 お父様、フミちゃん御元気で幸あれかしと祈っております。

      ますらおの かばね草むすあら野べに

           咲きこそにほへ 大和なでしこ(伊林光平)

 元気で征って参ります。         出撃の朝  太一


○渡部中尉は海軍兵学校71期の人であった。前にも書いたが我々78期生を分隊監事として、日々教育・指導してくれた昭和20年当時大尉であった方々と同期の人であった。であるから渡部中尉も特攻で戦死をしていなければ大尉になっていた人であった。尤も特攻で戦死は全員〝2階級特進〟ではなかったかと思うが、そうであれば少佐という事になる。

 昔から兵学校では後輩生徒の〝躾・教育〟は、最上級生である1号生徒の役目であった。即ち家の中の〝兄貴〟である。したがって1年生である3号生徒に対しては、動作の中止を命ずる〝待てィ〟は日常茶飯事で、そして時には〝鉄拳〟が吹っ飛んできた。

 我々78期生には上級生は居なかったので(針尾分校)、71期の大尉の人がその役目をやった。しかし1ケ部数百名に一人の上級生である。だがその上級生の目は、午前・午後の6時間の課業(普通学の授業)と、夜寝ている時と、日曜日以外は、何処でどう見ているのか我々生徒の行動・動作について、見落としはなかった。

 私も親にさえも、やられたことのないゲンコツを、自分のウッカリで、2度くらった。〝痛かったなァ!〟その分隊監事も昨年の11月85才で亡くなられた。私も〝偲ぶ会〟で一言しゃべらされたが、やはり懐かしかった。

 しかし如何に戦時中とは言え、23才の海軍大尉の〝生徒の教育に対する気概〟は本モノであった。改めてご冥福をお祈りする。

 因みに71期生の採用は昭和14年・581名で戦没率57%、それから神風特攻第1号で戦死をしたとされる関 行男大尉は、70期生で採用は昭和13年・433名で戦没率66%で、とに角これらの前後のクラスがあの戦争の主役であった。


 今西少尉は学徒出身の士官で、しかも〝慶応ボーイ〟であった。そしてその人が遺書にも見られるようにその気概たるや、〝本職負かしの士官〟になってしまった。尤も私の隣の分隊の分隊付き教官であった方は、今もご存命であるが、大阪外語大のご出身でやはり〝本職負かしの士官〟の方であったが、今以て尊敬に堪えない。

 遺書の内容からでは、今西少尉の母親という人は既に亡くなっていたようで、残っていたのは父親と未だ小学生?の妹というような家庭環境の様であるが、それで本人は〝特攻志願で戦死〟では、如何にあの戦時下でも〝親不孝のそしり〟は免れないが、本人は〝死んだ母親に会える〟とも書いているので、遺書だけの文意では窺え知れない、親子・家庭の事情もあってのことかとも思われるが。

 

 







   




 


   海軍特別攻撃隊員の遺書 (散る若桜) 21

 海軍上等飛行兵曹  松元  巌

  (神風特攻・至誠隊、大正10年9月29日。昭和20年2月23日、比島マニラ地区にて戦死。24才)


 長らくご無沙汰しましたが、その後父母様御元気のことと御推察致しております。小生もその後大元気で勤務しております故、御安心下さい。貯金通帳と、写真を同封致しましたから御受け取り下さい。

 1、国債貯金  長崎貯金支局  そ49377     5円

 2、普通貯金  福岡貯金支局  そホ35299  108円65銭

 3、普通貯金  福岡貯金支局  そち19308   25円

 4、普通貯金  長崎貯金支局  そな34864    8円

 4冊とも印鑑なきに付き改印届けと住所変更を郵便局にして下さい。

23日駅にて面会を待っていましたが、電報が未着であったかもしれませんが、残念ながら面会もせず出発します。

 くれぐれも父母様、寒さに向かう折柄御体に気をつけられて長生きして下さい。在満の(満洲)兄姉様にも宜しく。ではさようなら。

   御両親様                  巌より



 海軍一等飛行兵曹  松本智恵三

  (神風特攻・筑波隊、大正12年1月10日生。第10期丙種飛行予科練習生。昭和20年4月6日、南西諸島東方海面にて戦死。22才)


 父母様

  智恵三は元気で突入します。

  郡山の湯浅の母上様の手紙のとおりに、

  23年間(昔は数へ年)御世話になり立派に突入します。



 海軍上等飛行兵曹  尾坂一男

  (第26神風特攻・金剛隊、大正14年2月2日生。第10期甲種飛行予科練習生。昭和20年1月10日、沖縄方面にて戦死。20才)


父上

 拝啓

 皆様御元気ですか、私も元気で軍務に精励して居ます、御安心下さい。便りを長らく致さず失礼致しました。何分の人気者で筆不精もんですから、身の回り品の差し当たりの不必要品を送ります。戦地へ行くのに重荷になるし、又役に立たない物ばかりですから、御面倒ですが保管していて下さい。長い間御世話になりました。両親を始め祖父母様の御恩は死んでも忘れません。数々の不孝のことお許し下さい。子としてなすべき事もなさなかった事を残念に存じます。然し私も海軍の戦闘機の搭乗員です。郷里の名を汚す様なことは致しません。きっと立派に死んで見せます。

 義憲の将来については両親よくよく相談の上お決め下さい。学校の先生の御希望もあるでしょうから其の点十分考慮して下さい。祖父母様のことはくれぐれも宜しく。村長様を始め校長、村の方によろしく、私として思い残すことはありません。大分の中村様に宜しく。

 金銭貸借なし。

 女性関係なし。

 酒を呑んで相当暴れたことはありますが、女の事に関しては全く心に残ることはありません。御心配なく。



 海軍一等飛行兵曹  橋爪和美

  (神風特攻・第21大義隊、大正13年8月18日生。第32期飛行練習生。昭和20年6月7日、南西諸島方面に於いて戦死。21才)


 いよいよ我も悠久の大義に生きる時が近づいた。今更思い残す事なし。只一死国に捧げ、皇恩の万分の一に報いん。一機以って一艦船を沈め、大君の御心を安んじ奉らん。又兄の仇を取らん。

   決戦下の若桜は

       敵の首五・六百土産に

           靖国の神門を入らん


        遺書・遺品

  1、 家督は弟茂君に譲る事

  1、 保険金は両親同配なる事

  1、 葬儀は簡素なる事

  1、 一家円満なる生活をなす事

  1、 親戚初め近所の人々に生前の御恩を謝す

  1、 長官より下されし短刀一振り・飛行マフラー1本・・・・同包


 貞子、芳子、芙美子よ、

 親に孝行を頼む。兄の分もな、兄は正巳兄さんの所へ行き、お前達を守るであろう。兄は喜んで死ぬ。両親に心配をさすな、兄の亡き後も一層慰めてくれ。

 そして良き女、良き一人前の女となってくれ。一家の健康を祈る。終わり。

 何時まで書いてもキリがない。〝天皇陛下万歳〟俺達が死ななければ一億が滅びるのだ。其処を考えて悲しむでないぞ。


最初の松元 巌という人は、年令から言っても、予科練?の早い期の人であったろうと思われるが。かなり堅実派の人柄であったようで、残して行く親達の生活の為の貯金、心に沁みるものがある。

 当時は戦争の末期とて、食糧も何もなくなってしまった頃だったが、それでも〝一文無し〟では、生活は出来なかったわけであったから。

 あの頃は町でも村でも資産家か、商売をしている家でもなければ電話などはなかったので、だから〝急な用件は電報〟しかなかったわけで、しかしそれも親達が留守か何かで、駅で待っていた時間には親は来なかったようで、出動してしまえばもう〝生きては会えない〟ことが判って居ただけに、生涯最後の心残りであったことは、理解できる。

 そして当時満州へ行っていた兄や姉にも宜しくとあるが、あの当時は満州は日本の植民地であったわけで、そして日本の国そのものが貧しかったので、一家揃っての生計が、成り立たない家庭が多く、男は軍隊に志願をするとか、その他の者は外地である満州などへ行って生計を立てる人たちが多かったわけであった。

 このような日本の国の勢力の拡張を、欧米の列強が警戒をするようになったのが、〝あの戦争のそもそもの遠因〟でもあったわけで、貧しい資源のない国が、〝一人前の国になる為に、突き当らなければならなかった壁が、あの戦争〟であった。その意味では〝日本民族にとっては、運命の別れ道の戦争〟であったとも言える。

 その意味でも、若くして生きては帰れない〝必死の特攻〟に、従容として散って行った霊に対して、改めて〝弔意〟を表するものである。




 



   海軍特別攻撃隊員の遺書 (散る若桜) 20

 海軍一等飛行兵曹  嶋村  中(あたる)

  (神風特攻・神雷桜花隊、大正15年3月7日生。第15期甲種飛行予科練習生。昭和20年3月21日、本邦南方海面に於いて戦死。19才)


 大正の御代に生を受けしより20年、かくまでに御愛育して下された御恩を今茲に慎みて御礼申し上げます。

 皇統三千年の名誉ある帝国の歴史を永代に継承し私は、大君の御馬前に散るの栄誉を得ました。武人の本懐これに過ぐるものはありません。これより私は笑いながら歌を唄いながら散って征きます。

 今春、靖国神社に詣でて見て下さい。そこには幾多の戦友と共に、桜花となって微笑んで居ることでしょう。

 私は笑って死にました。どうか笑ってください。泣かないで私の死を意義あらしめて下さい。

    大君の辺にこそ散らん桜花

           今度咲く日は九段の社(やしろ)



 海軍少尉  久家  稔(くけみのる)

  (回天特攻・轟隊、大正12年4月11日生。大阪商大出身。昭和20年6月28日、マリアナ海域に於て戦死。22才


 俺らは、俺らの親を、兄弟を、姉妹を愛し、同胞を愛する故に、彼らを安泰に置かんが為には、自己をも犠牲にせねばならぬ。

 祖国敗るれば、親も同胞も安らかに生きてゆくことは出来ぬのだ。我等の屍によって祖国が勝てるなら満足ではないか。

 

 突撃直前に

 基地隊の皆様へ、艇の故障でまた三人が帰ります。一緒にと思い仲良くしてきた6人のうち、私たち3人が先に行くことは、私たちとしても淋しい限りです。

 皆さん御願いします。園田、横田、野村(戦友の名)皆初めてではないのです。2度目、3度目の帰還です。・・・・・・・この3人だけは直ぐ又出撃させて下さい。最後にはちゃんとした魚雷に乗って、ぶつかる為に涙を呑んで帰るのですから。どうか温かく迎えてやってください。御願いします。

 先に征く私に、このことだけが唯一つの心配ごとなのです



 海軍一等飛行兵曹  杉本徳義

  (神風神雷特攻・建武隊、大正15年6月9日生。第17期乙種飛行予科練習生。昭和20年4月3日、沖縄周辺海域にて戦死。19才) 


 自分は一時の感激、名誉、及び名を残すために死を選ぶのではなく、我等は日本民族の興亡を救う最大の途と思ってやるのである。

 然るに何ぞや死は愚かなりとは、我等は伊達や酔狂でやるのではないぞ、咲いて散るのが桜の花で、散りて咲くのが人の華、南郷校生徒諸君、我らの先輩朋友は大日本帝国のため、しこの御楯として大東亜の空ににっこりと笑い散り征きたり。我も征く、切に祈る君等の我に続かんことを。

 いよいよ皆さんこれでお別れ、長生きなされ、いついつまでも。わたしゃ九段のよいとこせ桜花。オーサヨイトサノセ。

 皆さん永久に御元気で。では征きます。そして帰ってきますよ白木の箱で。泣くな嘆くな必ず帰る、桐の小箱に錦着て。



 海軍少尉  大谷邦雄

  (神風特攻・宇佐八幡護皇隊、大正12年3月29日生。京城帝国大学〈韓国〉、昭和20年5月4日、南西諸島にて戦死。22才)


 お母さん喜んで下さい。お別れして帰隊してみると、邦雄は立派な死に場所を与えられていました。明日は元気で突っ込みます。目標は敵の空母か戦艦です。5月4日午前9時、桜花と競う時刻です。

 何も言うことはありません。ただただ有り難う御座いましたと、22年間のご養育にたいして、御礼を申し上げるのみです。

 私はお母さんが、邦雄よくやったと、褒めて下さるだろうと思っています。親類のみなさんに宜しく。広島にもお伝え下さい。

      たらちねの母のみ恵みおろがみて

                仇の艦群撃ちて砕けん



 海軍二等飛行兵曹  藤村  勉

  (神風特攻・第一護皇隊、大正14年9月9日生。第18期乙種飛行予科練習生。昭和20年4月6日、沖縄周辺海上にて戦死。20才)


 遺書無し 遺言無し

 神州の不滅を信じ

 己が本分に邁進し

 悠久の大義に生く

        咲く桜 風に任せて散り行くも

            己の道ぞ 顧みはせじ



             



     




   海軍特別攻撃隊員の遺書 (散る若桜) 19

 海軍一等飛行兵曹  西本政弘

  (神風特攻・神雷建武隊、大正12年8月1日生。第11期甲種飛行予科練習生。昭和20年4月11日、沖縄鬼ケ島附近にて戦死。22才)


 私の短刀は、連合艦隊司令長官海軍大将豊田副武閣下より賜りたるもの、長官は最後までこの短刀を持参することを御希望の由なるも小生敢て残します。弟達或いは未だ見ざる子孫達の忠誠心を誓う一助ともなれば、小生の望みは満つるものです。短刀入れの箱を作る心算でいましたが意に任せずそのままです。作って大事にしまって置いて下さい。次に神雷鉢巻を頭に締めて、左手にぐっと短刀を握り、出陣の朝整列した勇姿、心気澄み切った感、想像できますでしょう。では大事に御暮らしあれ。                   政弘

   贅沢だ 花より先と思ひしに

          又も見て行く あの桜花



 海軍中尉  川久保輝夫

  (回天特攻・金剛隊、大正12年9月22日生。海軍兵学校72期。昭和20年1月12日ホーランジアにて戦死。22才)


      回天金剛隊の歌


 1、沖の島過ぎ祖国を離れ    敵を索(もと)めて浪万里

   空母戦艦唯一撃と       今ぞ征で立つ金剛隊


 2、流れも清き湊川の       旗の光をいま承けて

   先に征きたる菊水隊の    挙げし戦果に続かばや


 3、聖戦(おおみいくさ)も4年の春を   南の海に迎えつつ

   必勝のとき今来れりと         先ず魁けん金剛隊


 4、若き血は湧き肉踊るかな       挺身必殺醜敵を

   砕き沈めて千代八千代にも     すめらみくにを護りなん

   すめらみくにを護りなん



 海軍少尉  岡部平一

  (神風特攻・第2七生隊、大正10年生。台北帝国大学出身。昭和20年4月12日戦死。24才)


 昭和20年2月22日ー日記からー

 遂に特別攻撃隊員となる。来るべき30日間余の真の人生なるか。時機到るかな。死ぬるための訓練が待っている。美しく死ぬるための猛訓練が。悲壮なる祖国の姿を眺めつつ余は征く。全青春を30日間にこめて人生駆け足に入る。


 出撃を旬日にひかえて、

 自分は一個の人間である。善人でもない悪人でもない。偉人でもなければ愚人でもない。飽くまで一個の人間である。最後まで人生を憧れの旅に送った漂泊者として、人間らしく、ヒューマン・ドキュメントと諦めの裡に終わりたいと思う。


 雑音の多過ぎる浮世であった。

 たった一人の偉大なる指揮者が居なかったために、遂に喧騒極まりない社会を出現したのであった。もっと理性的な落ち着いた人間社会が建設されなければならぬ。


 我等は喜んで国家の苦難の真っ只中に飛び込むであろう。吾等は常に偉大な祖国、美しい故郷、強い女性、美しい友情のみの存在する日本を理想の中に確持して敵艦に粉砕する。

      今日の務めは何ぞ  戦うことなり

      明日の務めは何ぞ  勝つことなり

      凡ての日の務めは何ぞ  死ぬことなり

 吾等が黙って死んでいく様に、科学者も黙って科学戦線に死んで戴きたい。この時始めて日本は戦争に勝ち得るのであろう。若し万一日本が今直ちに戦争に勝ったら、それは民族にとって致命的な不孝と云わねばならない。生易しい試練では、民族は弱められるばかりである。

       潔く散りて果てなむ春の日に

             われは敷島の大和さくら子


○岡部という少尉の人が、『絶対に軍の方では誰も読まないから、家族に宛てて、思いのたけの遺書を書け』と言われたら、この人は〝どんな遺書を書いたであろうか?〟と、非常に興味深い。

 失礼ながら学徒出身で24才であった。昭和18年の学徒動員で、軍に行かねばならないとなった時点で、既にあの戦争に対しては〝二言も三言も〟あった年代であった。

 特攻隊員とされて〝死なねばならない立場に立たされて、口惜しかったと思う〟合掌です。





                          

   海軍特別攻撃隊員の遺書 (散る若桜) 18

 海軍上等飛行兵曹  小松  武 

  (神風特攻・御楯隊、大正13年1月10日生。第16期乙種飛行予科練習生。昭和20年2月21日、硫黄島に於いて戦死。21才


 出撃に際し一筆書置きの事。

 待ちに待った晴れの出撃を明日に控えました。突然で些か慌てましたが、大いに張り切っておりますので何卒御安心下さい。

 生を享けて21年、なんの恩返しも出来ず誠に申し訳もありません。何卒御許し下さい。国家の為に散って行く事を最大の孝行としてお受け下さい。私が戦死したと聞いたら、赤飯をたき、黒い着物など着ず、万歳を叫んで喜んで遺骨を迎えて下さい。

 骨は二つに分け、半分は小松の父、半分は西村の父の何れも墓の側に埋めてください。しかし多分骨はないものと思いますから、体操シャツ一枚送ります。これは昭和17年7月12日土浦航空隊に天皇陛下が行幸された時に使用した記念すべき品です。私と思って大切にして下さい。

 今となっては別に言い残すことはありません。とにかく、命のあるうちは徹底的に頑張りぬく覚悟で居ります。必ずや敵空母の一隻や二隻は沈めて見せるつもりです。

 取り急ぎ乱筆になりました。感無量で何も書けません。これでペンを置きます。

 随分と御元気で何時までも暮らして下さい。岸本の小父さん小母さんたちに宜しく。では御機嫌よう。さようなら。

  母上様


 愈々お別れです。

 大いに頑張りますから御安心下さい。小さい時に皆さんと喧嘩したことが楽しい想い出になります。

 3人で力を合わせて私の分までお母さんを大切にして下さいね。お願いします。

 皆様に多幸あられんことを祈って居ます。さようなら。

    秀明

    久子   様               武

    常子



 海軍一等飛行兵曹  浦上  博

  (神風特攻・第一白菊隊、大正15年10月6日生。第18期乙種飛行予科練習生。昭和20年5月25日、沖縄南西諸島方面にて戦死。19才)


 母上様、姉上様、いざ沖縄へ出撃です。

一機一艦、必ず轟沈です。

 今、出発の30分前です。

月の明かりで走り書きしましたから、乱筆となりましたが、御許し下さい。

 昭和20年5月24日、徳島にて。



 海軍少尉候補生  野元  純

  (神風特攻・第2護皇白鷺隊、大正12年生。東京商科大学出身。昭和20年4月12日、戦死。22才)


 急命により○○に進出し、明日の出撃を聞き感新たなり。俺が来た為に○○候補生が攻撃のメンバーから除かれた。気の毒に堪えず。悲喜交々とはこの事か。人間何時かは死するものなり。死期を選ぶに運命以上のものあり。明日こそは腕に自信あり、力の限り敵艦に突っ込み、護国の大任をまっとうせん。中西兄とも遂に別れるときが来た。

〝諸行無常、 盛者必滅、 会者定離(えしゃじょうり)〟更に未練無し。

 2月末特攻隊編成されて以来訓練を重ね、漸く出撃の機を得ました。出撃にあたり〝死を急ぐな〟等の言葉をよく受けましたが、凡て天命です。

 私の信ずる道に向かって突進します。この20有余年の長い間、本当に種々お世話になりました。心から御礼申し上げます。15年間の学校生活が今こそ実を結びます。皇国の有り難さをつくづくと身に感じます。搭乗員である私のこの気持ちが本当に判って戴けると信じて、明日の成功を期しています。

 些か急でしたので、親戚・恩師・親友、すべてに出状できませんので、折あり次第に各位に出状御挨拶を御願い致します。

  父様 母様


 時間がありませんので乱筆にて失礼します。何も申しあげることはありませんが、最後の最後まで選抜されて元気で出撃です。僚機は既に出発しました。これは飛行機の蓋の上で書いています。誰に恨まれることも無ければ、特に喜ばれることもありません。平常と何も変わることなく、平常心のままで落ち着いて突っ込む覚悟です。長い間本当に種々お世話になりました。なんと言って御礼申し上げてよいやら分かりません。海山よりも高い御恩は突っ込むことにより、必ずや御報いできると信じます。

 宏三、茂生の勉強をくれぐれも御願い致します。人生に勉強を抜いたら何も残らないことは確かです。ぼんやりする時間を、出来るだけ少なくするよう教育して下さい。姉様は何も心配事はありませんね。本当に安心して征けます。すべては父様母様のお陰です。私も突っ込むことにより幾分でも祖先に報いられれば満足です。

    平常と何等変わらぬこの気持ち

          国を思うと同じかるらん

 では、さようなら。


○昭和17年に土浦海軍航空隊(予科練)に天皇陛下が行幸されたことを、小松 武氏の遺書で始めて知りました。おそらく当然に隣接の霞ヶ浦航空隊にも行幸されたと思いますが、あの当時は、一般にも報道されたのかどうか?。なにせ日米開戦の2年目ですから、戦意高揚のために、大々的に報道されたかも知れませんが。

 私などは県立の中学に入学したばかりであったので、〝天皇の行幸〟などは、知らなかった、のであったろうと思います。

 しかしそれから5年経った昭和22年には、前にも書きましたが、敗戦後の国民を鼓舞すべく天皇は全国を回られて、東北からの帰りに当地にも寄られて駅前で我々の歓呼に、応えられましたが。

 失礼ながら学徒出身の野元 純氏が、ここまでの遺書を書かれたとは驚きました。本来は軍人志望であったのをご両親などの反対で、東京商科の方へ進学されたのかな?、とも思いますが。

 私は78期生として在校中に、極めて身近に〝アンチ海軍の学徒出身の中尉さん〟が居まして、この人については一番最後に書いておくつもりですが、ですから野元氏の〝遺書〟を拝読して、感銘した次第でした。





  

   海軍特別攻撃隊員の遺書 (海の防人) 17

 海軍二等飛行兵曹  高瀬  丁(つよし)

  (神風特攻・第9建武隊、大正15年1月12日生。第12期丙種飛行予科練習生。昭和20年4月29日、沖縄本島東方海上にて戦死。19才)


 母上様

 丁は愈々出撃します。今更何も悔いはありませんが、暖かく愛しい母上様の御恩も果たさず征く事が残念でありますが、唯皇国に命を捧げる丁を褒めてください。

 母上様、丁は死すとも魂はなお留めて皇国に尽くします。お嘆き下さるな。丁はこの壮挙に参加出来て嬉しいです。武人の本懐です。

 母上様、永く永く御幸福に御暮らし下さい。

 丁は母上様の御写真を胸にいだいて、必ず立派に死す覚悟です。

   出撃の日                     丁


 妹よ

 兄は今、死に場所を得て、武人の本懐と勇んで征く、必ず立派な死に方をする。

 妹よ、この兄死すとも嘆くなかれ、五体はなくとも魂は、いつもお前たちのもと悠久の大義に生きている。嘆かず頑張ってくれ、祖国の為に。

 妹よ、お前たちは帝国海鷲の妹なるぞ、兄の死に方に恥じないよう、何事も頑張ってくれ。父母上をたのんだぞ。兄が残す最後の言葉は、父母に孝、君に忠をつくせ、のみだ。

 妹よ、たのむぞ、兄は勇んで死んで征く。妹よ、体を大切に永く永く幸福にくらしてくれ。

 お前たちの面影を偲びつつ征く。

  出撃の日                    兄より



海軍大尉  上別府宣紀(かみべっぷよしのり)

  (回天特攻・菊水隊、大正10年2月11日生。海軍兵学校70期。昭和19年11月20日、パラオ・コッソル水道海域にて戦死。23才)


   妹に宛て

 ナオチャンゲンキデスカ、アイカワラズ、ゴホンヲヨンダリ、ジヲカイタリ、シテイマスカ。ダイブオジョウズニナッタデショウネ。

 ミンナマイニチガッコウニイッテシマウノデ、サビシクアリマセンカ。ナオチャンモ、モウジキガッコウデスネ。コノアイダ、ゴホンヲアリガトウ。マイニチヨロコンデイマス。

 トキドキオテガミヲクダサイ。オネイサンヤオトウサン、オカァサン、ソレカラオバァサンニモヨロシク。ダンダンサムクナリマスカラ、ネビエヲシナイヨウニ、デハサヨウナラ。

  ナオコチャンヘ                 ヨシノリ


 御手紙有り難う。目出度く卒業の由、何よりと存じます。愈々怒涛の人の世に出て一人前の女性として国に尽くせることは、大いに喜ぶべきと同時に、責任の重大なる事を深く肝に銘じなければいけないと思います。

 開国以来の国難に際会せる我々日本国民各自の毎日の生活そのものが戦争であり、国家の存亡を担っているのです。戦争は決して我々軍人のみで行うものではありません。〝冬来たりなば春遠からじ〟厳寒の冬を過ごして桜花爛漫の春が来ると同様、あらゆる苦境を忍び、一途に光明の彼岸に邁進するところに我々日本人の生甲斐があり、生命があるのだと思います。

 それから、先日送られてきた写真は、転属の途中ごたごたにまぎれて行方不明になりましたので何卒御了承下さい。しかし若人の溌剌さに満ちた姿に思わず微笑しました。

 あの写真の中の誰やら忘れたが手紙が来たのに、多忙に取り紛れ未だに返事を出していませんから何卒宜しくお伝え願います。〝女泣かせの中尉さん〟もいよいよ来月1日からは三っ桜(大尉)となります。益々責任も加わり、且つ働き甲斐のある生活が出来ます。では今日はこのへんでやめます。

 京子殿  昭和19年4月27日


〝回天出撃〟参考写真。



  海軍少尉  本井文哉

   (回天特攻・金剛隊、大正14年11月26日生。海軍機関学校54期。昭和20年1月12日、ウルシー海域にて戦死。20才)


   我が遺すもの

 拝啓 私死すとも先祖代々の墓のほか、決して私だけの墓を造らざるようお願い申しあげます。

 尚葬るべきもの一つとして無き故に、私の毛髪をここに入れておきます。これを本井家の墓に収めて下さい。

 必ず私の魂は御先祖様の下にかえります。

そして永久に皇国の隆盛を祈ります。            敬具


 (昭和20年1月10日夜、戦死の前々日、妹の昌子さんに書き残した手紙)

 今自分が征くにあたり、唯一つ気がかりになるのは家の事です。お父様は若い頃から随分苦労されました。私の軍人志望は小学校時代からの私の望みでありましたが、私が中学校に入って、よりその決心を強くさせたものが一つありました。それはその当時既に父は老いてきて居られました。

 私はこれ以上父を働かせて大学まで行く気にはどうしてもなれなかった。また家としてもその余裕がないのもよく知っていました。軍人は一人前になることも早いのも知っていました。そして父も早く私が一人前になるのを望んで居られました。

 昭和16年遂に大東亜戦争になりました。一国の興亡をかけての戦い、我が祖国の戦い、私はその時にもう家なんかどうなっても良いと思いました。

 長男としてあまりにも無責任だったかも知れません。私の父母は本当に立派な父母でした。私に「自分の進みたい方へやりたいままやれ。家の事は考えないで存分にやれ」と、いつも私を励ましてくれました。私はそれ故私は安心して此処へ来たわけです。

 人情は浮薄なものです。人に頼るな。これから本井家はますます困苦となるでしょう。しかし軍国の家は雄々しくそれに耐えてください。本井家をお前が継いでも、弟の文昭が継いでも兄としてはどちらでも良い。ただ一言、後を頼む。小さな文昭を立派に育ててくれ。

 最後に長男として、兄として家に何等なすことも無く、お前に何もしてやれなかったのを残念に思う。お詫びする。

 何時だったか「少女の友」で見たが、南洋の土人は雨降りの日を喜ぶそうだ。それはその後には必ず晴天の日が来るから。それは何日後、何年後に来るか知れないが、必ず来る。よく堪えて頑張れ。

  昌子殿                      兄

     昭和20年1月10日


○回天特攻で戦死をされた上別府という人は、昭和20年に兵学校の78期生として在校していた我々を、分隊監事として教育をしてくれた大尉の人たちの1期上の人でした。

 あの当時の海軍の生徒であった者の一人として、心からご冥福をお祈り申しあげます。                  合掌


 



 


 


 

   海軍特別攻撃隊員の遺書 (海の防人) 16

 海軍二等飛行兵曹  村滝良吉

  (神風特攻・第3御楯隊、大正15年3月10日生。第16期乙種飛行予科練習生。昭和20年4月7日、南西諸島方面に於いて戦死。19才


 前略、相変わらず元気で勤めて居ることと思う。兄もなにより元気だ。母から父の写真を貰ったよ。まだ父の顔は忘れない。お前こそ忘れかけた頃だろう。写真を見た途端に〝お父さんすみません〟と不孝を心で詫びたよ。思えばいい父だったな。お前も父の写真を身につけて、自分の心の中にたるみが来た時には、写真を見て気を引き締めるようにしろ。父の写真を良く見ると何か言って居る。

 兄には国のため、大君の為、人に遅れをとるな、卑怯な振舞いをするな、と言って居るような気がする。お前には、家の事は大丈夫か、母に心配をかけていないか、と言って居ることと思う。何より銃後の女性として頑張れ、又これは父が言って居たことであるが、職を何度も変わる人間は大成しない。自分に与えられた職はどんな小さい仕事でも良い、終始一貫これを大成しろ。


 彼の太閤秀吉は、あの草履取りを日本一の草履取りにならんと工夫したからこそ英雄になったんだ。自分に与えられた仕事に於いては日本一になれ。どんな仕事でも良い、日本一を目指して勉強をするように。又その前途には苦というものがある。その苦を打破して征服することが日本一だ。それが試練だ。歌に

   うきことのなおこの上につもれかし

           かぎりある身の力ためさん

 今だ、人間の全力を試す時は。今日ほど好期はない。

銃後は男より女だ。ソ連では労働者は皆女だ。彼の5ケ年計画は女手で充分出来ている。飛行機の操縦者、自動車の運転手は皆女だ。女で出来ぬ事は何一つない。日本人は昔から奥様・奥様で、奥に引きこもって居たからだ。女が上品とは昔のことだ。又仕事に負けるな、兄から希望する。


 権藤さんや江藤さんや大峰の皆さんにはくれぐれも宜しく言ってくれ。東部の者とも仲良しになったら兄から宜しくと伝えてくれ。母には何よりも心配かけるな。つまらん文句になったが、要するに戦争時の女性として一生懸命に本分に邁進しろと言う事だ。乱筆にて相すまぬ。入島には時々電話でもかけて礼でも言ってくれ。兄は色々お世話になったからな。では身に注意せよ。

  妹へ                          兄より



 海軍二等飛行兵曹  服部寿宗(としむね)

  (神風特攻・菊水天桜隊、大正15年1月1日生。第12期甲種飛行予科練習生。昭和20年4月16日、南西諸島方面に於いて戦死。19才)


 母上様

 寿宗この度選ばれて神風特別攻撃隊第2天桜隊の一員として、明日還らざる攻撃に参加致します。

 栄えの攻撃に参加できること、男子の光栄之にすぐるものはありません。我、海軍航空隊に身を投じてより早や二星霜、その間我々は如何にすれば立派に死ぬることが出来るか、立派に陛下の御楯として散ることが出来るかという事のみを念頭に置き、今日まで訓練いたしてまいりました。その甲斐あってか幸いにも男子として、この上なき立派なる死所を得たことを、感謝している次第であります。


 顧みますれば我現世に生を享けてより20星霜、御両親の愛の手一つで育まれ、今日海軍に籍を有する身となりました。その間子として何等孝養も致さず死して行くのが、残念で残念でたまりません。この不孝幾重にも幾重にもお詫び致します。しかして小生爆弾を抱き愛機諸共敵艦に体当たり致し、玉と砕け散りたる時の戦果を以って、今までの不孝の万分の一でも御許し致し下されば、小生の喜び之にすぎるものはありません。

 明日散る身を思へど何等之と言って感慨もなく、ただただ幼かりし頃より今日までの我の出来事など想起し、ひとしお感慨深きものがあります。

 田浦ー横須賀ー平塚ー大泉でのこと等、又幼き日空飛ぶ飛行機を見、その音に驚き母上の洗濯中の盥にて大きなコブを頭につくりたる話、よく母上様のお話にありましたが、今ではその飛行機と共に、敵艦と刺し違へんとする身となりましたのには、我ながら可笑しなくらいです。まだ色々な思い出話もありますが。


 我、戦死すと聞かされてもどうか泣かずに立派に死んだと、褒めて下さい。少しも力を落とされるようなことのない様に。そして恭宗や節子に力を落とさせず励まして、しっかり各々の進む道に邁進させて下さい。

 戦地にある父上にはくれぐれも母上より宜しくお伝え下さい。私からは別にお便りは出しませんでした。

 又転属の途中時間もありましたので、大阪にて奥野の叔父様宅を訪問いたしました。叔母様は名張の方へ行っておられ、残念ながらお会い出来ませんでした。しかし叔父様が大層喜んで下さいました。

 母上様からもくれぐれも宜しくお伝へ下さい。

 弟恭宗の将来は尾張の叔父様、奥野の叔父様等と良く御相談の上決めて下さい。恭宗の事のみが唯一の心残りです。どうか恭宗にとって最上の道を選んでやって下さい。お願いします。

 寿宗は桜の花の散る如く、敵艦に立派に玉と砕け散ります。戦地の父上も、私の散った模様をお聞きになられたなら、必ずや「寿宗よくやった」と喜んで戴けると確信致しております。


 母上様・父上様・恭宗殿・節子殿

益々御壮健で何時までも何時までも、御幸福にお暮らしになられん事を、寿宗大空の一角よりお祈り致して居りますと同時に、皆様の輝かしい前途を見守って居ります。では之にてお別れ致します。

 一家の前途に幸あらん事を祈って筆を置きます。永々有り難う御座いました。


○今までの若い人たちの、特に予科練出身の人たちの、親や兄弟姉妹への〝別れの手紙〟を読んできて、特攻に志願をして〝国に対しての忠の義務〟は果たせるが、親に対しては事前の了解などは無しで〝特攻で戦死〟をして、その結果は〝私情では親に先立つ不孝〟になってしまうという〝悩み〟『忠ならんと欲すれば孝ならず』

 そして若年者とは言え〝軍籍に在る身〟とて〝女々しい手紙〟は書けない。であるから〝国の為に特攻で死ぬんだから、泣かないでくれ、良くやったと褒めてくれ、天晴れと笑ってくれ〟という手紙になる。

 しかしこの手紙を後で読む親の想いは、どんなものか。特にその母親の悲しみは。

 前にも書いたが、赤痢にやられて痩せこけて復員で帰って来た私を見て、目から噴出すような涙を流して泣いた母親、そういう母親の悲しみを私は見てきただけに、〝特攻戦死〟した息子の手紙を、母親たちは、どんな想いで読むのか。おそらく最後まで読み通す母親は少なかったと思うが。

 そしてはその母親の命が終わるまで、〝特攻戦死〟した息子への想いは、消え去るものではない。           合掌

 






        

   海軍特別攻撃隊員の遺書 (海の防人) 15

 海軍二等飛行兵曹  西山典郎(みちお)

  (神風特別攻撃隊、大正13年3月24日生。第12期甲種飛行予科練習生。昭和20年3月18日、九州南方海域にて戦死。21才


 謹啓

 皆様御元気で御暮らしのことと思います。

祖父様、お元気でお暮らしのことと思います。帰郷中は色々とお世話になりました。私は毎日元気にやっております。我々もやがて敵と一騎打ちが出来る日が来ると思います。家の名誉にかけて働きます。どうか御大事に。

 父上様、先日は有り難う御座いました。無事お帰りになられた事と思います。私は元気一杯やっております。父上の教訓を守って一生懸命にやって来ます。幸郎(たかろう)の入学のことや其の他弟妹のことはお願い致します。そして無事、陸軍の幼年学校へやって下さい。中学校時代の私の都合の悪いものがないとも限りませんが、後で恥かしいような物がありましたら処理してください。お別れしてから一寸も淋しくはありませんでした。(父親が面会に来た後と思われるが)


 母上様、先般の休暇で皆様の事もよくわかり、又元気でいられる姿を見てすっかり安心をしました。弟妹達とも心行く限り遊べて何の悲しみ、悩みも、毛頭ありません。母上の心も日本晴れとの事で喜んでおります。今から実際に一騎打ちが出来るのです。考えただけでも愉快です。又、玉中から来た者も8名おります。山口、牧島も決して心配には及びません。思う存分世の中を駆け回ってきます。祖父も日露戦争の軍人、父上も軍人、それに私も軍人で実際に役立つ家門の名誉と思ってください。どうか御病気になりませぬようお祈り致します。

 幸郎君、今、目前或いは最中か、一大難関を突破せよ。そして、まず幼年学校に突撃されよ。一番大切なのは体だ、体なくては何の用にも立たぬ。

 1、父上・母上に兄さんに代わって孝行すること。

 2、兄弟仲良くすること、決して洋光(ひろみつ)、紀光(のりみつ)を泣かせるな。

 3、身体を無理せぬよう勉強すること。但し1番にならなければ何にもならぬ。

 4、家の手伝いをすること。

 雅子(つねこ)ちゃん、元気で勉強して下さい。母さんの言われることを良く聞いて一生懸命に。洋光・紀光と仲良く遊んでやりなさい。母さんが心配せぬようお手伝いするんですよ。


 洋光サン、ユビヲ五ツカゾエルト一年生デスネ。トウチャンヤ、カァチャンノイフコトヲキイテベンキョウヲシテイルデショウ。ノリミツトナカヨクアソンデクダサイ。キュウチョウニナリ、カァチャンヲヨロコバセテクダサイ。オゲンキデ、サヨナラ。

 ノリミツサン、ニイサントオスモウヲトッテ、ニイサンヲナゲタノリミツサンハ、ナカナイデオリマスカ。ニイチャンタチト、ナカヨクシテクダサイネ。マタニイサンガカエッテ、スモウヲトリマショウ。コンドハ、アメリカノヒコウキヲモッテキマス。カァチャンヲコマラセナイヨウニ。


 先般司令官少将朝融王殿下が臨席になり、隊内から数名の練習生が選ばれ御前にて、参謀より試問を受ける光栄に浴しました。母上様どうか喜んで下さい。この新たなる感激を受け、又一層頑張るつもりです。では皆様御元気で、私のことは一切心配されませぬよう、くれぐれもお願い致します。

 御一同様                         典郎


二伸、如何なる難事も最後まで沈着に、いつまでも体を無駄にせず思う存分落ち着いてやります故御安心下さい。又軍刀は脇差で結構です。


○この西山という人も、自分が長男でありながらも〝特攻〟に志願せざるを得ず、そして再び面倒を見ることが出来ない、残して行く両親や弟や妹たち、それらの行く末を案ずる〝兄としての想い〟、もう60数年も経った昔のことだが、やはり〝胸に迫る〟。

 私の親友で、陸軍士官学校に合格して父親に、涙と共に軍には行かないように懇願され説得されて、〝軍への思いを断った男〟がいたが、彼の家の長男の人が徴兵で陸軍の兵となって、ニューギニアの戦闘で戦死をしてしまって、彼は次男であったので父親にとっては〝手放せない子〟であった。

 彼は戦後三度ほど、遺族会の人たちと共にニューギニアの戦跡を訪れて、兄が戦死をしたという所に線香を上げてきたそうだが、私も前にも書いたが、ニューギニアの島々を訪れた時に、土人の部落に在った日本兵の墓に線香を上げてきたが、日本からでは5000キロも離れた島の部落であった。                 合掌



     


   海軍特別攻撃隊員の遺書 (海の防人) 14

 海軍少尉  町田道教

  (神風特攻・第5筑波隊、大正9年11月11日生。九州帝国大学出身。昭和20年5月11日、沖縄海域にて戦死。25才)


 母上に送る。

 新緑したたる晩春の鹿屋(かのや)基地は、今春雨にそぼ濡れてぼんやりと煙っている。さすがに第一線の基地とて、全てが騒然としている中にも活気がある。B29は毎日来襲し爆弾を投下して行く。時限爆弾が時々破裂している。南国九州の春は長けて、燕が煙の中を飛び回っている。時々破れたガラス窓から部屋の中に飛び込んでくる。

 遠くのレンゲ草畑は紫色にかすみ、咲き残りの菜の花が侘しげにあせた色を見せている。矢車草は庭の前に雑然と咲き乱れている。雨の日退屈をまぎらわすタバコの煙が、くすぐったく若緑にまつわっている。

 我が命も明日か明後日で終わりである。

 しかしちっとも切迫した気持ちはない。日常の通りに読んだり笑ったりふざけたりしている。しみじみと詩を吟ずれば、幼き頃の故郷の面影がなつかしく思い出されて、一人母様のことが考えられる。ただ我々子等の為に、その一生を送ってこられた父母のことを考えれば、今更ながら有難さに涙があふれる。


 父は遂に俺の卒業や軍服姿を見ずに亡くなられた。頭はありながら経歴がない為に、あたら一介の僧として終わった父を思う時、尚一層父の心中が察せられ、無い金を無理して学校に出して下さったそのご恩が、しみじみ有り難く感じられる。

 苦労して苦労し切った父上を御安心さすことも出来ずに散って行くことは、深い心残りではあるが、皇国の為に男らしく散ったことに対して、許して下さるであろう。幼き頃よく母の寝物語を聞いて涙を流した俺も、今は何事にも動かない枯れた人間になってしまった。時には我ながら涙の出ぬことがうらめしいことがある。思い切り感激したり、涙を流したりし得たらさっぱりして良いかも知れないと思う。

 しかし九州人の常として一切の感情を押し殺すように教育されてきた俺は、その通りに成長したが、又一面それがうらめしいような感がする。〝夢〟という小説にも書いた通り、悲しみに浸り得ない淋しさがある。逆境に溺れ得ないうらめしさがある。しかも今となって、もがいた所でどうにもなるものではない。26年間の教育が遂に実を結んでかくの如くになったのである。何もやたらに涙を流したり、感動したりすることを欲するのではないが、強い一面涙もろい所もあって支障ないのではないか、というような気がするのである。


 それはともあれ、五月雨めいた小ぬか雨が未だ今日も降り続いている。古い小学校の校庭の紅葉の若葉が雨にぬれて鮮やかな緑を見せている。八手の若葉は雨垂れに破れそうにゆれている。皆語り疲れたのか毛布をかけて寝ている。二つ三つ先の教室からわびしく〝オルガン〟の音が聞こえてくる。兵舎にあてられた古い校舎の屋根から時々ポタポタと雨漏りがしてくる。まったく福岡の5月を想い出す。

 雨戸がしめられて明り取りに一枚開けられ、その近くで母上は良く縫い物をしてくれた。俺たちは所在無さに何か食物をねだっていたものだ。そのうち母上はきっと何かこさへて下さったものだ。あゝ幼き頃の思い出は、実に遠いものになってしまっている。弟恭教は今頃どうしているであろう。矢張り北支(中国北部)に居るか知らん。一度あれの軍服姿を見たいな。そして一緒に母上と歩いて見たいような気がする。母上を安心さして上げたいという望みは、もうなくなってしまった。我らの為に苦労して来られた母上にその報もせず、老後の楽しみも見せず、散り行くのは残念である。俺と恭教の望みを達成してくれるのは弟正教である。素直に元気で大きくなってくれることをひたすら望む。父の意思を貫徹してくれるよう祈っている。


 お母さん、私が散った後は、正教にたのんでやって下さい。平和な楽な家に住んでやって下さい。この戦いに於いて必ず敵を撃滅させるのですから。それから若い盛りの綾子にも大分苦労をかけました。

 化粧もせず、綺麗な着物もきせず、ひたすら家の為に働いてくれることを思うと全く頭が下がります。あれも良い婿さんを見つけてやって下さい。サエ子ちゃんも素直に良い子になるようお願いします。私も靖国神社からそれを祈って居ります。恭教も亦何とも言えぬ体です。彼もやはり私と同じ考えでしょう。決してお悲しみにならぬよう、私は母上方が喜ばれるのが嬉しいのですから、大いにほめてやって下さい。

 くれぐれも御体を大切の程祈ります。さようなら。

 御母上様                      道教拝


○この最後の手紙では、直ぐ下の弟の恭教という人もおそらく陸軍であろうと思われるが、北支へ出征していて、無事で帰ってくるかどうかも判らないから、その後のことは3番目の弟の正教と良く相談しながらやってくれと、母親に言い残している。

 如何に国のためとは言え、先立って行く長男の身で母親の行く末を思い、我が家の今後と妹のことも心残りで、〝特攻で戦死〟の心の決まりはついてはいても、長男であることの〝心残りが偲ばれて〟あの特攻の〝怨〟の部分が思われる。

 この人も〝神風特攻の第5筑波隊〟となっているから、飛行学生時代は茨城県の筑波海軍航空隊で、教育を受けた人ではないかと?。

 今では庁舎などの跡は、桜の名所となっていて、4月ともなれば大変な盛況を呈しているが。            合掌

        

 


   海軍特別攻撃隊員の遺書 (海の防人) 13

 海軍飛行兵長  広瀬  静

  (神風特攻・第5桜井隊、大正15年3月15日生。第1期乙特種飛行予科練習生。昭和19年12月7日、レイテ沖にて戦死。18才)


 お母様どうしてそんなに急いで、黙って逝っておしまいになったのですか。

 お母様がもうこの世にいらっしゃらないなどという事、どうしても信じ得られません。今頃は元気でお暮らしの事とばかり今日(こんにち)まで思っていました。

 真に夢にも思わぬ悲しいお便りを頂き、泣くまいとしても涙が溢れてきて、戦友の前で涙を流しました。

 しかしお母様の死を聞き、悲しい思いに軍務を怠る静ではありません。ご安心下さい。

 お母様、天皇の御為に尽くし、静は立派に戦死する覚悟です。

   美しき花の春をも待ち得ずに

          母はなぜ世逝りにけるかな

    6月13日                 静より

 謹みて今は亡きお母様へ



 海軍二等飛行兵曹  古川光男

  (神風特攻・疾風隊、大正14年10月22日生。第17期丙種飛行予科練習生。昭和19年11月25日、比島海域にて戦死。19才)


 当地は毎日30度40度というに、内地ではもう雪を見る事でしょう。

その後も皆様にはお変わりなき事と思います。小生も熱帯の暑さにも負けず、毎日元気に頑張っていますから御安心下さい。

 馬場の古川は10月立派に戦死しました。詳しい事は言へません。

小生も今度こそは最初で最後の攻撃であるかも知れません。中の写真が着いたら、何処かに飾って下さい。

 11月1日付けを以って二等飛行兵曹に進級しました。喜んで下さい。

 姉さんは嫁に行かれたそうですね。それを聞いて光男は喜んで死んで行く事が出来ます。

 20年間、何も出来ず良く育てて下さいまして、色々と有り難う御座いました。

 この手紙は最後かも知れません。では皆様もお体を大切に暮らして下さい。              さようなら



 海軍二等飛行兵曹  松永篤雄

  (神風特攻・第12航戦2座水偵隊、昭和2年8月19日生。第13期甲種飛行予科練習生)


 私は今従容として皇国の礎となり、春爛漫の桜花と笑って散って征きます。神州大和島根に生を享けて19年、母上様・伯母上様に御面倒をかけたばかりで、何の孝養もお努めも出来ずに征くのが何よりの心残りですが、今悠久の大義に生きる血戦、特別攻撃隊の一人として、沖縄の海に皇国の御楯と死んで征くなら「武人の本望だ」と言って、孝行の端にも入れて下さると信じ、自分の心を慰めて居ります。

 気まま坊主の篤雄も猛訓練の結果、やっとお役に立つ事が出来たのです。日本男児として生まれ、最も働き甲斐のある搭乗員として、国襲う嵐の中の沖縄決戦場に死んでいく栄誉、何の思い残すことがありましょう。澎湃(ほうはい)と寄せ来る太平洋の荒波に醜敵の艦船幾百隻、必中必殺の巨弾を抱ける我が愛機は必ずや敵艦を轟沈、沖縄の海に万朶(ばんだ)の桜と咲かせます。さようなら、お母様・伯母様・孝子ちゃん、すごやかに育ち、心と共に私の後継者たることを誓って下さい。決して泣いて下さるな、笑って下さい。父の仇はきっと私がとって見せます。

 辞世

  悠久の大義に生きん若桜

             只勇み征く沖縄の空

 房姉さんに貰った桐の木は大事に育てて下さい。

家内皆様の御健闘を祈ります。           篤雄


 これは〝予科練生の碑〟である。茨城県阿見町の〝陸上自衛隊武器学校〟の敷地内に在る、〝予科練記念館〟に併設されている。

 記念館内には、此処の土空から巣立って行って、戦死した予科練生の写真が一人づつ額に入って展示されていて、そしてあの関大尉と山本司令との拡大写真もあって、あらためて粛然たる思いであった。


○3人とも予科練出身で、そして3人とも20才未満で戦死している。特に松永二飛曹は、沖縄の特攻で戦死しているから、そして沖縄には昭和20年の4月に米軍が上陸をして、6月の半ばまで戦闘が続いて、その間に松永二飛曹は戦死したと思われるので、そうすると18才にならないうちに戦死したことになる。

 同じ海軍に志願した者の一人として〝なんとも言葉がない〟

このような犠牲の上に、今の日本が在ることを思うとき、あらためて〝心からなる合掌しかない〟。